8話
次の日、久しぶりに朝からカイくんと抱き合った。私の腕の中で目を閉じ、彼はまた眠り始めた。落ち着くまでしばらくそのまま髪を撫でる。それから起こさないようゆっくり離れて、バスルームに行きシャワーを浴びた。
サンドイッチでも作ろうと思い立ち、近くのパン屋さんに行く。冬の冷たい空気が気持ち良くて、少しだけ寄り道した。いつもは歩かない道を通って、私なりに名残を惜しむ。この街に住めて、カイくんと暮らせて本当に良かった。いい思い出のまま、ここを去りたいと強く思う。
アパートに帰ってすぐ、宅配の人がチャイムを押した。荷物を預かりテーブルに置く。出版社の名前が入った封筒はとても分厚い。ひょっとしてこれは、カイくんの新作では?
ちょうどいいタイミングで彼も起きてきて、封筒の中身を二人で確認する。
「かっこいい、装丁」
思わずそう言うと、頷いて嬉しそうに笑った。愛しくて我慢できず、すごいねと言ってカイくんに抱きつく。ヤバいなあ。こういうの、本当にダメなのに。
「この本、欲しいって言ったらどうする?」
「ん? 何言ってんの?」
……ああ、本当にバカだ。嘘だよと言って彼から離れ、サンドイッチの用意を始める。どこまで厚かましいんだろ、私。嬉しくてつい、調子に乗ってしまった。
「本当は書店で買ってほしいんですけど」
背中に硬い物が当たって振り向く。照れたような顔のカイくんが、
「今のも嘘。ていうか、先に言うなよ。最初から雪路に、プレゼントしようと思ってたんだ。この本は、おまえがいなきゃ生まれなかったし、とにかく感謝してる」
んっと言って本を突き出した。両手で貰って、ありがとうと告げる。もう。嬉し過ぎて泣きそうだ。
「朝ごはん食べたら、早速読むね」
笑顔を向けると、今日は読まないでと彼も笑う。
「取材旅行パート2という事で、昼から出発する。一泊だから前より強行軍だけど、協力よろしくね」
「ええっ?」
驚く私を放置して、彼はシャワーを浴びに行った。それから急いでサンドイッチを作り、あわただしく旅行の準備をする。車の中で、前もって話してよと愚痴ったら、
「泊まりたい宿がずっとキャンセル待ちで、取れたのが昨日の夜だったの。急で悪かったけど、すごくいい宿だから許して」と頭を撫でた。二時間ぐらい走って、先に撮影したい場所へ向かう。そこで例のごとくカメラマンになって、陽が暮れるまで移動する。
着いてみれば確かに、すごく素敵な旅館だった。部屋に海の見える露天風呂があって、料理がとても美味しくて。
「雪路、一緒に入ろう」
疲れ切った私の腕を引っ張り、カイくんは大はしゃぎだ。仕方ないので一緒に湯船に浸かり、彼の膝の上に乗せられて月を眺める。
「こういうのが、幸せって言うのかな」
しみじみとカイくんが呟く。振り返って、幸せって切ないねと言ってみる。
「気持ち良くていつまでも入っていたいけど、そしたらのぼせるし、体もふやけるし」
「これが日常なら、幸せとまでは感じないよな。たまにしかない事だから、貴重で幸運だと思うんだよ」
カイくんとキスして、体を触り合う。
「もう他の人とした?」
何となく聞いたつもりだった。なのに私は、何かのスイッチを押してしまったようだ。
「そんなの聞いてどうすんの? バカじゃないの」
ムッとしたような顔で、私の体を自分から離して立ち上がった。
「ごめんなさい。私には関係なかったね」
「……いい加減にしろよ」
幸せって本当に一瞬だ。たった一言で、もうこんなに気まずい。カイくんは体をさっと洗って露天風呂から出て行った。耐えきれずに湯船に浸かったまま、私は泣いてしまう。
嫌だ。せっかくの旅行なのに喧嘩したくない。そう思うのに、もうどうすればいいかわからない。
朝起きた時も機嫌悪そうな彼を見て、美味しい料理もまずく感じた。それにしても、なんであんなに怒ったんだろう。悲しくて目を伏せると、雪路とカイくんが声を掛けた。
「昨夜は悪かったよ。おまえは悪くないから気にすんな」
「理由を聞かせてくれないの?」
また線を引かれた。仕方ないとは思うけど、もう少しだけ踏み込んでみたい。
「平助」
「チェックアウトまで時間ないから、早く食べよう」
私より傷ついた目をして、彼はごはんを口に入れた。ここまで連れてきてくれたお礼がしたいのに、やっぱり難しい。
旅館を出てすぐに取材場所へ向かう。ある程度撮影した後で、雪路と肩を叩かれた。
「ここはもう、これぐらいでいいよ。次の場所へ行ったら帰るから、そのつもりで」
「あ、うん」
駐車場に戻って助手席に座る。この旅行もそろそろ終わりなんだ。そう感じて寂しかった。
「雪路って動物好きだっけ」
「好きだよ。一番好きなのはクラゲかな」
そんな話をしていたら車が大きく左折した。どこに行くんだろうと思っていたら、サファリパークという看板を見つけた。
「こんな所も取材するの?」
「取材はさっきので終わり。今からはただのデート」
デートという言葉にドキドキした。さっきまで落ち込んでたのに、もう嬉しくて仕方ない。ふと隣を見ると、俺はライオンが見たいんだと可愛く笑った。
車のまま入れる動物園や、小さな水族館ではアシカやイルカのショーを見た。楽しくてずっと笑っていたら、雪路って可愛いよなと言ってくれた。たまたま誰もいない場所だったので、肩に手を置いて少ししゃがませ、軽くキスしてみる。
「何だよ、もう」
カイくんは顔を赤くして、それから私を抱きしめた。
「思わせぶりな事すんなよ」
「好……」
ヤバい。言いそうになった。でもって、とうとう認めてしまった。
どうやら私はカイくんの事を、本気で好きになってしまった、らしい。
それからクラゲのコーナーを見つけて、彼と手を繋いでゆっくり眺める。ブルーや紫、ピンクといった色にライトアップされて優雅に泳ぐ姿が、夢のように美しい。
「綺麗だね」
うっとりしていたら、うんと言って彼も微笑んだ。こういう所に来ると、本当にデートって気分になる。
「そういえば昔、秀の家でも飼ってたよ」
秀って誰だろうと思ってたら、和泉秀勝だよと笑って、
「大きな水槽を買って、本格的に飼育してたんだけどすぐに死んじゃうらしくて、三か月ぐらいで止めちゃった。水槽の処分どうしようって困ってたっけ」
「そう。難しいんだよ、クラゲの飼育。うちも一度飼おうかって話が出たんだけど、寿命が短いって聞いて断念したもん」
「……そう」
「あ、この形のクラゲが一番好きかも」
カイくんを引っ張って水槽に連れて行く。本当に綺麗で、見ているだけで幸せになる。
「そういや、だんなさん。もう離婚届を出したの?」
「ううん」
水槽を見たまま、首を横に振る。
「今度会って、またお願いしようと思って。こんなんじゃいつまで経っても、お互い前に進めないから」
「俺と一緒に住んでるって言えばいい」
肩を抱いて、カイくんは私の頭をぽんぽんと撫でた。優しいなと思って顔を見ると、
「余計な口出しだと思うだろうけど、切る時はばっさりと切れ。その方が相手の為だ」
「わかった。心配してくれてありがとう」
一旦好きって自覚すると、歯止めが難しいな。彼のさりげない一言や行動が、色んな形で心の中に入ってくる。
アパートに帰ってベッドに入り、どちらからともなくキスを交わす。
彼の指が唇が、私の体に触れるたびに甘い声がほとばしる。
感度良すぎるよと言われて、ものすごく恥ずかしい。でもどうしようもなく嬉しくて、感じてしまうんだから仕方ない。
終わってもしばらく震えていたら、
「離したくないな」
繋がったままカイくんは優しい声で言った。
「……私も。このままがいい」
「それなら、ずっとここにいれば?」
「ここに?」
「ずっと一緒に暮らそう」
カイくんは優しくキスしてくれた。ずっと一緒に。そうだよね。私もそうしたい。でも……。
黙ってしまった私を見て、彼は体を離した。
「考えといて」
そう言ってバスルームに向かった。