第40話 行くあてもなく
桜は散り、少し気温が暖かくなってきたところで見計らったかのようにカレンダーの日付は赤で染められた。
世間一般でいうゴールデンウィーク。人々はその日を迎えられることを心底喜んでおり、普段は見せない明るい笑顔で挨拶を交わして教室を去っていく。
たった一週間そこらの休みに何をそこまで希望を持つのか、俺には到底理解できなかった。
だって、努力と報いというのは等価交換であるべきだ。一日頑張ったら一日休みを貰えばいいし、もし一週間休みを貰えたのなら一週間頑張る。それでなんの問題もないはずなのに。
一年間頑張ったから、一週間の休みをあげます? 一カ月の休みをあげます?
世界がそれをさも褒美であるかのように振る舞うことに周りの人間は何も疑問を抱かない。それどころか感謝までして、完全に狂っているとしか思えなかった。
なんだ、お前らはそんな些細なことに喜びを感じるために生まれてきたのか?
長い長い人生の中の、たった一瞬を楽しく過ごしただけでそれを幸せと呼んで人生楽しいと声高らかに笑って見せるのか?
この問いに、人は言う。
『そうだけど、なにか?』
有象無象のくだらない幸福。自分の生まれてきた意味に無理やり異議を結びつけ、納得と不服の狭間を無意識に彷徨い続けながら人生を送る。
尊いと思えるはずの命の在り方なんて、きっとそんなものなのだ。
死を人間が過剰に悲しい出来事だと演出してしまった故に完成した固定概念に、命というものが次第に神聖化されていく。
単なる発生と消滅という現象に人間が勝手に名前を付けて、あたかも我々は悲劇の生物だと謳ってみせた。
そう、生きるのなんて当たり前。死ぬのだって自然の摂理で、どれだけ不幸な死を迎えようともそれは何一つ特別なことではなく、ごく普通の日常なのだ。
だから、彼ら、彼女らはそんな些細な事気にしない。与えられたあまりにも不平等な餌に尻尾を振りながら貪りつく。
俺はそんな自我を失った生きるだけの機械の間をすり抜けるように歩いて校舎を後にした。
校門まで来ると、散った桜のそばに新しく芽生えた小さな命。黄色のタンポポが、生徒達に踏まれてへし折れているのが見えた。
楽しいことにしか目がいかずに。ひっそりと生えている無害な花を踏みつぶしていることにすら奴らは気付かない。あぁ、同情するよ。
悲しく項垂れるその花に、哀れみの視線を向けてやる。
風が吹き、タンポポが揺れ、花が落ちた。
同情なんてしたところで、助けられるわけではない。目の前で死に絶えた小さな命を傍目に、俺は校門を抜けた。
「佐保山くん」
すると、校門から少し離れたところに、彼女はいた。
そう、彼女だ。
人物を差す呼称ではない。
色識紫苑。俺の彼女。
男女の関係であり、俗に言う恋人という関係。
あの日以来、俺は色識さんと付き合うことになった。
恋人同士になって一週間ほど経ったが、未だに両者にぎこちなさは残っているが、昔よりは会話は続くようになっている、気はする。
「あぁ、そっちが先だったか」
「みたいですね。といっても私も今着たところですけど」
カバンを両手で持ち、俺よりも少し背の低い彼女は可愛らく笑って見せた。
「もうゴールデンウィークだな。色識さんは家族と出かけたりするのか?」
「はい。二、三、四日だけおばあちゃんちに行ってきます。佐保山くんは実家へ帰るんですか?」
「いや、俺は特に予定はない。親とも最近会ったばかりだし」
「そうなんですね」
色識さんの歩調に合わせるように歩く。
「じゃあ、今週はいつでも遊べますね」
「そういうことになるな」
「どこか行きたいところはありますか?」
「そうだな・・・・・・」
俺は少し考て、
「色識さんと一緒ならどこでもいい」
素直な気持ちを口にした。
「えっと・・・・・・」
色識さんはというと顔を真っ赤にしてしまい、俯いて黙り込んでしまった。
前言撤回。前よりも会話が続かないかもしれない。
でもそれは悪い気はしなくて、甘酸っぱいというのはこのことを言うのだろうと照れた色識さんを見て思った。
「私も、佐保山くんと一緒なら、どこでもいいです」
そうして時間差で帰ってきた答えに、俺も声を詰まらせる。
色識さんは自分の言った台詞に自分で照れていて、俺も予想外の破壊力に口に手を当てて黙りこくっていた。
結果、互いが無言の空間がしばらく続いた。
「つまり、どこでもいいってことだな」
「そうですね」
「じゃあ予定はその都度決めることにするか」
「はい」
きっと色識さんとなら、近所の公園だろうと充実した時間になるはずだ。
学校が見えなくなり、生徒の姿も少なくなってきたところで、色識さんがふと俺との距離を詰め、肩を寄せてきた。
ほんの一瞬、布同士が擦れただけなのに、まるで肌が触れ合ったような感覚。
特段言葉を交わしたわけでもないそんな無言のスキンシップに、俺はニヤけそうになる自分の不格好な頬を手で叩いた。
「どうしました?」
「いや、この後って予定とかあるのか?」
「えっと、特にありません。家に帰っても本読んだりするだけですし」
自分の部屋で黙々と読書をする色識さんを想像する。
ベッドの上で読むのだろうか、それとも、椅子に座って読むのだろうか。彼女のそんな些細なことさえ気になってしまう。
一度はお邪魔してみたい。だが、それは時期尚早な気がして、まだ言わないことにした。
「じゃあ、二人でどこか出かけるか?」
俺がそう言うと、
「い、行きたいですっ! 佐保山くんとっ! お出かけしたいですっ!」
目をキラキラと輝かせた色識さんがそこにいた。
彼女は付き合い始めてから、前髪をピンで止めるようになった。
以前に「なんでピンつけてるんだ?」と女心の一つも理解していない愚かな質問をしてしまったが、返ってきた「佐保山くんがよく見えるようにです」という言葉にノックアウトされたのを覚えている。
「そうだな、とりあえずブラブラするか」
駅に向かっていた俺は進行方向を変えて、田んぼの大群を抜けてまともな市街地を目指した。
「それにしても、今年はちょっと暑くなるの早いよな。今日の気温、二十三度だって」
「確かにそうですね。佐保山くんは暑いのは苦手ですか?」
「苦手、というのは違うかもしれないが。嫌いではある」
「それって苦手とは違うんですか?」
「・・・・・・一緒か」
俺の言葉に色識さんは小さく笑った。
「いえ、ちょっとだけ違うかもしれませんね。嫌いっていうのはもう、こちらからすれば好きになる気はないというか、完全に否定している感情だと思うんです。でも苦手っていうのはまだ寄り添う余地はあるというか、好きになろうという気持ちがある気がして。そう思うと苦手っていう感情のほうがまだ可能性があると思うんです」
「なるほど。じゃあ俺はもう夏はダメだな。好きになれる見込みがない」
「夏さん、フラれちゃいましたね」
と、色識さんが冗談を言う。なんだその可愛い冗談は。
夏さん。いや、夏さんて。無機物た概念にさん付けってありなのか? できれば以後禁止してほしい、それは、思わず笑みがこぼれてしまう。
「じゃあさ、逆に嫌いになる可能性がある好きってなんだと思う?」
「嫌いになる可能性がある、好きですか・・・・・・」
色識さんは遠くの電柱のあたりを見つめ考える。
十秒ほど、うーんと唸りつつ結構な時間思考した色識さんは、
「ないと思います」
「ない?」
「はい。好きは好きです。一度好きになったものを嫌いになるなんて私には考えられません。ですから」
言って、色識さんが俺の顔をじっと見つめてくる。
「だから、ずっと好きです」
「お、おう・・・・・・」
それが本当に俺に言っているのか、それともただ単に俺の質問に答えただけなのか分からず、俺はと言うと曖昧な返事をしてしまっていた。
俺と色識さんの間を生温い風が駆けていく。
ゴールデンウィークなど、家畜を調教するためだけに設けられた偽物の褒美だ。
それはきっと正解。だって、俺達が努力した期間は、そんな一週間ほどの休みでなど返済できるものではないからだ。
それでも、俺は明日も、明後日も、色識さんと一緒に居られることが嬉しくて。ついゴールデンウィークというものに感謝をしてしまった。
あぁ、これで俺も愚かな人間どもの仲間入り。
だが、それもいいと思った。
色識さんの傍にいられるなら。
ここは、そういう居場所だから。
「そういえば」
と、色識さんが思い出したかのように言う。
「この辺りに商店街ってありましたよね? あの、ちょっと古いですけどおっきな」
「ああ、あるな」
老舗だらけのエセ商店街。俺の家の近くでもあるから、当然知っている。
「それがどうしたんだ?」
「私、そこ行ってみたいです! クラスの子がそこにある肉屋さんのコロッケがとても美味しいって話してるのを聞いて、ずっと行きたいなって思ってたんです。でも、一人で行く勇気はなくって」
「そうなのか」
「はい。どう、ですか?」
「そうだな・・・・・・」
ずっと行きたかった。そんな色識さんの願いは、できれば叶えてあげたい。
でも――。
「いや、やめておこう」
「えっ?」
予想外の返答だったのか、色識さんが少し驚いたような表情だ。
「あそこは、今は。やめておこう」
俺は段々と速くなっていく脈を落ち着かせて、努めて平静を装って言った。
「そう・・・・・・ですか。いえっ! ほんの少し気になっただけで、別にそこまで行きたいという訳ではないので、大丈夫です。気にしないでくださいっ」
笑顔でそういう色識さんの優しさに、罪悪感を覚えた。
「ごめん。色識さん。代わりにあそこへ行こう」
せっかく色識さんと居るのに、こんな不快な思いはしたくない。
俺達の居場所に浸食してくる邪悪な黒を追い払う。
結局俺達は、本当に行く当てもなくブラブラし続け。色識さんの門限が近づいたあたりで解散した。