第58話 返済期日
「んだてめ、一年か? 上級生のクラスに勝手に入ってきてんじゃねえよ!」
「でもぉ、すごい音がしたからぁ、階段まで聞こえてきましたよ~? 誰か怪我したんじゃないかって心配でぇ。あ、柚子先輩。こんにちわ♡」
「おい離せ・・・・・・いって!」
「で、なにしてんすか?」
「あ!?」
「あ、じゃないですよ。なに柚子先輩に手だしてるんですか。あれあれ、この様子。もしかして、あれですか? イジメってやつですか?」
鬼灯はそう言うと、はは、と乾いた声で笑った。
「高校生にもなって、まだそんなことやってんですか? ちょっと頼みますよ先輩方、小中学生じゃあるまいし、こんなよってたかってイジメって、あれ? もしかして道徳の授業全部サボってました? フリョーですね。それとも授業には出てたけど理解できなかった系ですか? うわーそれは大変ですよ。早いうちにどっかの施設でも入って倫理観教えてもらったほうがいいんじゃないですか?」
当然純子は、鬼灯に矛先を向けて手を伸ばす。しかしそれはいとも簡単に振り払われて、その後パチン! と大きな音が教室に響いた。
「てめっ! なんだかんだ言ってそっちが先に暴力振ってんじゃねえか!」
「ええ、当たり前じゃないですか。正当防衛は怪我を負っていなくても成立するんですよ。ほら、分かったらさっさと柚子先輩から離れろ群れることしかできない低能オンナ」
俺はその様子を後ろから見て呆然としていることしかできなかった。
鬼灯はいつも楠木の前では猫を被っているので、おそらくこうした態度を楠木の前で見せるのは初めてなのだろう。楠木も床にへたり込んだまま目を丸くして鬼灯を見ていた。
「どうせだったら私が相手しましょうか? いいですよね別に。だって先輩たちって柚子先輩が憎いからこんなことしてるわけじゃないですもんね。ただ自分たちの心の均衡を守りつつ集団での地位を維持したいから、言い返してこないような優しい人間を標的にしてるだけ。チンパンジーでもそんなことしないはずですけど、きっと進化の過程でどっかに落としてきたんでしょうね。ああ、ちゃんと教えてあげる私ってすごく優しい。どうですか? 答えろよ」
それほどまでに、今まで隠してきた素を剥き出しにするほど、鬼灯は憤りを感じているのだろう。
たまらず純子は鬼灯を突き飛ばした。体の小さい鬼灯は机もろとも倒れるが、それでもすぐに立ち上がり純子に掴みかかる。
自分のために怒ってくれる。そんな人間がいてよかったじゃないか、楠木。
俺にはないものをお前はやはり持っている。それはこれまで純粋に、ひたむきに生きてきた証であり、楠木自身の努力の結果だ。
報われて、よかったじゃないか。
「ぎょわ!? つくしちゃんの机が倒れてる!?」
扉のほうを見ると、今やっと登校してきた杉菜がどんぐりのような瞳をパチクリとさせていた。
「まあそういう日もあるよね。ってあれれ!? 今度は柚子ちゃんが倒れてる! おはよう! まだ寝足りないの?」
杉菜はカバンを放り投げ、床にへたり込んでいる楠木のもとに駆けつけた。
楠木は何かを言おうとしたようだったが、目元を小さく震わせただけで喉からはどんな音も出てこない。それを見て杉菜は「うーん」と首を捻った。
「喧嘩か!」
ぽん、と手を叩いた杉菜が言う。なんというか、無垢な感想だと思った。
「大丈夫ー?」
杉菜は捨てられた猫を撫でるように楠木の頭に触れた。
『ぜーんぶ、許すことにしたの!』
杉菜が前に口にしていた、杉菜なりの処世術を思い出した。それは言い換えれば敵を作らないということでもあり、それと同時、誰の味方もしないということだった。
自分の人生が自分以外の人間に歪められるのが許せない。だから不必要な感情は抱かない。
無邪気な笑顔の裏側には、杉菜の生き様が刻まれていた。
それでも今も言い争いを続けている純子と鬼灯には目もくれない。それは確かに、誰かの味方をしているということだ。触れる手の優しさからそれは見て取れる。
もし杉菜のそういう生き方すら変えてしまえるものが、楠木にあるのなら・・・・・・いや、あるんだろう。
これまで振りまいたお節介という無償の善意が、今この場所で形を変えて返ってきている。
「おい、お前らちょっとやりすぎだぞ」
そこで声をあげたのは健人だった。
乱れた机をかきわけて、純子たちの取っ組み合いを邪魔する。そうして楠木を一度見下ろしたあと、俺の隣に腰かけた。
「その一年生の言う通りだ。高校生にもなってイジメなんて。イジメられたほうの気持ちがわからないわけじゃないだろ」
健人はそう言い放ち、床に落ちた花びらをひとつ拾った。
「手伝うよ」
健人はボロボロの花びらを指の中で遊ばせた。
「すげぇな、サボテンは」
「・・・・・・なにがだよ」
「真っ先に助けに行っただろ。俺もすぐに止めに入りたかったけど、結局後ろから見てることしかできなかった。だからサボテンはすげえって」
「別に助けたつもりじゃない。ただ」
めんどうだっただけだ。
健人は寂しそうに笑ったあと、しわくちゃになった花びらを俺と一緒にかきあつめた。
すぐそばに落ちた楠木の体操着は薄汚れていて、生温い水分を帯びている。知らないうちに、自分の奥歯が軋んでいるのがわかった。
「確かに純子やりすぎだよ。楠木さんかわいそうじゃん」
健人に次ぐように、周りで見ていた奴らもぎこちない足取りで楠木の近くに集まっていく。
「は? あんたら誰の味方なんだよ」
「いやー、さすがに擁護できないな。恵ちゃんもさ、柚子ちゃんの友達だったんじゃないの? さすがにひどくね?」
「あ、いや・・・・・・」
非難されると、恵は表情を歪め後退った。恵の苦痛に腕を抱きしめるような素振りを見た純子は、再びヒートアップしていく。
もう、後戻りができない。そういうような空気を纏っているのは誰から見ても一目瞭然だった。
「サボテン、俺も手伝うよ。ここ拭けばいいか?」
「あ、ああ」
「女って怖いよな」
「ばーか、性別は関係ないだろ」
「本当に怖いのは人間でしたって」
「よくあるオチのやーつじゃん」
集まってきたのはニワトリ族の男子たちだった。
どいつもこいつも同じ髪型で、同じような表情を浮かべ、毎日のように同じ話題で盛り上がっている。
そいつらの自我のないようなトサカが、今はとても心強く思えた。
そうしたやり取りが絶え間なく行われるなか、楠木は床に手を着いたままどうすればいいか迷っているようだった。先ほどまでの勢いはどこにもない。
無理をしていたのだろう。一度途切れてしまえば、再び勢いを取り戻すのは難しい。
「だからうちじゃねえって! それは今関係ねえじゃん!」
「でも純子前も他の子から金借りてたじゃん。あれは返したの?」
「知らねえって、てかなに? うちのこと疑ってんの」
「わたしだって信じたいけど、さすがにこんなことするような人。疑っちゃうのはしかたないでしょ」
「んだとテメ・・・・・・」
攻守逆転。
今は純子が周りから責められる形となっていた。取り巻きも最初は純子の味方をしていたが、自分たちの不利を自覚してから委縮していくように何も喋らなくなった。
同調圧力に勝てるものなどこの世にどこにもありはしない。
俺も、楠木も、こいつらも、それに殺された。
はは、ざまあみろ。
そうやって吐き捨てて、終わってしまえばすべてが解決するのかもしれない。
だってこれは、楠木の功績だ。
楠木がこれまでいろいろな人間に優しく接してきたから、その善意が何倍もの善意になって返ってきている。
俺にはできなかったことを、楠木はいとも簡単に成し遂げた。それは、きっと、どこまでも素晴らしく、素敵なことなのだろう。
あのときの恩を返したくて、あんな優しくしてくれた人に悲しい思いをして欲しくないと奮起し、手を取り合う。見返りとか、そういう報酬紛いのものは誰も求めていなかった。
「俺は・・・・・・」
なら、俺にできることってなんだ。
この場で、まだ返済をしていないのは俺だけだ。
散々お節介を焼かれたくせに、無償の善意を叩きつけられたくせに、その反動はいつまで経ってもやってこない。平坦な感情のその果てで、俺は、何をすればいい。
楠木と目が合う。
その涙ぐんだ瞳が、俺に訴える。
なんだよ。
俺に、これ以上何しろって言うんだよ。
ここまでやっただけ上出来だろ。
お前は助かった。お前が手を差し伸べた奴らに助けられた。
それで一件落着。いいじゃないか。ハッピーエンド。文句はないだろう。
全員幸せだ。
ああ、一部を覗いて。
けど、どんな物語にだって悪役は必要だ。例外はない。
まさか純子たちも助けろと?
ここで「争いはやめて」なんて言えと?
バカか。
戦場に飛び出せば途端に蜂の巣だ。
分かってるだろ。
俺は所詮サボテンなんだよ。
蜜も出さなければ誰かを勇気づけることもできない花の咲かない孤独な生き物に、何を求める気だ。
こうして生えているだけで、充分だろ。
「なんだこの騒ぎは。担任の先生はまだ来ていないのか? あ、ほらどきなさい」
後ろから聞こえる、教師の声。
「はい席に座って。なんでこんな濡れているんだ。花・・・・・・? ガラス片はないようだな。はいはい片付けて。君、一年生じゃないか。早く自分の教室に戻りなさい」
「はーい。ごめんなさぁーい」
鬼灯は猛禽類のような目で純子を睨みつけた後、すぐさま猫をかぶって教師に頭をぺこりと下げる。
「あ、あの・・・・・・天くん」
俺の後ろで、聞き慣れた声がした。暗いトンネルに光が差したように視界が明瞭になっていく。振り返ると、ドアの向こうから紫苑がおっかなびっくり顔を出していた。
「すごい音が聞こえたから、先生を呼んだんですけど・・・・・・迷惑、だったでしょうか」
「いや、助かったよ。ありがとう紫苑」
そう言うと、紫苑はホッと胸を撫でおろして、そそくさと自分の教室に戻っていった。
そうか。紫苑が先生を呼んでくれたのか。
隣の教室まで聞こえるような音が鳴っていることにも気付かなかった。
教師の指示で、集まっていた奴らは大人しく自分の席に戻っていく。健人とニワトリ族も床に落ちたすべての花びらを集めてから撤収していく。
純子は乱れた制服を直しながら、バツの悪そうな顔のまま椅子に座った。杉菜はなにやら楠木の前でトランプを広げて手品のようなものを披露していた。相変わらず意味の分からない奴だ。
教師にトランプを没収され、杉菜はワンワンと抗議しトランプを奪取した後、そのトランプをもう取られまいと机の中に隠してた。
「君、大丈夫かい?」
教師は一人だけ様子の違う楠木のそばに座り、顔を覗き込んでいた。
「担任の先生が来るまで大人しくしていなさい、いいですね」
教師は何かを察したのか、楠木の背中をさすりながら立ち上がらせた。
楠木は視線を床に落としたまま、とぼとぼと教師に付いて行く。
俺の目の前を通る時、震えた声が微かに聞こえた。
「・・・・・・・・・・・・ごめんね」
そのまま楠木は教師に連れられて、教室から出て行った。
ざわざわと再びうるさくなる教室内。
「ねえ、柚子ちゃん大丈夫かな」
隣の席の女子から、何故か俺がそんなことを聞かれる。
なんでわざわざ俺に聞くんだとも思ったが、無視を決め込む気力もないので、俺はぼーっと黒板を見ながら返事をした。
「大丈夫、ではないだろ」
「だよね」
その女子もまた、黒板を見る。
「大丈夫かなぁ」
また同じ心配をしていた。
俺は黒板の下。教壇の足元に落ちている拾い忘れた枯葉を見ながらまた同じ返事をするのだった。
「柚木ちゃんね、私が目悪いの知ってていつも国語の授業が終わるとノートを見せてくれてたの。ほら、あの先生字が小さいでしょ? 失くしたメガネケースを放課後まで一緒に探してくれたこともあったんだ。すごく、助けられたから。私にも何かできることないかな」
もうこの話は終わりにしたかった。
「そう思ってるなら、もっとエスカレートする前の段階で虐めを止めればよかったんじゃないか」
俺が強く言うと、その女子は俯いて「そう、だよね」とこぼしそれ以降は喋りかけてこなかった。
別にこの女子を責めようなんてつもりはなかった。
止めようにもなかなか言い出す勇気が出ないことも、今度は自分が標的にされるんじゃないかという恐怖があったことも分かる。
だから別に、止められなかった人間に非があるわけじゃない。
ただ、なにかにこきつけて寄り添うような作り物の善意に、怖気が走ったのだ。
楠木のくれた善意は、どれも淀みがなかった。
「楠木」
俺は頭を掻きむしりながら、机に映った自分のひどい顔を恨めしく睨み続けた。




