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第51話 矛盾

「あ・・・・・・佐保、山・・・・・・」


 そしてその声も、逸らしているんだか合わせているんだか分からないその視線も、次の言葉を探して少し開いた潤んだ唇も。そのすべてが俺の脳を閃光のように貫き奥の方にしまっていた暗闇を照らしていく。


「保健室に連れていくから、立てるか」


 どう話しかけて言いか分からない俺の心とは裏腹に、体育祭委員だからという建前が頭の中にある無数の定型文の一つを持ってきた。故にそれはあっさりと口にすることができて、


「う、うん。なんとか」


 おぶってやることも、肩を貸してやることも、手を差し伸べることもせずに鉄のように冷たい声を発しただけで終わる。


「じゃあ行くぞ」


 それだけ言って俺は保健室へと向かう。


 振り返ると楠木は足を引きずりながらも一生懸命俺に付いてきている。目が合うと楠木はまた、決まり悪げに苦笑する。


 俺は、そんな楠木を見て思わず舌打ちをしてしまっていた。


 言えばいいだろう、手を貸してくれと。言えばいいだろう、歩くのが早い待ってくれと。それなのに、まるで「迷惑をかけてごめん」などと言いたげに笑うのは何故なのだ。


 俺は地面に転がった石を蹴り飛ばしながら、そのまま速度を変えずに歩き続けた。


 保健室に着き、扉を開ける。楠木は壁に手をついてなんとか付いてきているようだった。


「失礼します。先生、怪我人を連れてきました」


 中へ入ると消毒液のにおいが鼻を付く。


「分かったわ、そこのベッドに座らせてちょうだい?」


 体育祭ともなると怪我をする生徒は多いらしく、見ると保健の先生はいそいそと他の生徒の手当をしていた。


「そこのベッドに座ってろだと」


 遅れて辿り着いた楠木に指示を出してやる。楠木は黙って頷きよろよろとベッドに向かう。


「じゃあ俺はこれで」


 俺の役目はこれで終わり。そう思い扉を閉めようとするが、


「あ、ちょっと待ってくれる? あなた体育祭委員でしょ?」

「そうですが」


 嫌な予感がする。


「今ちょっと手当が追いついていない状態で、見たところその子捻挫みたいだけど。骨折してたら大変だから少し見てあげてくれない?」


 ほら来た。


 どいつもこいつも、他の誰かに頼めばいいものをどうして俺なんかに・・・・・・。


 嫌です。そう一言いえばいいのかもしれないが、さすがにこの中でそんな常識外れな発言をする勇気はない。


 先程の杉菜のような顔をされるのは結構しんどいものなのだ。


「はあ、分かりました」

「ありがとう。そこの棚の上に救急箱があるから」


 そう言って保健の先生は他の生徒の手当を再開した。


 素人の俺なんかに頼んで、どうなって知らないぞ。それに骨折しているかもしれないなら尚更先生が見るべきなのではないだろうか。


 人間っていうのは意外とどこかネジの外れたような奴は多い。この先生もその内の一人で、忙しくなると正常な判断ができなくなるタイプの人間なのかもしれない。


 なんて失礼なことを考えつつ、棚の上に置かれた救急箱を手に取り億劫な気持ちで楠木のベッドに腰かけた。


 俺は救急箱の中から湿布を一枚取り出して楠木の方へ放り投げた。


「ほらよ」 

「あ、ありがとう」


 楠木はそれを受け取ると、靴下を脱いだ。


「・・・・・・」


 先生の視線を感じる。


 なんだよ。その貼ってあげろとでも言いたげな顔は。バカバカしい、俺にそんな義理などありはしない。


「いたっ!」


 すると、隣で楠木が声を上げる。


 どうやら転んだ時に腰も痛めたらしくうまく屈めないでいた。


 時計を見ると、もうそろそろ戻らないと閉会式が始まってしまう時刻だった。体育祭委員は確か最終得点の集計があるから全員その場にいなければいけない。


「はぁ・・・・・・」


 俺は溜め息をついて、


「貸してみろ」


 楠木から湿布を引ったくり、赤く腫れた足首に乱雑に貼ってやった。


「あ、ありがとう・・・・・・」

「骨折してるかどうかは知らんからあとで病院にでも行くんだな」

「うん」


 楠木は子供の様な相槌を打って、俯いた。


 その、派手な外見には似つかないどこか奥ゆかしく委縮したような佇まいにどうも調子を狂わされてしまう。


 そうして少々の無言が続き、俺は立ち上がり救急箱を仕舞う。


「ね、ねぇ佐保山」


 すると楠木が遠慮がちにその小さな口を開いた。


「あ、あのさ」


 一体、何を言うつもりなのかと身構える俺。


 一体、何を言うべきかと目を泳がせ言葉を探す楠木。


「紫苑ちゃんとはうまくやってる?」


 そんな、他愛もない質問。


「な、なんて。ちょっと聞いてみたかっただけ」


 返事をしない俺に、楠木は慌てて弁解をした。


「あ、ありがとね」


 それは何に対しての礼なのだろうか。俺がここまで付き添ったことだろうか。


 違う。


 俺が聞きたいのはそんな言葉ではない。


 俺が聞きたかったのは礼ではなく謝罪。被害者として、加害者に求めて至極当たり前なその言葉を、俺はもっともっと前に欲していたのだ。


 それなのに、こいつはいつも「ありがとう」と意味の分からない礼を述べてきた。それは一体、なんなのだ。


「別に、体育祭委員の仕事だから」


 そう、これは礼を言われるようなことではない。俺はただ言われたから、指示を受けたから行動に移しただけで別に俺の意思ではないのだ。


「そっか・・・・・・それでも、ありがと」 

「・・・・・・」


 楠木は後ろに結んだ黄色の髪を小さく揺らして微笑んで見せた。


「でこ」

「えっ?」

「でこのところも擦りむいてる」


 俺はそう言って、ガーゼとテープを例の如く放り投げる。


「そのくらいは自分でできるだろ」


 楠木は自分の前髪を手で梳いて額に触れた。


「ヘッドスライディングの練習でもしてたのか」

「・・・・・・そんなわけないでしょ」


 むすっと、口を尖らせて。しかしその直後何が嬉しいのか分からない、またしても理解不能の謎の笑顔を張り付ける楠木。


 ふと、汗に混じった柑橘系のフレッシュな香りが鼻をくすぐる。


 においというものは最も人間の記憶に干渉しやすい感覚器官で、それは俺も例外ではない。


 いつだったかも、額にこうしてガーゼを貼った覚えがある。どこかの路地裏で、立場は逆だったが、それは紛れもなく――。


「それにしても、あたし。すごいカッコ悪いよね」


 ガーゼを張り終えた楠木が自分の足を撫でながら自虐する。


「ほんと、カッコ悪い」

「・・・・・・そうだな」

「結構、頑張ったんだけど。アンカーに選ばれて、みんなの役に立てると思ったんだけどダメだった・・・・・・」


 なにかのために汗水流して努力をする。その行為は、確かに恰好悪いかもしれない。


 努力なんて基本的には自己満足の行為でしかない。承認欲求を満たす為にあえて努力を周りにひけらかすような奴もいるが、それも変わらずに滑稽なものだ。


 じゃあ一人でこっそり努力するのがいいのかと言われればそうではない。


 結局他人に称賛されない努力など自分の中でしか解決することはできずに、物事をやり終えたあと自分を納得させる判断材料にしかなり得ない。


 それでもひたむきに頑張る奴は意識が高い、夢見がちな奴だと周りから嗤われて、結果が揮えば見返してやることもできるがそうでない奴は一生荒唐無稽なピエロでしかない。


 故に努力など須く恰好悪いと言えることなのだ。


「みんなに、迷惑かけちゃったな・・・・・・」


 楠木は怪我人ということもあって外履きのまま校舎に入ったが、その外履きはそこかしこに傷があり、必死に練習したことが見て取れる。


 それは本当に紛れもない努力というもので、どうしようもなく格好悪い。


 哀れな奴だ。1人寂しく放課後のグラウンドで走ったりなんてして、しかもそれが自分の為ではなく期待をしてくれているみんなの為だというのだから呆れるを通り越して嗤ってしまう。どこまでお前は――お節介なんだ。


「・・・・・・・・・・・・」


 楠木の溢すような弱音にかけてやる言葉が見つからない。何故、見つける必要なんてあるのだ。


 あっそ、じゃあさよなら。と俺にはてんで関係のない話など放り投げて立ち去ればいい。


 俺はこいつが許せない。憎しみの矛先はいまだに楠木を向いている。だが、その矛には殺傷能力の欠片もなく、ただのなまくらだという可能性も否定できない。


『嫌いになれるほど嫌いじゃなかったんだと思う!』


 杉菜の言った言葉が脳裏をよぎる。


 まさか、そんなわけないだろう。


 だが、自分の否定を、否定できる材料が俺の意思に存在しない。行き場を失い暗闇を彷徨う俺の感情は、いったいどこへ行こうと言うのだろうか。


「じゃあ。俺いくから」


 ようやく出た俺の声。時計を見て、腰をあげた。


「うん、改めてになっちゃうけど」


 背中に投げかけられる声。


「ありがとね」


 負の感情なんて一ミリも感じられない、柔らかく優しい声色。


 悪意なんてどこにもなく、ただ一条の善意であった。


 善意。また善意だ。


 楠木を前にするとそればかり出てくる。こいつの根源は悪意のはずなのに。


 俺は扉を閉めて、静まり返った廊下で立ち尽くした。


 楠木は小学校の時、確かに俺の告白を断り、それを周りに言いふらした。そのせいで俺は好機の目に晒された。考えるまでもない、すべての元凶だ。


 だが、そのあとはどうだ? 俺に水をかける男子。いつも靴を隠す男子。俺の記憶では以降楠木の姿が見当たらない。まさか、いや。忘れているだけだ抜け落ちているだけだ。


 あいつは俺を貶めた。虐められている俺を助けなかった。悪意、悪意だ。あいつには悪意だけ抱けばそれでいい。それ以外の・・・・・・記憶は、思い起こすな。


 たった一度の悪意と、数え切れないほどの善意を天秤にかけるな。


「はぁ・・・・・・」


 なら何故、俺は楠木の額の傷にまで手をかけたのだ。それはどこから生まれたものだ。まさか、無償の善意とでも言うのか。今までされたことへのお返しだとでも言うのか。


「戻るか」


 あまりにも矛盾して秩序の崩壊した行為と思考に溜め息をつきつつ、俺はグラウンドに戻った。



 閉会式を終え、俺は体育祭委員の仕事でテントの片付けを行っていた。


 ちなみに順位は一位が青組。二位が赤組でその後に白、黄の順番である。


 一位と二位は本当に僅差で、最後のリレーが勝敗を分けたのは誰の目で見ても明らかだった。


 俺はテントの無駄に太くて思い棒を倉庫に押し入れてさっさと戻ろうとした時、どこからともなく聞こえてきた声に足を止めた。


「あーあ、体育祭終わっちゃったねー」


 見るとそれはどこかで見覚えのある、クラスの霊長目ヒト科ギャル属だった。


 クラスメイトを見覚えのある、なんて簡素なもので片づけてしまう自分に呆れてしまいながらも俺はその後ろを通り過ぎようとした。


「てかさーマジで最後の、ありえなくない?」

「わっかる、せっかくアンカー任せてやったってのにさー。絶対アイツのせいでアタシら負けたよね」


 その会話に、思わず足を止めてしまう。


「思いっきり転んでやがんの、マジウケる。ダサすぎかよ」


 そうしてケラケラと醜い妖怪のような嗤い声を辺りに轟かせる魑魅魍魎。


 あぁ、努力っていうのはこういうものだ。


 結果がついてこなければ頑張りなど評価されるはずもなく、何も知らずに他者を蔑むこういう輩にバカにされるだけなのだ。


 まぁそれでも、別にこいつらは悪くない。その陰口も、陰湿で寒々しい物言いは全く理にかなっている。


 だからその行為は正当で、誰かが噛みつくような案件でもないはずなのだ。なのだから、俺がそこで口を開くなど絶対にあってはならないこと。俺がそこで、腹の底が煮えくり返るなどあってはならないこと。


 人と関わるな。それ以上は。足を突っ込むな。面倒事には。


 誰かのために、頑張る姿を思い出すな。いつだって自分のことよりも誰かを気にして、そのくせいざ自分のことになると不器用に笑うあの顔を思い出すな。


 朝早く起きてまで作ってくれたあの味を思い出すな。


 俺を受け入れてくれて、自分を卑下する俺を叱ってくれた夕暮れの事を、思い出すな。


 思い出してしまったら、俺はもう、自分の正しさと、正しい故の誤りに気付いてしまうから。


 誰よりも優しいはずの人間が、陰でバカにされているのを許せなくなってしまうから。


 だから。


「ダサいのは、お前らだろ」

「は? ちょっとアンタ、今なんて言った?」

「ダサ、いんだよ」


 声が震える。複数の尖った視線が一斉に突き刺さる。


「なにあいつ、キモ」

「てかサボテンじゃん。あれでしょパシられてたんでしょ」

「あぁ、なる。だっさ」


 口から出たのは、ひどく青臭いもの。


 努力した者を嗤うお前らのほうがよっぽどダサい。そういう意図が汲み取れる台詞。


 偽善と正義に溢れた反吐の出るような言葉だ。


 言わなくていいことを言うな。波風立たせずに静かに生きろ。もうそれ以上、人に関わるな。 


 何度も何度も自分に言い聞かせた。


 その度に、いいや違うと振り払った。


 俺の感情がどういったものだろうと、この世界において正しいとされるものは決して変わらない。楠木が、誰かに嗤われていいはずなどどこにもなかった。


「努力もしねぇで責任誰かに押しつけて自分たちは安全な場所から眺めて、いざ失敗したら寄ってたかって陰口かよ。知らないだろ、あいつが毎日放課後、日が落ちてもグラウンドを走り続けていた事。知らないだろ、あいつが期待してくれたみんなの為にって一生懸命頑張ってた事」

「はぁ? なにそれ、てか誰も期待してねぇし」


 厚化粧が、山姥のようだった。ニィ、と笑い。それに追随して他の者も笑う。


 俺はもう、言い訳などできなかった。


 苛立ちを覚えていた。


「だとしてもだ、お前らに楠木をバカにする権利などない。いますぐ撤回しろ」

「ふーん」


 一番濃い金髪のリーダーらしき女が俺を見て、面白そうに表情を歪める。


「わかった。サボテンの言うとおり今のは撤回してあげる。ごめんなさい」

「ちょっと?」


 周りの奴もその素直な反応に驚きの色を隠せずにいた。だが、そいつは三日月のような笑みを浮かべたまま言う。


「ただまぁ、そっちがその気ならこっちにも考えがあるけどね」

「あーなるほどね」

「悪いわーあんた悪いわー」


 どうしてか、勝手に盛り上がる魑魅魍魎達。


 そうしてそのまま、ケタケタと笑いながら、ぬめっとした視線を俺に向けながら去っていく。


 俺は無言でその場所を動けずにいた。


 それはどうして俺はあんなことを言ったのだろう、という疑問が原因ではなかった。何故ならその疑問は、すでに解けているから。俺の中で曇っていた空に、ほんの少しの光が見えた。皮肉にもそれは悪意から生まれるもので、俺は誰かに悪意をぶつけることで、自分にずっと向けられていた善意に気付くことができたのだ。


 故に理由は他にある。


 最後に見せたあいつらの表情。まるで粘土で作った人形のような生き物としての温かみすら感じられない薄気味悪い笑顔。それは俺が小学校の時に向けられていたものと、酷似していて、どうにも嫌な予感がしたのであった。

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