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第39話 どしゃぶりの命乞い

 晴れることはなかった。灰色はどんどんと黒くなり、残念でしたとバカにするように雨を降らす。


 空はきっといつか晴れる。


 そんな素敵な言葉も、現実を目の当たりにした今の俺には少しの効力もなく気休めにもならなかった。


 俺のその言葉に、返答が見当たらないのか色識さんは一瞬口を開きかけたが、そこからは何を発することもなく、すぐに閉ざされてしまった。


 俯く色識さん。抱いていた腕は項垂れ、長い髪は濡れた地面に付いていた。砂利が混じり、いつもの艶やかさはどこにはなかった。


「傘、差せよ。あんないい傘あるんだから」


 道端に転がった紺の傘。俺はそれを指差した。


 何も、あれを投げ出してまで来ることなかっただろう。俺なんかを気にかけて、色識さんが濡れなきゃいけない道理などどこにもないというのに。


 すると色識さんは首を振って、


「いらないです」

「なんで」


 俺のその言葉に、色識さんはいつも見せる、考えるような素振りをしなかった。 


 だからきっとこれは、心からの答え。


「雨は、私も嫌いです。なんだか落ち込むし、晴れるんだろうなぁって思っていた曇り空が悲しい結末を迎えてしまったみたいで」


 それは、痛いほどに同感だった。天気の話ではない。俺の話。


 きっとこれからいい方向に傾くんだと思っていた出来事に裏切られると死ぬほどに悲しい。当人が言うのだから間違いない。


「降り注ぐ雨は冷たくて、傘がないと濡れてしまいます」

「じゃあ・・・・・・」


 じゃあ何故、色識さんはそこの転がった傘を手に取らない。


 何故にこうして今も雨に打たれ続けてその体を濡らすのか。


 そんな疑問が出てくるのは必然だった。


 すると色識さんは、まるで雨なんて当たっていないかのように軽い所作で、俺に寄り添った。


「雨はきっとバッドエンド。でも、救いのあるバッドエンドというのがこの世界にはあるのを知っていますか?」

「それは」


 知っている。アニメやゲームでも度々見かける、世界は救ったが主要キャラは全員死んだとかそういうヤツだ。


 視聴者からすればバッドエンドだが、物語のキャラ達は目的を達成して悔いのないまま死んでいくような、そんな話。


「そういう作品に共通する二つのキーワード。それは『居場所』と『大切な人』なんです。だからそれらを守れさえすれば。それらを見つける事さえできれば。たとえその命が絶えてしまったとしても、どうしてかその物語には『救い』が現れるんです」

「居場所と、大切な人・・・・・・?」


 色識さんの言っていることはサッパリだった。それが傘と、雨と、なんの関係があるのだろうか。


 色識さんは、俺の胸にトン、と頭を預けたあと体を起こし。俺から一歩ほど退いた。


 目が赤く腫れている以外はいつもと変わらぬ笑顔で、俺を見据える。それを見て、この人はどうしてこんなにも強いんだろうと、そう思った。


 俺なんて、未だに地面にへたり込んだままだ。立ち上がる気力も笑う元気もありはしない。それなのに、どうして、そんなにも誰かのために立ち上がることができるんだろうか。


「雨は降ってもいいんです。だって、それはしょうがないことですから。この世界には最後まで幸せなまま終わりを迎える人と、幸福と不幸を交互に織り交ぜながら『まぁこんなものか』って、妥協の中終わりを迎える人がいるんです。そういう世界ですから、雨は、降ってもしょうがないんです。一番大事なのは、その降り注ぐ雨から、どう身を守るかなんです」

「雨から、身を守る? なら、尚更傘は必要だろ」


 俺がそう言うと色識さんは、


「そうですね。傘さえあれば雨を凌げます。足元は濡れてしまうかもしれませんけど、被害は最小限に抑えることができます」

「なら」

「でも、傘がなくたって。雨に当たったって。それでもいいと思える場合があるんです」

「なんだよ、それは」


 そんなもの、あるわけが――。


「ここにあります」


 視界を無数の雨の残像が支配する中、確かに俺は、色識さんの自信に満ちた顔を見た。


「私の居場所と、そして大切な人」


 色識さんは言う。


「私はここでなら、雨に濡れたって構いません」


 そこまで言われたら、ここまでされたら、俺は分かってしまう。俺みたいなバカでもそのくらい気付いてしまう。


 桜並木で話した時から。いや、もっともっと前かもしれない。その時から俺に向けられているものは。多分そうだ。


 これは余計なお世話ではない。お節介ではない。何故ならこれは、それらのように優しくはなく、どちらかというと自分本位なものだからだ。


 俺を助けたいから、心配だから。そんな湾曲したニセモノの善意ではなく、色識さんがただ、俺に伝えたいから。そんな我侭で自分勝手な善意。


 もうすでに終わったと思っていたその感情は――。


「色識さん。もしかして、俺を」

「はい」


 視線を合わせるように色識さんは中腰になる。そして、


「好きですよ。今でも」


 俺は、頭を抱えた。


 今まで色識さんが俺に与えてきた善意には裏があった。


 それは、好きだから。


「勿論、異性としてです」


 色識さんが、俺の腕を取る。


 血と泥で汚れた掌を細く綺麗な指がなぞっていく。


「好きな人がこんなに傷ついて、私の大好きな人がこんなにも辛そうな顔をして、なんとも思わないはずがないです」


 だから、と色識さんは言葉を続けた。


「これが、答えです。私の善意の答えで、私が傘を差さない理由です。私には、雨宿りできる居場所がありますから」


 私には。


 その言葉にはしっかりとした悪意が見えた。


 お前にはないだろう。この居場所というものが、と。皮肉よりも惨たらしい上から見たその言葉に、俺は苛立ちを覚えた。


 しかしそれと同時に、こんなにも分かりやすい悪意があるのだと関心すらしてしまっていた。


 色識さんは、善意と悪意を隠さない。


 俺にこんなにも寄り添ってくれる理由は、俺のことを好きだから。


 俺を煽るようなその台詞も、俺のことが好きだから。


「でも、傘を差しちゃいけないなんてことはありません。居場所がない人にとってそれは『救い』ですから」


 そう言って色識さんは、落ちた傘を拾い上げ、俺に手渡そうとする。


「どうぞ。佐保山くんは、これを受け取ってください。雨は冷たいですから。打たれ続けるのは、苦しいですから」


 体はとっくに冷え切っていた。唇が震え、爪の先は紫になっている。


 俺は、その傘に手を伸ばした。


「・・・・・・」


 でも、本当にいいのだろうか。


 だってその傘は、もう降ってしまった雨を凌ぐだけで、あの空へ報いてやることができない。


 端で小さく丸くなって、済んでしまったバッドエンドに恐怖しつつもそれを受け入れる。そんなんでいいんだろうか。


 もし俺が今この場所で絶命しないのであれば、当然この先長い間不服を感じながらも人生を歩んでいかなければならない。俺はそんなものより、雨に打たれながらも、気を保っていられるほどの、冷たい体と心を温めることのできる居場所が欲しいんじゃないのか。無限にも近い悪意の雨に耐えれきれるほどの居場所が欲しいんじゃないのか。


 俺は代わりに、色識さんの手を取っていた。


「佐保山くん?」


 相変わらず色識さんの手は冷たかった。


「俺は、救われたかったんだ」


 今まで色々なことがあったから。


 教室の隅で、楽しそうに笑う奴らを羨ましく思っていたから。


 何かに向かって努力する、そんな眩しい奴らに憧れていたから。


 人並みの生活を送って、それでも幸せと胸を張って言える奴らに嫉妬していたから。


 だけど俺は、そんな奴らになれるほどこの世界で生きるのが上手くなくて、徳も積んでいなくて。唯一誇れたことは悪意への耐性。でもそれも実は違くて、俺は今まで希望すら見たことが無かったから絶望を知らなかっただけ。


 蓋を開けてみれば俺はなんの取り得もない塵屑だったのだ。


 自分から何をするでもなく。ただこの世界に小さくて細い糸が垂れてくるのをじっと待っていた。何も知らないまま、内に閉じ籠ったまま。


 だからようやく垂れてきた希望の糸が、悪意の垂らしたただの餌だということにも気づかず、こうして無様に悪態をついているのだ。


「でも、もう要らない。救いに見えたものが、実は絶望への入り口だということを知ってしまったから」


 どうせ助からない。主人公がそう呟いたとき、物語は何故かいい方向へと傾いていく。


 それはきっと、彼らが望んだのは希望や救済ではなく。最大限、最上級の妥協だったからだ。


 今、実現しうる最も都合のいい妥協案を捻り出し、もう手に入るはずのない幸せは捨てる。そして堕ちていった絶望の中、彼らは笑う。


「色識さん」


 そう言って、目が合う。綺麗で、妖艶。非現実的な輝きを放つ飴色の瞳。何度も何度も見て、見られて。幾度も交わしたその視線に。俺はどこか安心感のようなものを覚えた。


 真っ暗な闇に射した一筋の光、ではない。黒い空をかき消す大きな青空、でもない。ならそれはなんなのか。


 ぽつんと、豆電球のような弱い灯。


「なん、でしょうか」


 でも、それがどうしようもなく心地いいのだ。


 だってそれは、最初から過度な期待も持たせないし、照らせる範囲の限界も一目見ただけで分かってしまう。


 そんな無力な灯は誰も裏切らない。だって誰も、信じていないから。


 だが、唯一起きるイレギュラーな事態があるとしたら、それはそいつが想像した以上に温かくて、眩しいということだ。言ってしまえば良いこと尽くし。


「俺、傘も差さないし。一生雨に濡れたまま歩くような奴だけど。それでも、色識さんは俺を『居場所』と呼んでくれるのか?」

「はい」


 即答。


「俺、どうしようもないクズみたいな人間で、醜く無様に泥水を吸うだけで誰の役に立つこともない人間だけど、それでも色識さんは俺を『大切な人』と呼んでくれるのか?」

「はい」


 間髪いれずに。


「そうか」


 なんの疑いもない、色識さんの言葉。


 複雑な造りをした世界の波状攻撃に、理解が追いつかないまま悪意の沼に投げ出されてしまった俺にとってその言葉はとても新鮮で、


「それなら」


 だから、俺にそんな言葉を。今まで知らなかった汚くて醜い。だけど地べたを這いずって生きていくには丁度いい言葉をかけてくれる色識さんのことが、


「俺も」


 一度は受け入れ、その後は自分勝手に破棄をした。そんな感情を再び宿そうというのだから、俺は底なしに意地汚い人間だ。


 だが、それを誰が責めようか。


 暗闇のなか、手探りで地面を舐めながら今の最善策を探し続けるそんな無様な存在に誰が目を向けようか。


 ここは俺と色識さんだけの『居場所』だ。


 ピースは揃った。救いのあるバッドエンドへの、道は見えた。ならあとはもう一つのピースをはめるだけ。


「色識さんが好きだ」


 それは『大切な人』。


 自分にとって都合が良くて、そばに居てくれると助かる。そんな存在。


 傘が、色識さんの手から地面へとこぼれ落ちる。いいんだ。それは要らないから。


 俺にはここさえあればいい。


 雨に打たれながらも、世界に呪われながらも、人に忌み嫌われながらも、互いの傷を舐め合って、なんの解決にもならないその場しのぎの慰め合いをする、そんな場所が。


 だから、俺は救いでもない、希望でもない。絶望の中に見つけた唯一の拠り所に手を伸ばしたのだ。


「俺と、付き合ってくれ」


 雨は、いつまで経っても。止むことはなかった。


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