ハンコください一番ヶ瀬さん
私は日本のハンコという文化が嫌いだ。
本人確認のためのツールなのに、本人じゃなくても使えるし、何より文字数によっては使えないからだ。
私の苗字は一番ヶ瀬。こんなに長い苗字があの小さいハンコに収まるか?
無理に収めているんだけど、見にくいことこの上ない。私だって田中とかそういう簡単な苗字になりたかったよ。
田中なら百均にも売ってるし、どうにかすれば自分で彫れる簡単さ。
しかもありふれているし、読み方を何度も確認されない。
羨ましい。私は私が住んでいる地域ではよく見る苗字だけれど、全国的にはまれな苗字だからありふれた苗字に憧れている。もし結婚して苗字が変わるなら、そういったごく普通の苗字の家に嫁ぎたい。
曲がり間違っても我が社のクーデレ王子……天本仁のようなやつとは結婚する訳にはいかぬ。いや、私よりかは読める苗字だけどさ。
佐賀県と福岡県を分断する山には、個性的な苗字が盛りだくさんだ。彼の天本という苗字も、鳥栖に多い苗字らしい。他にも龍頭とか、かっこいいのいたなぁ。
里に降りると矢動丸とか中座とかこれまた珍しい苗字。海に行けば印という、ハンコを押す時ややこしくなる苗字の人もいる。
田舎あるあるだけどそれでも私はこの苗字を嫌っていたし、作るのが難しいからハンコも嫌っていた。
昨日やっと新しいハンコが届いたばかりなのだ。ネットで検索して、やっと見つけた。流石最大手。こんなマニアックな苗字も網羅しているなんて。
でも実際に届いたものは、想像していたのとちょっと違った。まあ、雰囲気だけで、ハンコ自体は普通に使えるからいいんだけど。
パソコンで何でもやってしまうんなら、ハンコいらないだろとは思うのだけど、そうは言ってられないのが会社だ。
事務の私は毎日受領印だの確認印だの押して押して押しまくらなければならない。
先述した王子……天本仁は同期のひとりだ。顔よし頭よし、スタイルよし、それで仕事ができて実家が金持ちだから、すぐに女子のターゲットにされた。
私はそういうの興味ないからパス。何よりあんなツンとしたタイプの男は好みじゃない。
無駄口叩く暇があったら少しはマシな仕事したらどうですか?みたいな台詞を吐かれるのは明白なんだから、他の女子達も諦めればいいのに。あいつ絶対女とか欲しがらないタイプだよ。面倒臭がりそうだもん。
慇懃無礼な敬語男。私が彼に抱く印象なんてそんなもんだ。王子でも何でもない。どっちかっていうと執事とか宰相向きの性格だ。
天本とは仕事の関係でたまに話をする。お互い仕事のことしか考えていないから必要最小限だけど。
今日も彼はガソリン代計上の書類を持って私のデスクにやってきた。
「一番ヶ瀬さん、捺印をお願いします」
「……はい。わかりまし……っ! ご、ごめんなさい!」
ハンコを持ったまま振り返ったのがいけなかったのか、書類を持った天本の手に、くっきりと一番ヶ瀬の文字がついていた。
慌てて拭き取ろうとするけれど、なぜか刺青みたいに染み込んでとれない。
心なしか光っているようにも見える。疲れてるのかな……。
「一番ヶ瀬さん……」
「はい、すみません」
「俺と付き合ってください」
「はい、すみま……え?」
天本の目はポーっとしていて、とろけるようにこちらを見ている。微笑みとはまた違った、独特な表情で私の答えを待っていた。なんていうか……陶酔?
何で? あ、そういえばこのハンコ……変なオプションがついていたような……。あまりにバカバカしくて無視したけれど。
“押した相手を所有できる所有印の役割もあります”ってあれ……本当だったんだ。
突然のファンタジー展開についていけないが、どれだけ信じられなくても、どれだけ意味不明でも、地球は通常通り自転する。こんなことで仕事を中断させる訳にもいかないのだ。
「仕事が終わってからにしましょう」
焦る頭でそれだけ言うと、天本は引き下がってくれた。
はあ、なんなんだよいったい。
*********
「ご主人様」
「なんだか誤解されそうだからやめてください」
「ではなんとお呼びすれば……」
タイムカードを打刻するや否や目の前に現れた冷酷執事。今までどこに隠れていたんだ。
「普通に一番ヶ瀬でいいですよ。呼びにくいなら奈緒で」
「では奈緒様」
「様はいらな……ああ、もういいや。面倒臭い」
こうやって恭しくこうべを垂れていると、パリッとしたスーツもたちまち燕尾服に見えてくる。
「表向きは俺と奈緒様が付き合っているということにしておきました。その方が都合がいいかと」
「こっちは都合が悪いわ!」
でも仕方ないことなのかもしれない。ちらりと彼の手を見ると、未だ消えぬ一番ヶ瀬の文字。なんてことをしてしまったんだ。
「恋人の特権として、同じ家に住むことも了承してもらえますか? 奈緒様のお世話をするのに差し支えるので」
お世話ときたか……。
確かに私には生活能力はないが、同時に男ひとりを受け入れる間取りもないぞ。
「家はちょっと散らかってて……」
「まさか! 俺が奈緒様のお宅にお邪魔するなど恐れ多い。面白味に欠ける部屋ではありますが、俺のマンションならば奈緒様と暮らすに値するかと」
この歳でマンションか……。確かここからちょっと離れたところにデカいタワマンがあったような……。まさかそこじゃないよね?
「で、でも彼女とかがいるんじゃ……」
「不思議なことをおっしゃいますね。俺の彼女は貴方ですよ」
駄目だ話通じねぇ。
なんて強力なパワーなんだ。このハンコは。
それから下手に出ているようでいて妙に押しが強い天本に流されて、ついに荷物をまとめてしまった。
「そ、想像してたのと違う」
我が社は副業が許されている。それは社長が株や不動産である程度稼いでいる孫を何としてでも我が社に入れたかったからだそうだが……天本、お前もか。
「学生時代に両親が事故で他界して、そのまま相続しただけですよ。あの会社も、副業が許されているという理由だけで選びました」
何でこんなチンケな会社に上物がいるのかと不思議だったがそういうことか。っていうかこのレベルのマンション運営してりゃ、会社に勤める必要ないんじゃないの?
このマンションは都会暮らしに疲れたお金持ちに人気らしい。田舎らしい自然がありながら、都市部へのアクセスが良好だからだ。田舎に暮らしたいなら田舎の不便も受け入れろよと本当の田舎民は思う。
「荷物はこれだけでよろしいのですか?」
「はぁ、執着がないもんで」
実家があまりに不便なので一応私もひとり暮らしだ。ただ、生活能力が皆無なので泊まるのに必要なものだけ詰め込んで散らかった部屋は無視した。
そんな部屋を一瞥した天本は「後で片付けに参ります」とだけ言っていた。そこまでやってくれるのか。
「面倒な手続きは週末にするとして、まずはお入りください」
中はそう広くはないけれど、あまりにものが少ないから広く感じてしまう。
全体的にモノトーンでまとめられていて、丸みを帯びたものはひとつもない。
無駄なものは一切なく、必要と思われるものも、生活感があるものはない。
随分とお洒落なモデルハウスだなとか、背景用のフリー素材ですか? みたいな部屋だった。
「確かに面白味に欠ける……」
「では今からトロピカルほそほそを買ってきます」
それが一体何なのかは気になるけれど、夜分遅くに買うものじゃないことだけは確かだ。
私は慌てて止めた。
天本は私の言うことを何でもきいてくれる。我が強いが、逆らうことはないのだ。
つまり、先んじて何か命令しておけば突飛な行動はとらない。あるいは、行動に移す前に止めればやめてくれる。
夜景が綺麗と呼べるほど星も街も見えない窓を眺めながら、この高さの利点は視線がないことぐらいだな……と考えていた。光るものといえばせいぜい月明かりを反射する海ぐらいか。あのあたりにカフェが立ち並んでいるんだよな……。
静かだなと思っていたら、天本は料理を作っていた。男の料理と聞いて想像するような豪快さはなく、かといってプロ級の繊細さはない。せいぜい動画を公開して稼げる程度だ。私からすればかなり凄いけれども。
味も美味しかった。店が出せるレベルじゃないけど美味しい。ちょっと説明が難しいけれど、丁度いいレベルだ。
ここまできて欠点がひとつもないぞ、この男。あの辛辣さがなくなればここまで完璧になるのか。
笑顔やユーモアは圧倒的に足りていないが、まあそこはいいだろう。逆に抜け感がプラスになる。
食事を終え、食器などの片付けを全て天本がした後、天本は大して重くもない口を開いた。
「奈緒様……自惚れかもしれませんが、俺は女性にとてもモテます」
「自惚れだね」
確かに事実だろうけれど、台詞の図々しさが凄い。
「奈緒様とこうして恋人となれたこと、喜ばしく感じます。そこで僭越ながらひとつ、奈緒様に提案が……」
「話は読めたぞ。答えはノーだ」
「俺と性交渉をしてもらえませんか。奈緒様にとっても悪い話ではないでしょう」
ええい、人の話を聞けぇい。
「わ、私は恋人でもない、好きでもない男と交合う趣味なんてないんだけど」
いつの間にか敬語を使うことも忘れていた。そういえばこいつ同期じゃん。敬語使う意味なさすぎる。
「俺達は既に恋人ですし、俺は貴方に女性的な魅力を感じています。貴方もそうでしょう? 俺に……少なからず男としての魅力を感じている。違いますか?」
本当に厚かましいというか図太いというか……無自覚なんだろうなぁ。
確かに男としては優秀な方だと思うよ。成功者だとも思うし、ぶっちゃけ顔も万人受けする方だし。まあ整ってはいるよね。
モテる要素しか見つからない。ちょっと他人に厳しく冷たく見えるところも、優しさの裏返しだと思うし。無愛想なのは社会人としてどうかと思うけれど、それで失敗したとは聞いてないから、多分どうにかなっているのだろう。
はっきり言うと、それなりに好きだ。でもそれはあくまで流された好きであって、本物の好きではない。
なんというか、流行っているからといってタピオカの列に並ぶようなものだ。人とは流されやすい生き物なのだ。
「あくまで一般論として、ね。一般論として、万人から支持される魅力的な男だとは思うよ。私がどうかはわからないけれど、他の女子はみんな好感を持っていると思う。私もその事実に納得している。それだけ」
誰かが「あの人いいよね」と言ったことに対して「いいや、違う」と思わないことは、好きのうちに入るのだろうか。無関心とどう違うのだろうか。
天本のかっこよさに対して「あーね」ぐらいの感想しか持てないのは、好きじゃないってことなのか。
「貴方がそう思うのなら、それでいいのです。この年頃の男女というのは、その程度の気持ちがあれば簡単に身体を重ねる。ムードさえあればすぐに流れでその気になります」
「それは天本が私とシたいってこと?」
私はウブな女子大生じゃない。五、六人ぐらいとそういう関係になったことがある、そこそこの女だ。ビッチと呼べるほど食い荒らしてなければ、無知と呼べるほど経験が少なくもない。
高校から今までの間にそこそこ性技を仕込まれた、普通の大人の女だ。
「ええ、そうですね。ですから、恋人になる必要があった。いや、貴方にハンコをもらう必要があったと言った方がいいでしょうか」
「今までの全部、わざと……だったの?」
ハンコに人を従える能力なんてなく、どこかでその文言を知った天本がわざとハンコにぶつかってきた……と。
いいや、違うな。私と長時間話をするきっかけとして、ハプニングを起こしたかったのだ、彼は。
結果ゴリ押しで私を彼の家に住まわせることに成功した。
「どうでしょう? これでこの年頃の男女らしい行動をとりたくなりましたか?」
「まどろっこしいのは嫌い。直球勝負できて欲しかった」
嫌いではない……を好き……にするのは難しい。プラス思考の人なら「それって好きってことだろ?」と言えるだろうが、このふたつには越えられない壁があるのだ。
嫌いを好きにする方が簡単だ。嫌いな要素を好きな要素に変えればいいのだから。あるいは、嫌いを塗り替えるほど好きになるか。
嫌いじゃないは無関心とほぼ変わらない。どうでもいいのだ。だから好きになろうという気が起きない。
天本は……どうなっても構わない。好きじゃないけど嫌いじゃないから、できる。
ヤれる。
ネクタイを引っ張って唇をぶつけると、素直な人だと笑われた。
*********
「至れり尽くせりすぎじゃない?」
「奈緒様のお役に立てるのなら」
ずんと重い腰が気になるけれど、会社は待ってはくれない。
起き上がるのが億劫でしばらくもぞもぞしていたら、天本が全てやってくれた。全てだ。顔を洗うことも、下着を着替えることも、メイクや食事、歯磨きまで。介護されている気分になる。
しかもメイクが私より上手い。
「さあ、行きましょう。うちは社内恋愛禁止ではないので、報告は早い方がいいかと……」
「ほ、報告って何の?」
私の質問に振り返った天本は、多分彼の人生で一番いい笑顔で爆弾を落とした。
「結婚ですよ。それから、独立の。祖父を黙らせるために仕方なくあの会社に入りましたが、あそこにいても成長は見込めませんから、独立の準備を進めていたんです」
「天本って……社長の……?」
社長と天本は苗字が違う。でも祖父ということを考えればまあ不自然ではない。何で今まで気づかなかったんだろう。どこかの金持ちらしいというのは知っていたのに。
「ええ、といっても、そこまで仲良くはありませんが。父親が駆け落ちした先で商才を発揮し、ある程度裕福に暮らしていたんです。成人後に両親が他界して、どこから聞きつけたのか祖父が俺を取り込もうとしたんですよ。俺の父は一人息子で、俺は彼にとっては一粒種ですから、祖父としても逃す訳にはいかなかったのでしょう」
天本は母親の姓らしい。彼の父親は一人息子でありながら婿に入ったようだ。まあ駆け落ちだから関係ないか。
社長は優秀かつ自分の遺伝子を継いだ男子が欲しかったのだろう。でも優秀だからこそ、社長の元には下らなかった。
「なんて身勝手な」
「それは誰が……ですか?」
「全員」
こういう話を聞くと自分は庶民でよかったとつくづく思う。
私は押し付けられるのも操られるのも好きじゃない。責任感もない。
恋に生きるつもりもない。
静かに細々と。誰とも深い関係を築かず、かといって全てを拒む訳でもなく。そうやって生きていくつもりだった。いいや、今だってそのつもりだ。
ただ、なんとなく、こいつは一度決めたらしつこそうだなぁと思う。なんてったって父親が駆け落ちなんてしたぐらいだから。いや、それは関係ないか。
「そういえば何で私?」
ハンコの力が本物だったとしても、その前に天本自ら私にアタックしてきたのだ。つまり前から私に何らかの感情を抱いていたということだろう。
「恋愛が始まる理由なんて大抵しょうもないものですよ。きっかけは些細でも、気にしていればいずれ大きくなっていくものでしょう。最初にいいなと思ったのは、研修の時にペンの数が少なかったことですかね」
別に合理的に生きているからではなく、単に面倒だったからなのだけど、それでも天本は好意を抱いてくれたらしい。
「それから、いただきますとごちそうさまを、必ず手を合わせて言うことですとか、まあ、そんなところです」
「私は天本のこと、そんなに好きじゃないけど?」
「貴方はお試しで付き合って惰性でダラダラ関係を持つタイプでしょう。だから、それでいいんです。田舎に帰った時にお見合いを勧められなくて便利……ぐらいに考えていてください。昨日の流れで身体の関係を持つことを厭われている訳ではないことも確証済みですし。子供が面倒ならそれも構いません。貴方の楽なように生きてくだされば」
それは魅力的なプランだ。特に理由なく、付き合っているかどうかもあやふやなまま関係を続けていた相手も過去にはいたし、こいつのこともそれくらいで考えていればいいんだ。
なんといっても両親がいないことが大きい。親戚付き合いは面倒で困るから。
まあうるさい祖父がいるらしいけれど、縁を切るつもりで独立なんてするんだろうし、天本も成人するまで音沙汰なかった相手に情なんて湧かないだろう。
「んじゃ、面倒だからそれで。この長ったらしい苗字とおさらばできるってんなら、喜んでハンコを押すよ」
「では奈緒様……」
ハンコをください。そう言って天本は一枚の書類を差し出した。昨日の今日で随分と用意がいいことだ。
私は躊躇いなく、妻の欄にハンコを押した。
多分、今までで一番、ハンコを押すのが楽しかった。