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第37話 雨の中こぼしたのは

 無我夢中で走って、どれくらい経っただろう。


 俺はすでにフラフラで、それが走行と呼ばれるものなのかどうかは怪しかった。


 それでも前へ前へと体を傾けた。


 そうして動かなくなった足は、空中で交差。俺は気付くと地面を舐めていた。


 口の中では血と砂利が混ざっている。


 平日の昼。幸いにも周りに人はいなく、誰かの目を気にせず俺はゆっくりと立ち上がった。


「はぁ、はぁ・・・・・・」


 ポツリと地面に落ちる一滴。


 空を見上げると、曇り空はすでに黒い雲に変わっていて、上空から冷たい雨を下界に向けて撃ち放っていた。


 髪の先をスライドしていく雫。頬を伝うのは、雨か、それとも。


「くっ・・・・・・」


 苦しい、苦しくて仕方がなかった。


 何事もまるで他人事のように眺めて、面倒臭いからと必要以上の介入は避けて、感情を意図的にドライにして何も生まないようにしていた。


 それなのに、胸を劈く重い重い鈍器のようなものは、一体何なのか。


 それはきっと、悔しいという感情だ。


 少しだけでも、前に進めればと。そう思っていた。きっとこれからうまくいく、そう思っていた。希望を抱いたからこそ、努力を決心したからこそ出来上がった形ある意思を、悪意によって粉々に砕かれてしまった故に発生した悔しいという感情。


 だから、頬を流れるのはきっと涙だ。


 冷たい雨に混ざる、生温いこの液体は、僅かな間だが俺の中に生まれた楽しいという感情。そしてあいつへの信頼という感情がぐしゃぐしゃに押し潰されて流れる血なのだ。


 雨はどんどんと強くなり、開けられない目によって視界は狭くなっていく。服は濡れ、靴の中は大洪水。


 それでも、帰ろうとか、傘を買いに行こうとか、そんな日常的な思考は頭を回らなかった。


「どうして」


 ざぁざぁと、降り注ぐ大きな雨音に混じる嘆きの声。


「人と関わるのって、どうしてこんなにも面倒臭いんだ」


 交わしたコミュニケーションの一つ一つに一喜一憂して。意図を読み取って。気を利かせて。膨大に消費されたカロリーが代わりに持ってきてくれたものがこんなものなんて、本当に、本当に面倒臭い限りだ。


「クソッ!」


 俺は楠木を信じていた。きっとその笑顔は本物で、かけてくれた温かい言葉は嘘なんかではなくて、家に招き入れてくれたことも、弁当を作ってくれていたことも。何もかも、信じていた。


 誰かを信じるだなんてこれが初めてで、本当に初めてで、初めてでだったからこそ、こんなにも。 


 気付くと俺は、すぐ近くのコンクリートの壁。丸腰の人間なんかが太刀打ちできるはずもないそんな奴を思い切り、殴りつけていた。


 ズンと重い衝撃が骨を伝って全身に、そのすぐ後にじんわりと鋭い痛みが拳を襲う。そうしてズキスキと神経が不快な痛覚を脳に送り込んだ後、さっきよりももっと不快な痛みが胸を襲う。


 だが、それが過ぎた後は、どうにも気持ちが良かった。頭がスッとして、嫌なことが痛みによって上書きされていくようなそんな気がして。俺は再び壁を殴った。


 何度も何度も、殴り続けた。


 手には赤い血と、灰色のコンクリートの破片。茶色の泥と肌色の剥けた皮。


 それらが蓄積されていく度に、醜悪な現実から解放されていく。


 自傷行為なんて、バカがやることだと思っていた。


 ああ、それはどうやら正解らしい。


 何故なら俺は、バカだから。


 もうこの世に産まれ落ちて、何年経ったと思っているんだ。肉親にきちんと育てられて。義務教育も終えて。それなのに、何故か未だにこの世界での生き方を知らない大バカ野郎。


「・・・・・・ッ!」 


 歯を食いしばって、感情を揉み消すように頭をぶつけた。


 視界が赤く滲む。額から流れた血が首を通って流れ落ちていく。


 意識が一瞬朦朧として、再び鮮明になったころには負の感情が薄れていった。


 もう体はボロボロだった。どこから血が流れて、どの部位が悲鳴をあげてるのかさえ判別できない。冷たい雨に体温は下がり、手も足も、痛みで熱いくせにその奥はどうしようもなく冷たかった。ガタガタと震え、もう、死んでしまうのではないかと思うほどで。


 死ぬ恐怖と生きる恐怖を天秤にかけてみると、まったく微動だにしない。それはきっと、どうでもいいということなのだ。生きようが死のうが、好きにしてくれ。神様の気まぐれで、勝手に決めてくれ。


 額をコンクリートに擦り付けると、簡単に傷ができた。ジクジクと気味の悪い痛みのような痒さのようなそんなものが溢れてくる。


 それが楽しくて、何度も何度も自分を傷つけた。このまま擦り切れて、脳も削り取って、物言わぬ屍同然の躰にでもなってしまえば、考えることをやめられる。


 誰かを信じるなんて愚行もやめられるし、誰かと一緒にいて楽しいと思ったり、笑ったりすることなんてしなくなるのに。


 血なんて出してる暇があるなら、さっさと消えろよ。


 この世に未練と希望を残して、無駄な抵抗を続ける俺の肉体と、心にどうしようもなく憎しみが生まれていく。


「佐保山くん・・・・・・?」


 その時、轟々と降り注ぐ雨の合間を縫って、か細い声が確かに俺の鼓膜を揺らした。


 傘を差して、こちらを見つめるその人の瞳には、


「なに、してるんですか」


 血みどろで、泥だらけで、雨に濡れて、この世の何もかもに絶望したような男が映っていた。


 そして地面に、傘が投げ出される。


「なにしてるんですか!!」


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