第30話 兆し
「二人で食べるのもいいけど、たまにはみんなで一緒にお昼するのもいいね」
「そうだな」
会話に集中したせいで味わう暇がなかったことを除いては、俺も同感だった。
多人数での食事は非常に疲れる。こっちは飯を食いたいのにふいに話題を振られたり、かと思えば俺を除いた二人だけで盛り上がって一人寂しく箸を進めたり。
目まぐるしく変わるその状況に臨機応変に対処しつつそれなりの返答を用意しなくてはいけない。それはとてもカロリーを使うことで、なによりも面倒くさい。
だが俺は、終わってみればどうしてか、心のどこかで充実を感じていたのだ。
多分、これは達成感という感情なのかもしれない。
疲れれば疲れるほど、悩めば悩むほど、苦しめば苦しむほど、それから解放された時に感じる喜びが増す。日本人の遺伝子に刻み込まれたどうしようもなくくだらない感情。そのせいで俺は、今も楽しそうにする楠木を見て頬が緩んでしまっていた。
「あのさ、佐保山」
「ん? なんだ?」
百合が帰り、弁当を片付け終えた楠木が椅子を元の場所に戻そうとした俺に呟くように言った。
「今日の佐保山、いつもと違ったね」
あどけない表情でそんなことを言われ、俺は頭を掻いた。
「そうか?」
「うん。なんか昔の・・・・・・」
そこまで言って、楠木は言葉を止めた。
「ううん! なんでもない! 午後の授業も頑張ろう!」
「おう」
えへへ、と無邪気に笑う楠木はとても楽しそう。いや、嬉しそうと言ったほうがいいのかもしれない。そんな楠野の表情を見て俺は悪い気はしなかった。
「寝ちゃダメからね! 佐保山、午後の授業いっつも机に突っ伏してそのまま動かなくなるんだもん」
「うっ・・・・・・見られてたのか」
「当り前じゃん! ずっと見てたんだから」
「えっ?」
それってどういうことなのだろうか。そう思った矢先、
「あたし佐保山の斜め後ろだからね。いっつも見えてる」
「ああ、そういうこと」
なんてことない、席の位置的に見えるということだった。
一瞬ドキっとしてしまった俺の心臓の鼓動を返して欲しい。寿命が縮んだらどうするつもりだ。
「そうだ。今日一緒に帰ろうよ。あたし店番あるけど、それまで暇だし」
「別にいいぞ」
「ほんと? じゃあ放課後よろしくね!」
そう言って、俺は自分の席に戻って、斜め後ろの楠木に軽く手を振り了承の合図をした。
なんであんなに嬉しそうなんだ・・・・・・。
ただ一緒に帰るだけなのに、そこまで上機嫌になる理由が分からない。
対して俺は、嬉しさなんて微塵もない。だって、ただ一緒に帰るだけだ。
本当に当たり障りもない日常の一片を誰かと共に過ごすことのどこに尊さを感じられるのか、今の俺には理解できず、しかし。
どうしてか、午後の授業はとても長く感じた。
一日を終えて、俺は思った。
思ったよりもこの世界には悪意が満ちていない。
むしろ善意は大歓迎というくらいに人々は他人に寄り添い、交流を良しとしている。
忘れ物をすれば貸してくれるし、消しゴムを落としたら拾ってくれる。
そこにメリットや利益の駆け引きなどなく、一切の損得を度外視にして誰かに手を差し伸べる。そんな行為を人はいとも簡単にやってのけていた。
俺が思っていた世界はとうの昔に朽ち果てていて、今は光満ち溢れる世界に変貌を遂げていた。
いや、むしろ俺は今までそれに通じる扉を開いていなかったのかもしれない。
そもそもその扉を開ける鍵を持っていなかったのだ。
だが俺は、すでにその鍵を受け取っている。
「空は、いつか晴れる・・・・・・か」
空というのが、俺の名前にかかってるのが妙にいじらしく思えた。
色識さんに貰ったこの鍵で、俺は今日開かれたばかりの扉から差し込む僅かな光を確かに見た。
俺は、もしかしたら変われるのかもしれない。