第36話 枯れた
昼休み、俺は楠木の席には行かずにいつも行っていた校舎裏へと向かった。
木陰の中、冷たい石段に腰かけ、じっと待つ。小鳥のさえずりと、虫の羽音、草木の揺れる音だけが世界を支配する。
本当に。俺は今すぐにでもこいつらに混ざりたい気分だった。
何も面倒なことはない。ただ鳴いていればいいだけ、飛んでいればいいだけ。ただただ生い茂っていればいいだけ。そんな奴らになれたらどれだけ生きるのが楽なことだろう。
今まで信じてきたことに裏切られることもなく、理不尽な目に合うこともなく、日々を平穏に過ごせる。
そうだな、やっぱり俺はなんの名前もない雑草がいい。だって最初から、産まれた時からすでにどうしようもなく無意味な存在なのだから、無価値な生き方をしたところで誰に咎められるでもない。
あぁ、でも。やっぱりダメだ。
遠くのほうで、草むしりをしている教師が目に入る。
邪魔だから、と。こちらにとっては善意だが、雑草からしてみればたまったものではないそんな行為に、抗う術もなく蹂躙されているそんな彼らを見たら、羨ましいという感情は消えた。
ただ生きているだけなのに、どこの馬の骨とも知れない他人の勝手な都合で毟り取られる、そんな運命死んでもゴメンだ。
「佐保山?」
そこで、この空間に新たな存在が現れた。
この世界に存在する生物の中でも上位に位置する幸せ者。
俺を見つけるやいなやにへらと笑い、何も悩みなどないと意気揚々と生きているその様をこれでもかというほどに見せつけられる。
「よかったぁ。気づいたらいないんだもん。なに? 今日はここで食べるの?」
二つの弁当箱を持った楠木は俺の横に腰かける。
何が楽しいのか鼻歌まで歌って。俺は呪詛でも唱えたい気分だ。
「あ! そうだ! 魔法少女ふりふりピュアラ! 面白くて昨日で全部読み終わっちゃったよ! すごかったなぁ、アニメも見たいんだけどインターネットで見れるかな?」
だから、どうしてそんなにも楽しそうなのだ。
「佐保山・・・・・・?」
なんの反応もない俺が気になったのか、上目遣いでこちらの顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? なんか、怖い顔してるよ?」
渡された弁当に手を付けず、虚空を見つめる俺の肩を楠木が叩く。
俺はそれを振り払うように立ち上がる。
「楠木」
重い、重い口をゆっくり開く。
「うん? なに?」
そんな俺の気持ちなんてきっと知らないで、いつもと変わらずに楠木は俺に嗤いかける。
「ほらほら、お弁当食べなよ。今日は佐保山の好きな肉じゃがだよ? 結構上手にできたから感想聞かせて――」
「楠木」
俺の低い声に、楠木は驚いたように言葉をそこで止めた。
「知ってたのか?」
「え、なにが?」
あっけからんとふざけた顔だ。
「俺のこと」
「ごめん、ちょっと。どういうこと?」
そんな困ったような顔ですら、憎く思える。
「六年二組」
俺がその言葉を紡いだ瞬間、笑顔を張り付けていた楠木の顔が強張る。
「出席番号十二番。楠木柚子。お前は俺のこと、知っていたのか?」
俺の質問に、楠木はすぐには答えない。唇は微かに震えていて、それは何か言い訳を探すようで滑稽だった。
「あ、あー! そう、そうだね! 佐保山やっと思い出したのー!? 佐保山ったら久しぶりに会ったのに全然気付いてくれないんだもん! まぁ髪も染めたし、しょうがないかもしれないけど」
あはは、と声を上げて高らかに笑う。何かを誤魔化すように。
「あ、もしかして、あたしがそれを言わなかったから怒ってるの? もー、ごめんって。まぁさ、いいじゃんそんなことは! 前も言ったけど大事なのは今――」
「それはお前だけだろ」
そう言い放つと再び楠木の言葉は止まる。
後ろめたいことがあるから、だから言葉を続けることができない、そうなのか? 楠木。
「お前はいいさ。ずっと楽しかったんだから。そんな過去、あってもなくても別に構わないし、都合の良い時だけあったことにすればそれは素敵な思い出。今を楽しめばそれでいい」
「えっと、佐保山?」
ごめん、どうしたの? と縋るような目。
やめろ。その顔は。虫唾が走る。
「今までさ、ずっと不思議だったんだよ。なんでお前みたいな奴が俺にここまで付き纏うのかと」
思えば最初の出会いだって、あまりにも不自然だった。
転んだのを見て、手当をさせろだって?
無償でそんなことをする人間などこの世にはいない。
「だ、だからそれは佐保山が心配だから・・・・・・!」
聞き苦しい楠木の声を遮るように、
「楽しかったよな」
「え?」
「今まで、散々陰で嘲笑って。全く同じだ、小学校の頃と。さぞ、楽しかっただろう」
逃がしたはずの手負いの獲物を見つけたらそりゃ捕食者は喜ぶ。
「似合ってもいない服を着せて、不格好に髪まで切らせて、それを周りが嗤ってるのを見て、お前も嗤っていたよな」
俺がクラスのギャルに弄られている時。楠木が下を向いて、表情を隠していたのを俺は覚えている。あれは、嗤っていたのだ。人前で恥をかき、思うがままに蔑みの視線を操作して。小学校の時みたいに器用に人を貶めて。きっと面白くて、堪らなかったのだ。
「ちょっ、佐保山! さっきからなに言ってんの!?」
「人は変わらない」
そう、人は簡単には変われない。
心構えだとか、向上心だとか、世界の見方とか価値観だとか。そういった意思だけならば簡単に変えることができる。そして、自分は変わったと錯覚できる。
だが、そんなもの変化でもなんでもない。ただの烏滸がましい勘違いだ。
人の根底に潜むものなど、ちょっとやそっとで変わるはずがないのだ。
今まで人を蔑み虐めることで快楽を覚えてきた人間が、ちょっと会わない間に困っている人に無償で手を差し伸べる善人になっていた? 馬鹿を言え。
無償の善意など、この世にありはしない。俺はそれを忘れていた。だが、思い出した。あぁ、思い出した途端に辻褄が合う、納得がいく、理解できてしまう。こいつの行動の真意が。
「アニメだってそうだろう? オタク趣味を隠している俺の本性を暴いて、それをクラスに暴露する。ああそれはいい手段だな、きっと面白い」
「ち、違う! そんなんじゃないよ! ねえ佐保山どうしちゃったの!?」
「違う訳あるか。お前は最初から、そういう目的で俺に近づいてきたんだろ」
「そんなことない! あたしはただ純粋に佐保山に会えたことが嬉しくて! それで・・・・・・!」
そんな台詞、もはや雑音だった。
「じゃあ、なんで謝らなかった」
「え?」
「まさか忘れた訳じゃないよな。小学校の時、俺にした仕打ちを」
「それは・・・・・・」
「ならまず、謝るのが筋だ。それなのに俺に会えたのが嬉しくて? なにをいけしゃあしゃあとぬかしているんだ。お前は俺を貶めるために、再び小学校の時のようにクラスの見世物にするために、そうやって『仮面』を被っているんだろう」
笑った顔も、優しい言葉も。全て俺を騙すため。
「い、言えなくて・・・・・・」
楠木はまた、表情を隠すように下を向く。そして小さく呟く。
いつもはハキハキと喋るくせに、都合の良い時だけこうして小さくなる。だがこれは利口な生き方だ。建前と本音を使い分けた賢い生き方。
「あたし、言えなくて・・・・・・」
「そうか」
俺は、自分でも分かるほどに冷たい言い方をしていた。
もう知らない。勝手に言っていろと。ほとほと呆れて頭を掻いた。
「いや、いいさ。むしろ礼を言わせてくれ。お前のおかげで思い出せたよ。この世界のどうしようもないクソったれな構造をな」
善意には必ず裏がある。自分より弱い存在を虐める存在は必ずいる。そしてその数だけ、被害にあって、人生を破壊されてしまった被害者はいる。
これは、そう。当たり前のことなのだ。別に俺に限ったことじゃなくて、自分よりも強くて、生きるのがとてもうまい知能の高い捕食者に目をつけられて生きるのさえ苦しい者はこの世界にごまんといる。
だから俺はこれを不幸だとは思わないし特別だとも思わない。
醜悪な世界の日常に存在するほんの一部分。なにも変わったことではない。当然の景色なのだ。
「これ、要らないから」
俺は渡されたピンクの花弁の形をした弁当箱を返す。
「別に、言いたきゃ言えばいい。あいつはオタクだって、どうしようもない屑なのに、趣味すらもなんの生産性のない無意味なものであったとクラスの前で高らかに叫べばいい。俺を指差して嗤えばいい、別に俺はそれを止めない」
「さ、佐保山」
なんだその顔は、その顔をしたいのは俺のほうだ。
「だがな、これだけは言わせてくれ」
そんな楠木に、俺は最後の良心を見せてやる。
「これ以上、俺に関わらないでくれ」
それは精一杯。最大級にオブラートに包んだ言い方だ。
言ってやりたい。
今までよくも騙してたなと。ふざけるなよクズが。と叫んでやりたい。
だが俺は別に良い争いをしたいわけではない。
だから。
「もう、勘弁してくれ」
懇願。
それはただの願いで。俺の最後の我侭だった。
もう、俺は普通の人としての生活なんて捨ててやる。変わろうだなんて分不相応なことをしようとしていたことも謝る。
ほんの少し、楠木に対して都合の良すぎる感情を抱いてしまっていたことも謝るから、どうか。
これ以上は、止めてくれと。変化を拒んだ。
一度きりの被虐なら受け入れるから、どうかそれで終わりにしてくれ。
ただ端っこで生きているだけにするから、俺みたいな雑草を、そっちの都合で勝手に毟り取らないでくれと。切に願った。
「俺が言いたいのは、それだけだ」
もう、これ以上この空間にいたらどうにかなってしまいそうだった。
俺は一度、楠木を見下ろして、いや、睨みつけた。
「ま、待って佐保山!」
踵を返す俺の背中に、悲痛な叫びが投げつけられる。
「違う、違うよ佐保山! あたし・・・・・・!」
「言ったよな。これ以上俺に関わるなって」
その言葉に、楠木がビクっと肩を震わせるのが見なくても分かった。
なんだよ。
なんなんだよその態度は。
まるで俺が悪者みたいじゃないか。
いつだってそうだ。本当に悪い奴っていうのは自覚がなくて、良い奴っていうのはいつだって自分のしてしまったほんの小さな悪事を過剰に後悔する。
別に俺は自分を良い奴だとは思わない。だが悪い奴でもない。
良い奴でも悪い奴でもない。そもそも物語に参加すらしていない、そんな存在こそ、俺の成るべき者だ。
だからこそ言った。関わるなと。
お前が俺に関わると、お前と俺の物語が始まってしまう。
そんなもの、バッドエンド真っ逆さまでなんの救いもない駄作にしかならないのは明白だ。
「なんで・・・・・・佐保山・・・・・・」
後ろから、声が聞こえる。
「違う、違うのに・・・・・・」
嘆き。地獄の底から聞こえる亡者の嘆き。
そうだ、お前はそこにいろ。地獄で一生、弱い者の足をすくって生きていろ。
俺は地獄にも天国にもいかない。お前の前から、消える。
「佐保山っ!」
茂みを抜けて、何かが聞こえた。俺を呼ぶ声。
「・・・・・・ッ!」
俺は、木陰に包まれた校舎裏を抜けて、太陽の下に躍り出た。
そして走る。意味はない。どこ行く当てもない。ただただ走った。
なんだよその声は。
お前はそんな、切ない、悲劇のヒロインみたいな。そんな声で叫んでいいヤツじゃない。
嗤えよ。
あいつ、開き直ってやがんの。マジでウケる。とクラスで愚痴でも言っていればいい。脆弱で陰湿なお前らみたいな種族にはピッタリだろう。
「ハァ・・・・・・ハァ・・・・・・ッ!」
なんなんだよ、クソ。
俺は解放された。自分の力で、虐めという残虐な行為から脱することができた。
それはとても喜ばしいことのはずなのに。
「くそ、くそ、クソ!」
我武者羅に走り続けた。
何度も何度も転びそうになって、無様に地面を這いずるようにして、歩道から飛び出して。車が行き来する中轢かれてもいい。そんな考えさえ頭を過ぎって。次の授業なんて知ったことではない。




