第59話 捨てたい
消えないものはいくらでもあった。
転げ落ちたスクランブルエッグがつけていったケチャップは何度洗っても取れることはなく、洗剤を染み込ませ何度も拭いたが色は残ったままだった。
洗濯を繰り返すうちに赤いシミは薄い黄色の痕になったが、やはり消えることはなかった。
後悔はあった。食べる前に着替えればよかったとか、スマホを操作しながらの食事はよくなかったとか。水道水でシャツを擦りながら数分前の自分の行動原理を振り返り、なぜ危険予測ができなかったのか考えた。結局、意識外での出来事に反応などできるはずがなかったという結論に行き着き、俺はそのシャツを捨てた。
捨ててしまえばあとは楽だった。捨てられるのならば、後悔なんてほんの一瞬だ。
ただ、この世の中そう捨てられるものばかりではない。缶や瓶ですら捨てるのが面倒なのだ。さらにそれよりも強固で、複雑で、日々捻り動き回るものであれば、手放すことは容易ではないだろう。
そういう、捨てることのできない消えないものが非常に厄介なのだった。
帰り道、紫苑に今朝のことを聞かれた。一応、女子同士の喧嘩と説明したが、紫苑は俺と当事者である楠木の接点を気にしているようだった。
お友達ですか? という問いに、俺は首を振った。友達ではないだろう。だからといって、赤の他人というわけでもないが、なら知人というのはクラスメイトを説明するにあたっていささか不明瞭な気がした。
楠木と俺の関係を言い表す言葉が見つからずに、俺は曖昧な相槌で濁すしかなかった。
『あたしは佐保山のことが好きだよ。だから、なに?』
捨てられたらまだよかった。
紫苑と歩いているあいだも、耳鳴りのようなものに何度も悩まされた。
頭の中を駆け巡る鈍重なものについ足元の石を蹴り飛ばすことすら躊躇してしまう。
「それじゃあ、また明日です」
別れの間際に紫苑の笑顔を見ると、濁りきった思考も少しは漂白された。紫苑の後姿が見えるまで見送ろうとするが、あちらも同じ考えだったらしく、遠くからじっとこちらを見つめていた。
通行人が足を前に進める最中、俺と紫苑だけがこの世界で止まっているその景色は、夢にのめりこむような感慨を与えてくれる。
少しの時間、華奢な体を遠目で眺めてから、俺は最後に手を振って踵を返した。
家に着くとまず窓を閉めた。たてつけの悪い網戸であるため解放しっぱなしだと虫が入ってくるのだ。本当は外出しているときも窓を閉めておきたいのだが、二階の窓ということもあって下半分が曇りガラスとなっているのでそういうわけにもいかなかった。
カーテンの隣にちょこんと置かれた鉢を動かす。
これだって、本当は捨てればよかったのだ。
楠木に貰った花。
名前は、リナリア・・・・・・だったか。うろ覚えだ。
育て方もよくわからない。ただ、陽の光は浴びさせたほうがいいだろう。俺はそう思い昼間は曇りガラスの窓を開け放って、この花を窓際に置いているのだ。
楠木はわからないことがあればいつでも聞いてと言っていたが、俺は一度も楠木と連絡はとっていなかった。
一緒にアニメイキングに行った休日の、トーク履歴。『いないよー? 佐保山どこー?』というメッセージを最後に時は止まっていた。
見覚えのある、その凍結したようなトーク履歴が胸を締め付けてくる。罪悪感、なのだろうか。この苦痛に、名前をつけられない。
まるで死んだ人間の生前の明るい姿を見た時のようなやるせない気持ちになる。
ともすれば、いまだに楠木が俺に花をくれた理由がわからない。欲しいとも言っていないし、そもそも俺が花に関心を示したことなど一度もなかった。
いや、しかし、それは楠木にも言えたことだ。あいつがアニメに興味がないような人間であるということは知っている。それなのにあいつはある日突然俺をアニメイキングに誘い、俺の好きな作品を聞き、その漫画を買った。顔を赤くしながらPCゲームのコーナを回ったことはいまでも鮮明に覚えている。
『佐保山の、興味のあるものに・・・・・・興味があったの』
捨てられたらまだよかった。
ウソじゃない。本当なんだ。
楠木は俺のことが・・・・・・。
パステルカラーの淡い花びらをつまむ。
ぽろ、とそれは集団を離れ地面に落ちていった。
「水でもやるか」
花には陽の光と水を十分与えておけばいい。小学校の頃に育てたアサガオもそうだった。あのときは授業のときにしか水をやれなかったが、今はこうして好きなときにやれる。
小さな鉢をキッチンまで持っていき、蛇口を捻る。水が溢れ、土がこぼれる。排水溝に吸い込まれていく茶色いものを眺めた。
また思い出したくもない過去が脳裏をよぎる。
そういえば、楠木のアサガオはクラスで一番元気に育っていた。花なんて水をやるだけなのに、何が違うのだろう。
花を咲かせるのに、必要なものなんて、この水以外になにがあるのだろう。
うーん、真心。
当然、そんなことを楠木本人に聞いたことはない。ただ、もし聞いたとしたらきっとそんなような答えが返ってくるのだろう。
なら俺にだって、真心くらいはある。
どれだけこの花をくれた当人によって心を淀んだものにされたとしても、この花を捨てることはなく、毎日かかさず世話をしたのだ。
それだけで、俺は褒められるべきなんじゃないだろうか。人間同士のいざこざに、この花は関係ない。そうやって割り切れる聡明さを俺は持ち合わせている。
だから今日も、水をやる。
再び窓際に置くが、今はカーテンを閉め切っているのであまり意味はない。
ややくたびれた葉をどけて、土の固さをチェックする。貰った当初はまだ柔らかい土だったのだが、時間が経つにつれて硬さが増してきたのだ。
土の表面。最も太い根のそばに生えた黒い葉に目が止まる。
触れてみると、濡れた紙のように柔らかく、すぐに散って落ちてしまった。よく見てみると、周りにも同じような黒い葉があり、近くでは斑点のついた葉が小さく丸まっている。
俺はすかさず水を追加で注いだ。
風呂に入り、アニメを視聴してから、紫苑と数回のやりとりをして歯を磨く。
明日の準備を終え布団に入ろうとすると、水滴のついた花びらが俺を覗き込むようにこちらに向いていた。
その視線。その佇まい。濡れたまま何かを訴え、ただ、長い間俺から目を逸らすことのない、その同情さえしてしまえるほどの境遇すら感じる寂しく儚い小さな花の姿がどうしようもなく恐ろしく。
俺はすぐに電気を消して布団を被った。




