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第31話 向かう先は

「さーぼーやーまっ!」


 帰る支度をしていると、すでに準備を終えた楠木が鞄をプラプラと揺らしながら俺の机に寄りかかってきた。


 当然そんな様子を見ればクラスの何人かがこちらを見てくる。


「早いな」

「まぁね! あたし基本置き勉だから」

「あぁ、教科書置いて帰るヤツな」

「そそ! 佐保山も置き勉にしたら?」

「あー」


 俺も本当は置き勉したいのだが、机の中には漫画が大量に入っているので教科書は毎度持って帰らなければならない。というか机に入らない。


 だが。


「そうするか」

「そっちのほうがいいよ! 佐保山どうせ勉強なんてしないでしょ」

「言えてる」


 冗談めかして言った俺はギュウギュウの机に教科書を無理やり突っ込んで鞄を軽くした。


 楠木の言う通り、勉強なんてしないしな。


「じゃあ帰ろ!」

「ああ」


 未だに感じるクラスの視線。そんなものに気分よく鼻歌など歌っている楠木は気付いてる様子はなく、俺も気にしない振りをして二人して教室を後にした。



「それにしても今日の社会の授業、めちゃつまらなくなかった? 佐保山に寝ちゃダメだよなんて言っておきながらあたしが寝そうだったよ」


 校門を出て帰り道。楠木とそんな他愛もない話をしていた。


 ちなみに午後の授業だが、俺は睡魔に勝つことはできずあっというまに眠りに落ちた。


「歴史なんてどうだっていいのにねー。あたしたちに大事なのは今だよ今!」

「だな」


 今までこういう前向きな意見には講釈垂れて否定的な意見をぶつけていた俺だったが、今日ばかりは頷いて肯定する。


「は~今日店番なかったらこのままどっか遊びに行けたのにね」


 そういえば、楠木とどこかへ出かけたのは、カフェに行って服を買いに行ったあの日以来だ。


「今度、どっか行くか」


 俺は自然とそんな言葉が口から漏れていた。


 見ると楠木は大きな目をパチクリさせていて、長いまつ毛を何度も交差させていた。やがて俺の言葉が理解できのか笑顔が弾けて、


「いいね! 佐保山、どこか行きたい場所ある?」

「そうだなぁ。そう言われても、あまり思い浮かばないな」


 そりゃ行きたい場所ならいくらでもある。DVDだって借りに行きたいし本だって買いたい。無くなった卵かけご飯用の醤油も欲しいしトレットペーパーも補充したい。


 だが、多分そういうことじゃないんだと思う。


「あたしね、アニメイキング行ってみたい」


 そこで突然楠木から驚くべき単語が飛び出てきた。


 こんなチャラチャラした容姿のギャルからアニメイキングだなんて単語がでてくるなんて思いもしなかったので俺は完全に虚を突かれた形になってしまう。


「ちょっとなにその顔! いいじゃんあたしだってそういうアニメ? とか少しは興味あるんだから」

「いや、別に。そうか。俺は構わないが、ああ。でも俺もそういうのよく知らないしな」


 俺はというとオタク特有のくだらない防衛本能が働いてしまい、反射的にはぐらかしてしまっていた。


「え? あーなるほどね」

「なにがなるほどなんだ?」

「ううん、でさ。今週の土日にでも一緒に行かない?」

「じゃあ土曜にしよう。日曜は母親が家に来るから」

「そうなんだ! 良かったじゃん! 久しぶりに会うんじゃない?」


 母親と会うのは丁度一年振りだ。別にその程度の期間なら合わなくも寂しいなんて思いはしないが、母親がこっちに来る時は毎回生活の役に立つものを持ち寄ってくれるからありがたいと言えばありがたい。


「やっぱ心配なんだよ。分かるなぁ、お母さんの気持ち」

「そうか?」

「うん。だって佐保山、栄養とか健康のこととか全然気にしなさそうだし、母親からしてみればそういうのは一番気にして欲しいことだと思うんだよね」

「ふぅん」


 そういうもんなのか。


「まぁでも、最近は楠木に弁当作ってもらってるから、その点は大丈夫だと思うぞ。前に比べて体調も良くなった気がする」

「ホント? そっかそっか~! うんうん、それならあたしも作った甲斐があったよ」

「あぁ。ありがとうな。でもどうして――」


 俺にそんな良くしてくれるんだ?


 その言葉を発しようとした俺だったが、それは愚問だったことに気付き寸でのところで飲み込んだ。


 楠木は言った。俺が心配だからと。だから世話を焼きたくなるのだと。


 俺はそれに対して一体どんな裏があるのかと、その行為の真意はどこにあるのかと考え、怪しい宗教への勧誘だとか謎の壺の押し売りだとかそんな結論まで出してしまっていた。


 でも、多分それは違くて。


 唯一言えることがあるとすればそれは、人の善意によるものなのだ。


 誰かを助けたい、誰かに手を差し伸べてあげたい。それに付随する偽善による自己理想の形成。世間からの目。自己満足。きっと色々なものがごちゃまぜになって、やがてそれらが対消滅して残るのは行動の原理であり原初。それはやはり人の善意で、結果的に自分に返ってくるものがなかったとしても人と人とは助け合う。


 弁当を作るなんて一人暮らしの俺なら尚更分かる労力の消費。時間もかかるし金もかかる。それに作るばかりではなく家に帰ったらきちんと洗わなければならない。そんなことを無償でやってのけられるほど善意という原動力は大きいのだ。


「いや、楠木ってどうしてそんなに料理上手いんだ?」


 だからもう答えは分かりきっている質問はやめて、別のことを聞くことにした。


「うーん。やっぱり何回も練習したからかな。小学校の時にね? 調理実習があってそれがたまたま上手くできて、お母さんにも食べてもらったら美味しいって言って貰えてたから。それが嬉しくて料理練習しはじめたんだよね」

「へえ。そんな前から」

「うん。楽しかったなー、調理実習の授業。あたし、みんなにエースって呼ばれてたんだよ? 覚えてない?」

「は?」


 覚えてない? とはどういうことだろうか。


「あぁっ! いや、佐保山って小学校の頃のこと覚えてるのかなって」

「あぁ、そういうことか」


 俺は大きく晴れた空を見上げて、そんな広大な青空とは正反対の暗い記憶を辿った。


「正直、覚えてないな」


 覚えてない。その言い方には多分語弊がある。


 そんな簡単に記憶というものは人間の脳からは消えたりしない。嫌なことなら尚更だ。


 俺は意図的に、消した。脳にこびり付いた汚れを完全に落としきって、辛い現実から逃げたのだ。


 だから、俺がクラスの晒し者になり、それから学校での生活が一変しそれがトラウマになって内に閉じ籠るようになったという事実しか覚えていないし、クラスにどんな奴がいたのか、担任の名前とか、修学旅行で行った所とか、勿論調理実習のことも覚えていないし。俺が初めて好きになり人生を狂わされた諸悪の根源の名前も顔も覚えていない。いや、消した。記憶から。


「そうなんだ。覚えてないんだ」


 そんな俺を何か納得したような、だけどホっとしたようなそんな表情を楠木は見せて、


「まぁ、過去を振り返ってしょうがないよ! 大事なのは今なんだから!」

「さっきも似たようなこと言ってたな。今大好きかよ」

「うんっ! あたしは今が好き! 色々と楽しいことでいっぱいだからね~」


 そう言う楠木は俺の目を見て快晴の笑顔。そんな前向きな楠木を見て俺も笑う。


 そんな話をしているといつのまにか建物だけが一丁前に横並びになった人通りの全くないエセ商店街まで来ていた。


「あーあ、もう着いちゃった」


 もうちょっと話したかったな、とそんなことを言いたげな楠木に俺は、


「そうだな、もう少し話したかったな」


 代わりに言ってやった。


 作戦は成功、楠木は見事に間抜けな顔をしていた。


「えっ? あ、う、うんっ。そうだね、あたしも話、したかった」

「まぁ別にそれは今日じゃなくたっていいか」

「どういうこと?」


 キョトンとする楠木に、俺は言う。ほんの少し自信は無さげに。


「話す機会なんて、これからたくさんあるだろ」


 きっとこれから、それは俺次第な気はするが、逃げないで人と向き合うよう生きていけば。それは難しいことではない気がした。


「なんか佐保山」


 すると楠木は。


「ううん。そうだねっ! ひひっ」


 白い歯を見せて、無邪気に笑って見せた。


 ああ、その笑い方は、今の俺には到底できない。


「それじゃ土曜日、よろしく! また近くになったらLIMEで連絡するから」

「わかった」

「じゃあねっ!」


 楠木はスワローの青枠の扉を開けて中に入っていく。


 店内から楠木が手を振っているのが見え、俺は手を振り返してやる。


「ふぅ」


 とりあえず、今日のイベントは全てこなし、一息つく。


 俺が変わろうと歩み始めた記念すべき第一日目。それは劇的な変化があったわけでは決してないのだが、前に進めた実感は確かにあった。


 それはきっと、見える景色。


 だからもし、この先にまだまだ俺の知らない景色が広がっているのだとしたら、それはとても楽しみな気がして。面倒なこの自分強化期間でのモチベーションも上がる気がした。


「強化期間って、やっぱり普段は適当にやってますってことだよな」


 いつか抱いた強化期間という名目への疑問。それも少し見方を変えただけですぐに答えは見つかった。


 俺は足取り軽く、オンボロアパートの錆びた階段を一段飛ばしで昇った。

 鍵を差して、動きの悪いドアノブをひねる。 


 きっと俺が今開けようしている扉よりも、俺がこれから開けなければいけない扉はひどく重いものだ。開錠したからといって簡単に開けられるものではないんだと思う。


 しかし、今日した楠木とアニメイキングに行く約束。


 誰かとアニメイキングに行くのなんて初めてだし、楠木がアニメに興味があるということは驚いた。


 そんな楠木にもしこんな俺でも教えてやれることがあって、二次元という新しい世界を見せてやることができるのだとしたら。それは多分楠木の人生に多少関わることで、それは大袈裟かもしれないが俺が誰かを変えるということなのかもしれない。


 それは色識さんの言っていた紛れもない人と関わることの素晴らしさ。


 だから一応、アニメやゲームには詳しい俺だが、楠木と行くその日まで。予習をしておこう。しっかりと教えてやれるように。でも、俺がオタクだということをカミングアウトするのはやはり抵抗があるのでそれとなく。それとなく教えてやろう。


 そんなことを思って見た今日のアニメは、いつもと全然違って。一人じゃなく、誰かと、楠木と一緒に見てみたい。そう思った。


 世界は変わっていく。俺の内面も、価値観だとか倫理観だとか。そういった 本質的なものが前向きに、いい方向に変わっていく。


 俺は信じて、勇気を持って。善意と触れ合っていこうと思う。


 悪意なんて。俺が思っているほどこの世界にはありはしない。

 

 ――だが。

 

 そんな考えはあまりにも愚かで身の程知らず。


 うまくいかないものというのは、ただその時、その一瞬に必要な自分の運とかパラメータが足りないのではない。


 そもそも実現することが不可能な域にまで達しているからこそ、これまでに成功せず、これからもそれが成就することはなく、そんなことも分からなくなるほどに人の感情というものは現実を曇らせる。


 終わりよければすべて良しとはいうが、始まりが無ければ終わりすら存在しない。


 俺の踏み出した第一歩が、奈落の底へ落ちていかないことを今は祈るばかりだった。


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