第38話 真っ黒
全ての音をかき消すような大きな声。
コンクリートの壁に、自らの肉体をぶつけ、自傷を繰り返す俺の元へ彼女は駆け寄り、濡れた制服越しに抱きしめて、壁から引き剥がす。
見ると、壁には雨が洗い流せないほどの多量の血がこびり付いてた。
「離せよ」
「佐保山くん・・・・・・」
虚ろな俺の焦点が、潤んで揺れる飴色の瞳を捉えた。
「離せ」
弱い、弱い力。そんなもので俺を止められるとでも思っているのか。
そうだ。お前は弱い。弱い者は、強い者に一生ひれ伏し生きていくのが道理だ。
俺は腰に回された腕を振りほどき、再び血だらけの壁に頭を打ち付けた。
「佐保山くん!!」
声が黒い空に響き渡る。背中に体温。必死に俺を制止しようとしているのが分かる。だがそんな無力で非力な抵抗は、この世界では無意味なものだ。
血が雨と混じり、シャツを滲ませる。手や足にはいつのまにできたのか大きな痣がいくつもあった。
全てを忘れろ。痛みでなにもかもを上書きにして無かったことにしろ。そう自分に言い聞かせて無我夢中に血を流し続けた。
「やめて! やめてくださいっ!!」
必死に彼女は俺にしがみついてくる。
何故。これは俺の体だ。どれだけ傷みつけようがお前にはなんの関係もないだろう。
「う、うぅっ・・・・・・」
必死に力を絞り出して食いしばった呻き声。
地面を靴が擦れる音。
腰に回された手は真っ赤になって、震えていた。
「なんだよ」
そんな意味不明な行動に俺は苛立ち、
「なんなんだよそれは!」
もう一度、彼女を振り払う。華奢で小さな体はいとも簡単に地面に吹き飛んだ。
腰をつき、雨で塗れた前髪の間から覗かせる瞳が俺を見つめてくる。悲しそうに、苦しそうに。
「なんで、色識さんがそんな顔するんだよ・・・・・・」
意味が分からない。どいつもこいつも。
苦悶の表情を浮かべやがって。悲痛な表情を浮かべやがって。その顔をしていいのは俺だけのはずだ。
色識さんは俺の質問には返答せずに、無言で立ち上がる。
そして再び、俺の前へと。
「佐保山くん」
その声色はとても複雑なもので、俺が今まであまり向けられなかったものだった。どこか棘があるような、威圧を含ませたような、言い聞かせるような。教師とか、親とか、そんなどうしようもなく自分勝手な大人達がよく見せる感情。
口を閉じ、拳は握っている。眉をひそめてそう言う色識さんは、怒る。そんな感情を露わにしていた。
「なんだよ」
額から垂れてきた血が目に染みる。片目を閉じて、色識さんに問いかける。
なんで怒ってるんだよ。俺が悪いことをしたか?
自傷行為すら咎められるのであれば、俺は何に逃げたらいい。この世に絶望した者の逃げ道は一体どこにいくんだ。
そんなことを思っていると。
「・・・・・・」
色識さんの表情は崩れ、頬を雫が伝った。
「佐保、山くん・・・・・・」
かと思うと、色識さんは俺の胸に突然飛び込み、さっきょりも強い力で俺を抱きしめてきた。
「なんで、じゃありませんよ」
胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で言う。
「そんなの、佐保山くんが傷つくのが辛いからに決まってるじゃないですか・・・・・・!」
意味が、わからない
どうして色識さんはそんなことを言うんだ。
どうして色識さんは泣いているんだ。
どうして俺は、それを見て一層苦しくなっているんだ。
見下ろすと密着状態の色識さんの頭が何度も揺れていた。彼女と俺が触れ合っている部分はとても熱くてこんなにも濡れた体を、そして心を温めてくれるようだった。
気付くと俺は、自傷行為をやめていた。それは決して色識さんの力に止められたからではない。
目の前で、理解しえぬ涙を流し続ける色識さんを見ていたら、そんなことをする気が無くなってしまったのだ。
冷静になってみると、体中が痛かった。体中が寒かった。服は濡れて重く、足はフラフラで、俺はそのまま地面にへたり込んでしまった。
空を見上げると、一層雨は強くなっていて、開けた口の中に何度もそれは入ってきた。
色識さんは、変わらずただ無言で俺を抱きしめていた。
「ああ・・・・・・」
消えてしまえばいいと思った。俺なんて、この世から跡形もなく消し飛んでしまえばいいと、そう思っていた。
だが、全身を包む優しい温もりが俺を繋ぎ留め、冷め切って氷結さえした俺の心がゆっくりと溶けていくのが分かった。
「ダメだった」
「え?」
その言葉がどこに向けて放たれたものなのかは分からない。ただ気付くと、口から漏れていた。
「色識さんの言う通り、勇気を以って、人の善意と向き合ったつもりだった」
色識さんは、黙って聞いてくれている。
「でも、ダメだった。俺の勇気は、悪意に負けてしまった」
「佐保山くん・・・・・・」
「どうしたら・・・・・・よかったんだろうな」
それはもう、敗者の愚痴。回答を求めたわけではない、救いが欲しかった。
たとえなにもかもが偽りに塗れた世界であったとしても、俺の変わろうとした努力は少なくとも本物だ。何度も何度も慣れないことに挑戦して、恥ずかしかったけど、自分らしくないと悲観したけど、それでも頑張ったことに変わりはない。
だから、報いが欲しかったのだ。
「悔しい」
あとはもう、決壊したダムのように隠していた感情がこぼれた。
「悔しい・・・・・・!」
歯を食いしばって、それでも抑えることはできない。
「なんで、俺。頑張ったのに。変わろうと思って努力したのに・・・・・・こんなの、あんまりだ。だって、最初から出来レースだった。結末はずっと前から決まっていて、すでに確定した未来を悪意は上から見下ろして嗤っていたのだ。哀れで滑稽なピエロを・・・・・・俺を・・・・・・!」
せめて最初から言ってくれればよかったのだ。それなら俺だって変化を望んだリなどしなかった。それくらい取捨選択する頭はある。
「なぁ、善意って。いつ返ってくるんだ? 俺はいつまで悪意に振り回され続ければいいんだ? 返済がいつになるかも分からない状況で、何度も何度も絶望して、挫折を繰り返して騙されて、心をズタボロにしながら待ち続けていればいいのか?」
「それは・・・・・・」
「ふざけるなよ・・・・・・! 俺は生きる機械じゃない、人だ。分不相応な心なんて代物を引っ提げてこの世に産まれ落ちた人だ。そんな真似できるわけがない。何事にも限界はあるし、感情が揺れ動く限り一貫した行動なんて不可能だ」
待っていればいつか悪意は何倍もの善意になって返ってくるから。
じゃあ、いつかって、いつなんだ。
それがもし、何年後、年十年後だったとしたら?
俺がすでに衰えて、虫の息であるところに一括返済などされたところで使い道などあるわけがない。
いつか。だなんて言葉ほど信用できるものなどないのだ。
「だから、ああ、そう。そうなんだよ。ダメなんだよ。無理だったんだ」
諦めは肝心とは言うけれど、諦めた先には一体、何があるのだろうか。
もし諦めていなかったら、実はもっとすごいものを手に入れたりするのだろうか。
「色識さん」
「はい」
「変わろうとしている、そんな前向きな灰色。俺の曇り空は、雨だったよ」




