第27話 きっと未来は輝いて
なんのことか分からない。それでも色識さんは続ける。
「少しずつ変わろうとして、それでもやっぱり逃げちゃって。どうしてもこの世界の理不尽さに表情を歪めて苦しんでみせて、悪態をつくように溜め息ばかりだけど。優しいから、心の底から優しいからこの世界を完璧に嫌いになることはできなくて、どうすればいいか分からなくて悩み続ける男の子がいたから」
それは、誰のことか。
「私はずっと応援してました。自分と同じようにこの世界が苦手で不器用な人。でも私なんかより勇気があって、優しさがあって。そんな風に目で追って気付いたら――」
それはきっと。
「好きになっちゃってました」
きっと、俺のことだ。
ドラマチックな出会いとか、一目惚れとか、そんなんじゃなくて。どこまでも泥臭い。人間の持つ醜い部分を垣間見てその上で、好きだと。俺に、照れたように笑いかけてくるのだ。
「そんな物語を見るのが毎日楽しみで楽しみで、憂鬱だった学校にもきちんと行くようになりました。本ではなく、佐保山くんを見るために。本しかない、モノクロだった私の世界に佐保山くんは『色』をつけてくれたんです」
「でも、今も本は読んでいるよな」
「あ、そうですね。でも、読む本も昔とだいぶ変わったんですよ? 前なんて物理学とか哲学とかばっかりでしたし。それに目的も今は違います。逃げるために読むんじゃなくて、前を向くために読んでいるんです」
「そうだったのか。ちなみに今読んでいるのは?」
あえて伏せられてしまった今読んでいる本につい言及してしまう。すると色識さんは「聞いちゃいますか」と困ったように笑って、
「恋愛モノです」
つい先程までどこか哀愁漂う、人生を悟ってしまったような大人びた表情だったのに。今俺の前で笑う色識さんは紛れもない、恋をする女子高生。甘酸っぱい表情をしていた。
反則だ。そんなの。
こんな顔、以前付き合っていた時ですら見たことない。
これほどまで自分を曝け出してくれる色識さんは初めてだ。いつも下を向いて、選択権を俺に委ねて、俺の言葉に黙って頷く。そんな色識さんはもう、どこにもいなかった。
「変わっ、たんだな」
「はい。変えられてしまったんです。佐保山くんに」
ドク、ドク、と。自分の脈動が早くなっていくのが分かる。
俺が、誰かを変えてしまった。俺が、誰かの人生に介入してしまった。
その事実を把握してしまった瞬間、自分の魂がこの世に受肉したような、俺が今ままで生きてきた無駄だと持っていた時間が光り輝くようなそんな気がして・・・・・・。
「佐保山くん」
「ああ」
名前を呼ばれる。今日、何度彼女に名前を呼ばれただろうか。数は分からないがそれは多分、色識さんが俺に伝えたいことの数だけ、呼ばれたのだと思う。
俺なんて、ロクに会話もできない。気の利いた返事もできないし自分から話題を広げることもできない。適当な相槌とありきたりな返答を用意して、機械的に話をしていただけの俺に、色識さんは何度も何度も寄り添ってくれて。
俺と、関わろうとしてくれた。
きっと色識さんにとってそれは苦痛だ。だって彼女は、そんな人種ではないはずだからだ。言ってしまえば俺と同じ、陰でひっそりと生きる、接触を拒んで枯れ果てた蕾。
だが色識さんはすでに笑顔を"咲かせて”俺に言った。今までのどんな言葉よりも鮮明に。
「人と関わるのって、素晴らしいことなんですよ」
「・・・・・・ッ!」
バカを言わないでくれ。君までそんなことを言いだしたらこの世に正義はなくなってしまう。まるで俺が大罪人。異常者だと思われてしまうじゃないか。
「そ、そんなわけ・・・・・・ないだろ」
俺の声は震えていた。
「だって、人と関わったってロクなことがない。たとえ何か良いことがあったとしても、後でそれ相応の、いや、それ以上の悪いことが身に降りかかる。良いことに比べて悪いことには強烈な後遺症が必ずと言っていい程あって、人と関わる労力と最終的に自分に返ってくるものが釣り合っていない。こんなのおかしいじゃないか」
首を絞められたニワトリのように悲惨で生々しい、聞くに堪えない俺の嘆きを色識さんは黙って聞いてくれる。
「勇気なんてクソ喰らえだ。そんなもの誰かの悪意で簡単に跳ねのけられてしまう。そのくせこっちの悪意は集団に渦巻く憎悪に取り込まれて、俺を囲う空気をどんどんと汚染していってまともに生活することすらままならなくなる。じゃあ俺は、どうすればいいんだよ」
最初は呟くように小さな声だったが、だんだんと口調が荒んでいく。
「どうしようも、ないじゃないか! そりゃいるさ、世の中にはこんな俺なんかにも寄り添ってくれる奴が。でもそんなの、広い海に水を一滴垂らすようなものだ。この世に無数に存在する悪意に太刀打ちできるわけがない!」
だから、
「だから、人と関わらない。そういう結論に行きつくのは必然だ」
今だって、俺が色識さんなんかに関わらなければこんな理不尽な難題にぶつかる必要もなくて、顔を顰めて悩む必要もなくて、今ごろ家のベッドに寝転びながらアニメを見ていたはずだ。
関わったから生まれる面倒ごと。関わったから生まれる悩み。
人と関わることで捻じ曲げられてしまった人格と人生。
「俺はもう」
あんな思いはしたくなかった。誰かに好意を抱くなんて愚かなことだ。悪意を抱くのも、愚かなことだ。ならその中間に位置する感情を身に宿すのが最も利口で効率的。故にそれは無感情。人に興味を示さない根底からの拒絶なのだ。
そして今この状況から脱する術も俺は知っていた。完全無欠の必勝法。
黙って帰ればいい。色識さんとの関係を断ち切ってしまえばいい。そうすれば、俺は救われる。そのはずなのに。
目の前の彼女が、変わらず優しい表情で言うのだ。
「佐保山くんも、変わりました」
「俺が、変わった・・・・・・?」
「はい。だって、以前の佐保山くんならきっと私には悩みとかそういうの絶対に打ち明けてくれなくって、多分、黙って帰っていたと思います」
いや、変わっていない。変わっていないんだよ。俺はつい先程まで色識さんの言う通り帰ろうとしていた。ただ行動に移さなかっただけで、君の言葉に上げようとした腰を止めてしまっただけで。
「それに最近は、なんでしょう。うまく言えないんですけど」
少し考えてから、
「頑張って、ました」
頑張った? 俺が?
努力何てとうの昔にやめたはずだ。そこには利益なんて何一つないことを知ってしまったから。俺はそんな無意味なことに労力を割くのをやめたはずだ。
「私に、寄り添ってくれました」
違う。それは楠木に言われたからだ。
あのお節介なギャルに言いくるめられて、人形のように動かされていただけだ。
「私に、気を遣ってくれました」
違う。それも楠木に言われたからだ。
楠木が何故か俺と色識さんの間を取り持とうとするから、助言されたことをそのまま活かしただけだ。
「前に私が図書委員の仕事で本を運んでいる最中にそれを落としてしまった時。いつかと変わらずに、また助けてくれました」
違う。それは。
「それは・・・・・・」
誰にも言われてない。
色識さんが困っていたら、助けろと、そんなこと、誰にも言われてない。
なら俺は、自分の意志で、人に関わったと?
「お、俺は・・・・・・」
「いいんです」
言い訳をしようとしたが出てこない。言い淀んだ俺の言葉が色識さんの声で上書きされる。
「きっとこれは、素敵な灰色」
それはいつか色識さんの言った、空の話。
「これから変わろうとしている、前向きな灰色」
俺の世界は、灰色だ。
多分それは、以前の色識さんのものと同じ。何もかもに絶望して光を見失って、人にも物にも、何に対しても焦点を当てなくなったピントの合わない滲んだ灰色。
だが、いつからかその世界にいくつかの色が現れはじめた。
たとえば飴色。
妖艶で、まるでファンタジー世界に存在する宝石のような眩い光。それはいつも俺のことを見ていて、都合の悪いことがあると黒のカーテンに隠れてしまう。でも嬉しいことがあると分かりやすいくらいにその光源は細くなる。
たとえば黄色。
なんてことのない身近な色。金でも銀でもないありがちなその色は、そのくせ色彩は他のものと比べてかなり濃く、暗闇でもはっきりと見える程に主張の激しい派手な色だ。
そいつはいつもいつも俺の周りに纏わりついて要らない世話や余計なお節介を焼いてくる。
それがまるで変化の象徴である気がして、俺は、
「色識さん、俺・・・・・・」
俺は怯えてしまっていた。無意識に形を変えていく自分の人格に。これから一体どうなってしまうんだろうという恐怖に。
そんな俺の手を握り、あやすように色識さんは言う。
「勇気が悪意に負けて何倍にもなって返ってくる。それは、事実なのかもしれません。私にも経験がありますから」
それは俺のことだろうか。
勇気を出して告白したのに、俺の悪意によって突き放されて、苦しい思いをしたと。そう言いたいのだろうか。
「でも逆に、逆にですよ? 今まで向けられた悪意とか、嫌なことが。これから何倍の善意になって返ってくるのだとしたら、それって素敵なことじゃないですか?」
「そうだな。それは素敵なことだ。でも、そんなことが・・・・・・」
そんな、いつくるかもわからない返済を黙って待っていろと言うのだろうか。本当にくる確証もないまま、醜悪なこの世界に身を縮こまらせながら待っていろと。
俺の縋るような視線の先に、色識さんの笑顔。何度も何度も見てきた優しい笑顔。
『仮面』など、とうの昔に脱ぎ捨てて、俺の知らない『感情』を向けてくるその笑顔。
心が落ち着いて、嫌なことを忘れる。ほんの少しだけなら前を向いてもいい、そう思わせてくれる笑顔。
「言ったじゃないですか佐保山くん。空は、いつか必ず晴れるって」
「あぁ・・・・・・」
その言葉は俺の胸にかかっていた霧をはらうように、
「大丈夫ですよっ!」
色識さんは声を弾ませて、両手を胸の前で握りガッツポーズのような構え。ふんすと鼻を鳴らすその様子はとても可愛らしくて。
「私の大好きな佐保山くんは、こんな意地悪な世界になんて絶対に負けません」
俺なんかにそう言ってくれる色識さんが可笑しくて、そんなことを言った後に照れて笑う色識さんが可笑しくて、こんなにも自分を思ってくれる人の存在の大切さに今頃気付いたことが可笑しくて、卑屈になって閉じ籠っていた自分が可笑しくて、
「そう、だな」
鼻を鳴らして、本当は今にも色んなことを吐き出したい気分なのに、それは自分のキャラに合わないと努めて冷静に振舞う自分の態度が可笑しくて、
「そうだといいな」
ずっと曇っていた自分の心にほんの少しだけ光が射したのが可笑しくて、
「あ、佐保山くん・・・・・・!」
「ん? なんだ?」
俺は、
「やっと・・・・・・笑いましたね」
いつのまにか、笑ってしまっていた。
「ああ」
分かってしまった。百合の言っていた俺の笑顔。
一体なんの意味の笑顔で、どんな『仮面』を被っているのかと思ったが。
そうか、これは別に、俺が何かの感情を抱いたから笑っているんじゃないんだ。
これは、色識さんがくれたんだ。
人が人と関わるのは、なにも自分にメリットがあるからではない。
きっと何か伝えたいことがあって、贈りたいものがあって、でもそれは一朝一夕じゃ絶対にうまくいかないもので。時間をかけて、何度も何度もその人に与えて。
そうして今の俺のように、いつか気付くのだ。
あの人は自分に、こう伝えたかったのだと。
「参ったな」
色識さんはずっと、ずっと前から俺にこのことを伝えたかったのだ。それが今ようやく分かった。
そう思うと自分の頬がどんどん緩むのが分かる。俺は照れ隠しに頭を掻いてみせる。
「ふふ、参っちゃいましたね」
色識さんが笑う。
俺も笑う。色識さんに貰った笑顔で、まだ不器用だけど、『仮面』じゃない本当の笑顔で。
もしかしたら、色識さんの笑顔は、俺が笑うことで生まれる笑顔なのかもしれない。俺が彼女から笑顔を貰ったように。今も目の前で咲き誇る満開の笑顔。俺が、彼女に分け与えた感情。それを認識すると、もう可笑しくって止まらなかった。
「ほんの少しな」
「はい」
「ほんの少しだけなら前を向いてもいい」
「はいっ」
「俺はまだまだこんな世界、嫌いのままだけど」
それでも、確かに輝く『色』が俺の周りにはあるから。
「だから、そのな。よろしく、色識さん」
「はいっ!」
俺がそう言うと、一際強い風が吹き、桜の花を舞い上がらせる。
その一つが色識さんの頭に乗っかり、俺はそれを取ってやる。
ここまで、何年かかっただろう。とても長かった気がする。
でも、色識さんの言う通りこれまでの嫌なことが、良いことに変換されて何倍にもなって返ってくるのだとしたら、今までのこともきっとそれは必要なことなんだと思う。だから無かったことにするんじゃなくて、目を逸らさないで、正面から向き合っていかなくちゃいけない。
「行くか」
「行きましょう」
段々と冷たさを帯びてきた夕方の春風。
俺たちはベンチを立ち、何かの拍子で互いの手が触れてしまいそうな、そんな距離感を保ちつつ散っていく桜並木を再び歩き始めた。
「そういえば佐保山くん、歩く時に靴の先を擦らなくなりましたね」
「そう言われれば、そうだな」
「ふふ」
色識さんは俺の靴を見た後、俺の顔を見て微笑んだ。
俺は自分で思っているよりも、もっと前から変わり始めていたみたいだ。
その事実が可笑しくて俺も色識さんに貰った笑顔で、微笑んでみせた。
その日の夜、不動を貫くスマホが珍しく震えた。
虚しく、寂しく、勇気を蔑ろにしたまま終わっていた俺達のトーク画面。
最後のメッセージの下に、
『今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね、佐保山くん』
そんな一文が、ゆるいクマのキャラがハートを持ったスタンプと共に送られてくる。
きっとなんてことないただ適当に選んだスタンプ。でも、そこに映るハートに胸を高鳴らせながら俺は返信をした。
『こちらこそありがとう。また、映画見に行こう』
するとすぐに既読がついた。
俺にメッセージを送った後、ずっと画面を眺めていたのかもしれない。そんな色識さんを想像すると、自然に頬が綻ぶのが分かった。
新たに更新された俺と色識さんのトーク画面。
溜め息は出ない。
代わりに出たのは、
「よし」
自分への鼓舞。
最後に色識さんから送られてきた『是非!』というメッセージを見て、俺は部屋の電気を消す。
多分、色々と大変だと思う。
だって五年間も塞ぎ込んできた錆びた扉をこれから開けなくてはならないのだから。
時間はかかってもいい、ただ今は。
色識さんの言葉を信じて、変わってみようと思う。
その日はいつもよりも、ぐっすりと眠りに就くことができた。




