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第70話 霊長目ヒト科ギャル属

「あ」


 アニメイキングを出て駅までの通り、俺たちは少し遠回しをしながら歩いていた。


 物足りなさと、それに通ずる物欲しさが足枷となったのだろう。ふらふらと、なるべく時間を使いながら寄り道をする。


 そんなとき、楠木がカバンからスマホを取り出したのだ。


「どうした?」

「あ、ううん」


 楠木は困ったように笑いスマホを仕舞おうとしたが、直前で手を止めてこちらを見た。


「百合からだった」

「ああ」


 鬼灯はどうやら定期的に楠木にメッセージを送っているようだ。


 俺は楠木と話すよう頼まれてから、ある程度の近況報告はしていたが、それから段々と鬼灯とも連絡をとらなくなっていた。


「見ないのか?」


 そう聞くと、楠木は渋い顔をした。だが、スマホを手に持ったままということは、迷っているということだ。


 たしかに、一度引き籠ったあとに押し寄せてくる外界からの連絡は恐ろしくて仕方がない。用事がどうこうとかは関係なく、そもそも文面を読むことすら怖くなるのだ。それが励ましだろうと、今の楠木には重い言葉なのだろう。


「百合からずっと連絡がきてたことは分かってたんだ」


 楠木はふと、そんなことをこぼした。


「でも途中から怖くなって、通知もメッセージは表示しないようにして、無視しちゃってた。分かってるのに。百合はあたしのこと心配してくれてるんだってこと」

「だろうな。あれだけの啖呵をきるくらいなんだから」


 楠木の目にも、あのときの鬼灯は映っていただろう。普段のあざといとも言える言動を捨てて、上級生に喧嘩を売る姿を。


「あいつ怖いよな。猫被ってるの、楠木は知らなかっただろ?」

「うん。びっくりした。百合、あんな子だったんだね」


 前に見えた信号が赤になり、俺たちは歩道に差し掛かる手前で立ち止まった。


「失望したか」

「ううん。逆だよ。むしろ、あたしのために、怒ってくれたってことだもん。感謝してもしきれないし、どう謝っていいのかもわかんないよ」


 楠木はじっとスマホを見続けた。


 かと思うと、今度は顔をあげて、おずおずと俺の顔を覗き込んでくる。


「ご、ごめん佐保山」

「なんだよ」

「もっかい、ちょっとでいいから・・・・・・手握っててもいい?」


 いい、とは言えなかった。


 別にこいつと手を繋ぎたいと俺は思っているわけでもなかったし、自分から手を差し出したいとは思わなかった。


 無言で手を重力に任せていると、遠慮がちに柔らかい感触が俺の手のひらに集まる。


 手を繋ぐというよりは、握るという形に近かった。


 俺の手にどんな力があるのかは分からないが、ただの石でできた地蔵にすら、人は縋るようになにか特別な力を感じるのだ。肝心なのは、きっと信じる心と、信じたい欲求なのだろう。かといって、本当に地蔵のように扱われても困るのだが。


「佐保山は、前に進みたいとき、どうする?」

「前に進んだことなんてない。俺はただ、怪我しないように歩いてるだけだ」

「運動音痴だもんね」

「ああ」


 高校に入ってから、楠木と初めて会話したときのことを思い出す。


 たしかあのときは、テレビで見た走り方を真似して帰っていたら、足をくじいて転んだのだ。今思えば、自分がひどく幼稚に見える。それほど昔でもないはずなのだが。


「でも、もう転ばなくなったよね」

「そうかもしれないな」

「じゃあ、前に進んだんだよ。たぶん」


 楠木がスマホのロックを外す。家で撮ったらしいオレンジ色の花が液晶に表示され、俺はなんとなく視線を外した。


 深く、決意が色濃く混じる息を吐く。


「無理して見なくてもいいんじゃないか」

「ううん、あたしも前に進まなくちゃ」

「正しいとは限らない」

「それでも、だよ。あたしバカだから分別なんてできないもん。だから・・・・・・ちゃんと向き合わなきゃ」


 手は震えていた。楠木の抱えるものが肌を通じて伝わってくる。


 楠木は慎重に指をスワイプしていく。


 やがて鬼灯とのトーク画面になったのか、楠木は真剣な眼差しでスマホを見ていた。


 上へ、上へ、指は動いていく。上は過去だ。過去を振り返るのは億劫だ。よくない記憶なら尚更で、過ぎたことから逃げるのはいとも簡単なのが質が悪い。自分に厳しくできる人間などさほど多くはない。用意された逃げ道があれば、きっとそこに行き着いてしまう。


 前を向くというのは未来を見据えることではなく、過去を乗り越えるということなのだ。


 たとえ鬼灯から学校に来て欲しいと懇願のメッセージが着てたとしても、無理しないで学校は休んだ方がいいという気遣いのメッセージが着てたとしても。その言葉の裏に隠れた感情の奔流に飲み込まれても、楠木は振り返らなければならない。


「佐保山・・・・・・」 


 すべてのメッセージを読み終えた楠木が、泣きそうな顔で俺を見る。


「なんだ」

「百合・・・・・ずっと毎日、これを送ってくれてたみたい・・・・・・」


 こちらにスマホの画面を向けてきたので、俺もそれを覗き込む。そこには。


『駅の東口から歩いて五分のところに「BOOM」というお店があります。化粧品でも有名ですがファッションブランドとしてもかなり有名みたいで、フェミニン色が強いセレガジ系のものが多いから前に柚子先輩が買ってたカバンに合う服が見つかるかもしれません。URLも這っておきますね』

『「ピアエンゼル」っていうクレープ屋さん知ってますか? 映画館の近くにあるんですけど「雪解けの唇」ってクレープがすごく評判みたいです。なに味なんでしょうネ。URLはこれです』

『「マリオン」ってネイルサロン3000円でできて、一時間で終わるみたいです。安くないですか早くないですか? 休日とかにいきたいですよね。ネイルしてる間って、なんだか気分があがるので好きです。場所はここです』

『柚子先輩! 「フェアリー」で秋のが半額セール中ですよ! 来週までやってるみたいです。場所は、前に一緒にいったからわかりますよね』


 一度も日付が途切れることのない鬼灯からのメッセージが並んでいた。


 信号が青になる。


 いつまでもここで立ち話しているわけにもいかないので、俺は楠木を連れて歩き始めた。


 楠木の言う通り、鬼灯のメッセージは強制する類のものでも、重くのしかかる優しさでもなかった。


 家に篭っている楠木が仕入れることのできない情報を、ひたすらに楠木に送り続けた。それは、心が傷ついている人間にたいして、一番もどかしい距離感にも思える。


「行ってみるか? そこ」


 東口はすぐそこなので、鬼灯の言っていた服屋くらいにはいけるだろう。


 楠木は小さく頷き、俺よりもやや前を歩いていく。


 BOOMという店は俺から見れば外見は派手で、入口に近づくのも億劫だった。だが楠木は、目をキラキラさせたあと、迷いなく入口の自動ドアをくぐった。


 俺も後をついていくが、異様な光加減の内装に気分が落ち着かない。


 それでも楠木は飾られた服やアクセサリなどに惹かれたように歩き、あっちこっちその足は止まらない。


 なんとか付いて行きながら、楠木の背中を見て思った。


 ああ、やっぱり。


 お前はそっちのほうが似合う。


 別にオタクになるなというわけじゃない。どちらがいいというわけじゃない。


 ただ、逃げるためにはじめた趣味と、好きだからはじめた趣味、どちらが輝いているという話になるのなら、やはり後者なのだろう。


 カゴいっぱいに服をいれた楠木と目が合う。


「そんなに買うのか」

「あ、いや・・・・・・もうちょっと減らそっかな」


 照れくさそうに、楠木がいくつか服を元の場所に戻していく。


 レジで会計している楠木を待ちながら、俺は壁によりかかって目の前にあるマネキンを見ていた。


 楽しそうだな。


 マネキンに表情はない。もちろん、声も発さないし、心もない。作り物に服を着せているだけだ。それなのにどうしてそう思ってしまうのか。


「おまたせ佐保山」


 楠木がこちらにやってきて、手に持った紙袋を揺らすと煌びやかに光る黄色の髪が軌跡をなぞる。


「って、あれ、どうしたの? ごめんね、もしかして疲れちゃった?」

「いや、なんでもない」


 俺が返事をしないものだから、怪訝に思った楠木が首を傾げる。


「百合にありがとうって言わなきゃ」

「そんなにいい店だったのか?」

「そうじゃなくて、あ、ううん。それもあるけどさ、ずっとあたしのこと考えてくれてたんだなって」


 そりゃ、突然現れて人の胸倉掴んでくるような奴だ。なによりも楠木を優先して考えていたことくらい、容易に察せた。


 鬼灯がなぜ楠木をここまで気にかけるのか、楠木がなぜ鬼灯を他の女子とは特別視したような目で見ているのか。


 二人の間に築かれた信頼関係のようものの正体を、俺が知る由はない。


 しかし、その不透明な絆が楠木を立ち直らせるきっかけとなったことは間違いない。俺一人じゃ決して無理だっただろう。


 そう思うのと同時、俺はやはり、こいつは腐ってもギャルという人種なのだなと改めて思う。


 霊長目ヒト科ギャル属。


 そいつらの生態は群れて、流行を共有し、毎日根拠のない楽しさに笑い転げる。オタクの俺からしたら天敵とも呼べる存在で、洞窟に差した一筋の光のように、俺たちの網膜を焼き焦がし続けた。


 だがその実体はとても脆く、ひとたび崩れてしまえば立て直すのは難しい、生存競争のワーストを這うような脆弱な生き物なのだ。


 そもそも、そうやってやかましく、眩しい存在にギャルと学名をつけること自体おかしいのだ。


 生まれた時からギャルだった奴なんていない。


 誰もが成長の途中で、人生の途中できっかけと、それから自分の成りたいものや夢、希望を見つけていく。その過程で光り輝くものを自分に纏い、少しでもと近づく存在がいる。


「ねえ、佐保山」

「なんだ」  


 駅のホームで電車を待つなか、隣に座った楠木が耳打ちするような形で小さく声をこぼした。


「オタクも楽しいけど、やっぱり服とかアクセとか、こっちのほうがあたしは好きかも」

「ああ、俺もそっちのほうが似合ってると思う」

「だよね」


 楠木は手に持った紙袋に視線を落とす。


「これはヒメちゃんに合うし、こっちはアッコにぴったり、百合にはこの猫のアクセをあげて」

「って、それ自分用じゃなかったのか」

「あたしのもあるけど、みんなにもおみやげ。いっぱい心配かけちゃったのと、ありがとって気持ちでさ。ミッチーにはヘアゴムたくさんあげるんだ。いっつも前髪邪魔そうにしてるから。それでこっちは・・・・・・こっちのグレーの上着は恵に」


 取り出した服をぎゅっと抱きしめ、楠木が目を閉じる。


「恵は、ちょっと暗めの色が似合うの」

「そうか」

「あはは、お正月におばあちゃんからもらったお年玉、全部使っちゃった」


 楠木のなかで、あの件をどう片付けたのかは分からない。


「あんなことをされたのにか」

「うん。あたしバカだから、嫌いになんてなれなかったみたい」


 踏みぬいたのか、それとも忘れようとしているのか。それは本人の自由だ。俺にとっては納得できないことでも、楠木にとっては正攻法だ。


 たとえ恵の仕打ちが客観的に見て許せないことでも、それでも、許したいと思うそんな不思議な人間がこの世にはいる。


 きっと生きづらいだろう。


 摩耗しながら生きていくだろう。


 それでもその優しさに救われる人間は大勢いる。


 そしてまた一人、救われようとしている。


「佐保山はギャルっぽい服、実は苦手でしょ」

「・・・・・・まぁ」


 否定はできなかった。


 だが、肯定もできない。するわけにはいかなかったのだ。


 どれだけ派手な恰好だろうが、鮮やかすぎる色で取り繕ってようが、その過程に彼女らの人生がつまっているのだと考えると、それを一言で好きじゃないなんて言えるわけがない。


「ギャルって、なんなんだろうね」

「分からないが、こういう奴がギャルだって定義するんじゃなくて、自分がギャルでありたいと思うならそうなれるように頑張れって話なんじゃないか」


 自分でもおかしなことを言ったと思う。哲学を語るなんて百年早い。


「知らないけど」

「・・・・・・あはは、うん。あたしも知らん」


 だが、そんな俺の言葉にも楠木は笑ってくれる。


 やがて電車が着て、俺たちは席には座らず、扉の前で向かい合いながら外の景色を眺めた。


 こんな速さで駆け抜けられたら、きっといろんな景色を見ることができるのだろう。けど俺たちはそこまで目がよくない。


 見えるものも見えない、見なくていいものまで見て、見えるはずのものも見えなくなってしまう。盲目に、不器用に今を生きている。


 そう考えるとやはり、ゆっくり歩いてもいいのかとも思う。


 落ちている大切なものを見逃さないように。


 それに俺は歩く方が好きだ。向かい風に抗うように走るのは、なるべく避けたい。


 俺は今も昔も、運動音痴なのだ。

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