第3話 絶望
この世は理不尽で溢れている。俺が何をしたって言うんだ。天にそう零しても全く俺の叫びは全く届かない。どうやらこの世には神は居ないらしい。
父さんの事を一目見て別れを告げてから家に帰ると既にそこはもぬけの殻だった。そんね部屋に一枚の手紙だけが置いてあった。
どうやら部屋の物を全て売った金で母さんが逃げたらしい。母さんは元々俺らとはあまり関係が良くなかったからこの際、捨てられるのは仕方がないとして、こんなんじゃ俺は生きられない。
人生二度目の絶望だ。この事で俺は生きる気力を失ってしまった。どうせ俺が死んでも誰も悲しまない。そう思った俺の足は勝手に動き出していた。
辿り着いたのは学校の屋上だった。
なぜここに向かってきたのかは分からなかった。ただ一つ分かることはここから飛び降りれば確実に死ぬ。
ここは四階建ての屋上。ここから落ちて死なないってことは余程の奇跡でも起きない限りは不可能だろう。
普通ならば足が竦んで飛び降りれない。だが俺の足は違った。希望に向かって歩き出すように軽やかに動き始めたのだ。
これでようやく絶望から抜け出せる。
遂にフェンスに足をかけた。ここから一歩でも踏み出せば全てが終わり。もう怖いものは何も無かった。それだからこそ俺は一歩踏み出したのだ。
俺の体は自由落下を始める。重力加速度によって全身に強烈な重力がかかり、気絶する。
それでもう終わり――そう思われたが、神は三度俺の人生の邪魔をしてくれたようだ。
残念ながら俺の体は自由落下を開始することは無かった。何故なら後ろから引っ張られたからだ。
小さい手。その小さい手が俺の手首を両手で掴んで必死に後ろから引っ張っている。
その手で俺は死ぬ気が失せてしまった。だから一歩踏み出した足を元の位置に戻し、フェンスから降りた。
さっきまで死のうとしていて、だが今俺は生きている。
俺の命を助けた後ろの子の姿を確認しようと振り向くとそこに居たのは女の子だった。
童顔で背は小さいし、力もなさそうなその華奢な腕。そして俺と同じ高校の制服。こんな時間だと言うのにこの子は学校に残っていたのか。俺と違って真面目だな。多分、今人生がキラキラして見えているのだろう。淀みのない目だ。
「ひっ!」
俺が彼女の目を見た瞬間、何故か怯えられてしまった。
携帯のカメラ機能を内カメラにして自分の顔を見てみた。すると想像以上に酷い顔をしていた。
女の子の目の前だから精一杯の愛想を振り撒いたつもりだった。だが、俺の顔はそれを許さず、死んだ目と引きつった笑いによって恐怖の笑みと化していた。
これは女の子も怖がる。その為、真顔に表情を戻した。こっちの方がまだマシだ。
「君は? なんで俺を助けた? 俺なんかを助けても君には何のメリットも無いだろう? ならこんな変なやつに構うよりお家で勉強でもしてた方が有意義じゃないのかね?」
「わ、私だって考えがあるんです! 目の前で死なれたら困ります! 以上です!」
それだけか。それだけの為に俺の重さで一緒に落ちてしまうかもしれないのに助けようとしたのか。
「へぇ、なら君はかなりのお人好しと見受ける。人間関係が冷たい日本人の事だ。一般人は見て見ぬふり、触らぬ神に祟りなしが普通だ。けど君は違った。俺を助けた。君は俺とは違う。俺は見て見ぬふりをし続けた。人を助けるその心を持っているのだとしたらその心を大事にするといい」
完璧に自殺する気が失せてしまった俺はこのまま帰ることにした。しかし家に帰っても何も無い。当然金もないので餓死は必至と言えるだろう。
こんな世間知らずの俺を雇ってくれるアルバイト先なんて無いしな。
人生に疲れてしまったな。また今度、誰も居ない所でひっそりと……かな。
そんなことを思いながら屋上の出口に向かって踵を返すと、再び女の子に腕を掴まれてしまった。
「あなたはなんでこんな所で飛び降りようと……死んじゃうじゃないですか」
「まぁ、そりゃそうだな。だって俺は死ぬ為にここに居たんだから」
「え?」
俺の回答に女の子は驚いたような反応をした。
こんな所に居て、飛び降りようとしたのだ。普通は自殺と考えるであろう。しかし、この子は違ったようだ。純粋に俺がここから飛び降りようとした理由が分からなかったらしい。
俺だってここから飛び降りたら死ぬってのは分かっている。分かっているからこそここから飛び降りようとしたのだ。
「まぁ、理由として一番適切なのは人生に絶望したから」
「人生に絶望?」
「あぁ、このままでは俺はどう足掻いても死ぬ。だから俺は今死ぬ選択をしようとした」
女の子は俺の台詞に息を飲んだ。今まで楽しいことしか無かったため、この子は今俺の言葉を聞いてびっくりしたのだろう。
こんな形で教えるのは非常に心苦しいが、期待を裏切られた方がずっと辛い。その事を俺は知っていたため、教えてあげる事にした。……いや、違うな。今俺がやっているのはただの愚痴だ。
純粋で何も知らない子に世界の残酷さについて愚痴ることを正当化しようとしているだけだ。
所詮、俺も俺でひでぇ奴って事だな。
「忘れてくれ。お前は俺みたいにはなるなよ」
これで全ておしまいにしよう。これを他人との最期の会話にしよう。そう思った。だが、俺を繋ぎ止めていた手がそれを許さなかった。
寧ろ若干さっきより強く握られてワイシャツにシワが着いてきている。
もうこんな事は気にしないが、俺が気になった事は女の子の目尻に涙の粒が溜まっている事だ。
さすがに女の子が泣きそうになっている所なんて遭遇した事が無かったので俺はどうしたらいいか困ってしまう。
とりあえず常備しているハンカチで女の子の目を拭いてあげた。
「うん。女の子には涙は似合わない」
女の子は驚いたようで惚けたような表情をしている。
なんで泣いていたかは分からないけど泣かないで欲しい。何故か俺はそう思ったのだ。いつもは泣いているのを見ても無視して見て見ぬふりの傍観者を続けていたが、自分がこの立場に立って初めて分かった。
俺みたいな境遇にはなって欲しくないというこの思いが俺をこうさせたのだろう。
「あの、あなたはこれからどうするんですか?」
「さぁ? 全くこれっぽっちも検討がつかねぇ。もしかしたら近いうちにこの世を去ってるかもしれねぇな」
「それはダメです!」
突然として声を張り上げた女の子。とても必死な様子が伝わってくる。多分この子は俺の身を案じてくれているのだろう。
だが俺の決意は揺るがない。いくら止められようとも。この世にいる理由が無い状態で彷徨っていたらそれはもう生きる屍だ。屍は屍らしく大人しく散る事にするよ。
「あなたは行く宛て、あるんですか?」
俺の様子を見て勘づいたのだろう。今の俺に、帰る場所なんて無いことを。
「なんでお前に言わなきゃならねぇんだよ」
「もし、もしです。もし、行く宛てがないのなら私と一緒に来る気はありませんか?」
「は?」