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第72話 この薄汚い世界で

 冬休み目前となった朝、窓を開けると雪が蕭々と降っていた。


 積もりはしないだろう、風に揺られるほどの微かな勢いのまま、黒いコンクリートに吸われていく。


「しまったな」


 だが、窓を開けた目的は雪じゃない。向こう側に見えるゴミ捨て場だった。


 どれだけ目を凝らしてもそこに見えるのは専用の箱に入れられたビンと缶だ。


 また出し忘れてしまったと、足元に転がった燃えるゴミをキッチンの隅に追いやる。


 雪が降るほどの寒さだし、生ごみが入っているわけでもないからいつ出したって邪魔であること以外たいした支障はないのだが、二週連続で忘れたことによる一種の自己嫌悪に陥っていた。


 捨ててしまえば楽だった。


 捨てなくてよかったと思える日がいつかくるのだろうか。


 未来の自分が今もこのままである保障なんてどこにもなかった。


 変化が怖い、価値観が変わるのが恐ろしい。そう思うのはきっと特別な感情ではないのだろう。


 マフラーを巻いて学校へ向かう。


 一層乾いた空気が喉を傷つけ、服の隙間から入ってくる風が温度を奪っていく。身を縮こまらせながら、それでも足は止めない。


 でも、しかし、それでも、いや。理屈が意味をなさない。最近の俺はこんなことばかりだ。


 自分の中では結論が出ているはずなのに、何故か首を降って別の道を選んでしまう。それが正しいかなんて誰にも分からない。謎の自信はどこから湧いてくるのか、考えると、歩幅が広くなる。


 スマホを見ると一件のメッセージが着ていた。


『今日こそがんばってみる』


 楠木はあれから何度か学校に来ようとしているようだが、玄関まで来るのが限界のようだった。


 最近はすこし遅れて登校して保健室で休んでから帰っているらしい。俺が思うよりも、楠木にとって学校へ来るというのは苦痛を伴うものなのだろう。


 一度保健室の教師に呼ばれたこともある。そのときは楠木が吐いてしまったという報告に俺も心底焦ったのを覚えている。


 それでも楠木は「明日こそ」と力無く笑って見せる。


 俺にできることは背中を押すことだけだった。


『待ってる』


 返信をしてから、校門をくぐる。


 階段には吐き捨てられたガムが黒ずんで付着している。開けっ放しのロッカーからはみ出たモップを見て見ぬフリして通り過ぎていく奴らが落とした使用済みのポケットティッシュ。気付かないはずなどない手すりに置かれた空き缶。


 こんな世界だぞ、楠木。


 お前はこんな悪意だらけの世界で生きるために、吐いてしまうほどの苦痛に耐えてここを目指してるのか。


「よっすサボテン」

「ああ、健人か」


 カバンを首にかけた健人が俺の肩を後ろから叩く。苦しくないのだろうか。


「雪降ったな」

「もう止みそうだけどな」

「その儚さがいいんじゃないか」

「分からん」

「てかなんでサボテンは手に空き缶持ってんだ? げ、それガムか? おあつらえむきにポケットティッシュまで持って」


 俺はガムをティッシュで包んだあとゴミ箱に投げた。すると近くにいた健人が開いていたロッカーを蹴とばして乱雑に閉めた。


「今月って美化活動だったか?」

「あれは11月だけだろ」

「だよな」


 健人が俺の顔をジロジロと見てきて鬱陶しい。俺は階段を一個飛ばして登る。すぐに追いつかれた。俺だけ息が切れていた。


 教室に着くといつも通りの光景が広がっている。自分の席に座り健人と別れると、示し合わせたように一人の女子がこちらに近づいてくる。


「昨日、渡し損ねたから」


 目の前に差し出されたノートには折れ目や擦り傷などが微塵も見当たらない。おそらく新品なのだろう。これが何冊目なのか、10を超えたあたりで数えるのをやめてしまった。


「直接渡したほうが確実だぞ」

「なんて顔して会えばいいかわからない」

「俺だって分からない。押し付けるのはやめてくれ。それに楠木だってそんなものいらないって言ってたし、俺に渡されても捨てるだけだって何度も忠告したよな」


 落ち葉のような色合いの髪を垂らして曇った表情を作る恵は、俺の前から動こうとはしなかった。


「自分がどれだけ無意味なことしてるのか分かってるのか」

「わからない。でも、あの時だって、自分がなにしてるかわからなかった。なんであんな風に嗤えるのか、今思い返しても意味がわからない」

「だから群れる奴らは嫌いなんだ」


 人数が増えれば増える程、気持ちというものは大きくなる。チームワークとか、団結力とか、そんなふうに力が働けばいいのだが、あいにくこの力はそこまで融通の効くものではない。


 謎の自信、謎の根拠。人を蹴落として感じる悦楽と、嘲笑って得る心の均衡。集まれば集まる程それは大きくなり、周りに伝染していく。


「二人でいるときは、絶対、あんなふうにならないのに」


 俺にもそういう現象には心当たりがあった。


 三人以上集まると、途端に態度が変わる奴。二人のときとノリも、言葉遣いも変わる奴。そういう奴は少なからず存在する。


「でも、やったのは事実なんだよ。ひどいことしたのも、わかってる。ちぎった花の感触も、あのときの柚子っちの顔も、覚えてる」


 吐き気がした。


 自分のしたことに自分で後悔して、自分で償い方を探して、自分で許しを乞う。そんなことが許されるのかと思った。


 だが、それは俺だって同じだ。


 どしゃぶりの雨が降ったあの日。


 俺が楠木を拒絶したあの瞬間の、楠木の顔。忘れはしない。


 お前がそんな顔をする権利はないと、あのときの俺は思っていた。憎悪に溢れた心は、方向感覚を見失っていたのだ。


 見るのはそっちじゃないだろう。向きあうべきはそこじゃないだろう。


 それでも俺は楠木を拒んだ。


 楠木がこれまで俺にしてくれたこと、そのすべてを無視して、言ったのだ。


 俺に関わるなと。


「なんであんなこと、しちゃったんだろう」


 恵は唇を嚙みながら、くまのできた目を細めた。


 眠れていないのだろうか、少しやつれているようにも見える。こいつを苛むのは、紛れもない後悔というものだろう。


 スマホが震える。


『ごめーん! 今日もダメだった! 保健室で先生にお湯飲ませてもらってるなう。意外とウマい笑 って、これが目的じゃないからね!? 明日こそは絶対教室まで行くんだから!』


 文面は明るい。それが一層、痛々しさを感じさせた。


「バカがさ、いるんだよ」


 俺は椅子を引いて立ち上がる。


「あんなことされても嫌いになれないなんて、バカげたことを言う奴がいるんだよ」


 ホームルームが始まるまでまだ時間がある。


「友達のことが好きで好きで、周りの人間、取り巻く環境、こんなクソッたれな世界に打ちのめされても、それでも大好きって言えるバカな奴がいるんだよ」


 後悔は一方通行だ。


 今更過ちを悔いたところで、俺たちにできることなどない。


 過ちから学べることなどひとつもない。


 何故ならそれは、偶然から生まれたものではないからだ。


 自分という人間が生み出した、必然の過去を切り捨てるには、自分をまるごと変えなければならない。


 そんなことできるか。


 できないから、苦しくて、悩ましいんじゃないか。


「楠木はここのところ毎日学校には来てる。だけど、いつも途中で具合が悪くなってここまで辿り着けずにいるんだ」


 そう言うと、恵は驚いたように目を開いて、その奥にある水面を揺らした。


「あいつが今欲しいのは、自分の大好きな奴らの声なんだと思う」


 自分で自分を変えることはできない。


 だが、自分が誰かを変えることならできる。


「これは賭けだ。失敗すれば楠木は更に悪化して、もう二度と復学することはできないかもしれない」


 恵の顔を見た瞬間、楠木の希望や勇気、そういったものが崩れてしまう可能性は十分にあった。


 しかし俺としても、この無謀な賭けに興じるしかない。楠木に俺がしてやれることは、もう多くはない。


「裏切り者にしかできないこと、あるよな」


 振り返って問いかける。


 そいつは淀んだ瞳に僅かな光を宿し、しっかりと頷いた。

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