6話
それから一週間後、私は通販の会社で電話受付の仕事を見つけた。バイトだったけど時給がいいのと、パソコン初心者でもOKという謳い文句に惹かれて申し込んだ。
「バイトって事は、就活辞めたの?」
今日はメグミがうちのアパートに来ていた。二人で赤ワインを飲んで、久しぶりにゆっくり話をする。
「先延ばしにしてるだけよ。正社員にはなりたいけど、まずはお金を稼がなきゃね」
「それ正解かもね。関わる人が増えたらいい情報も貰えるし。それにしても、いい部屋だね。アパート見た時は驚いたけど、レトロな感じでおしゃれ」
メグミが部屋を見回す。
「今日は泊まっていいって聞いたけど、カイくんは本当に大丈夫なの?」
「一応連絡したけど、今日も帰らないって」
旅行から帰ってすぐ、カイくんは友達の家で仕事すると言って、ほとんど帰って来なくなった。距離が縮まったと思ったのは私の勘違いだったみたいで、正直がっかりした。
「友達って何。それ絶対、彼女じゃん」
澄ました顔で、メグミはチーズを口に入れる。だよねと言って、私も手を伸ばす。
「そばにいるのが当たり前だったから、ここに一人でいると寂しいんだよね」
私も部屋を見る。いつも座ってた椅子を見て、カイくんの事を想った。
「そうは言っても、あと二ヶ月ぐらいで出ていくんでしょ?」
「うん。最初からの約束だもんね。名残惜しいけど、仕方ないよ」
「もしかして、惚れた?」
「ないない」
手を横に振って赤ワインを飲む。
「恋愛してる余裕なんてないよ。最初のお給料をもらったら、すぐに部屋を探しに行くつもり」
「ふうん。私が見た感じだと、いい雰囲気なのにね。雪路も虎次さんといる時より、自然体っていうか」
確かに、カイくんにはあまり気を遣ってないかも。口が悪いから、こっちも言いたい事が言えるし。
「体の相性も良さそう」
「うん。上手だよ」
「嘘。私も一回ぐらいならしてみたい」
「あはは」
そういえばカイくんも、私以外の人と試したいって言ってたな。今一緒にいる彼女とは、上手く出来たんだろうか。
ああでも、想像すると妬いちゃいそうだ。私は彼女じゃないんだから、深く考えるのはやめておこう。
次の日の朝は寒くて、いつもより早く目が覚めた。メグミに布団を貸したので、私は薄いタオルケットしか羽織ってなかったのだ。もうすぐ十月。さすがにこれだけでは寒すぎる。
熱いシャワーで体を温めて、静かにキッチンへ移動する。朝ごはんを作って先に食べ、会社から借りたノートパソコンでキータイピングの練習をしていると、玄関の鍵を開ける音がしてカイくんが帰ってきた。
「あ、おかえり」
「ただいま。そっか。今日はメグミちゃんが来てるんだっけ」
三和土に置いた靴を見て、まだ寝てるのと聞いてきた。
「そうなの。昨夜遅くまで飲んでたから」
「ふうん。仕方ないな」
カイくんは椅子に座って私を膝に乗せ、会いたかったと抱きしめた。
「え。カイくんだよね?」
「何?」
髪を撫でてキスをして、
「雪路パワー、ヤバいわ。もう勃ってきちゃった」
そう言って私に触らせ、シャツの中に手を入れて胸を揉み始めた。
「ちょっと……ダメだよ。メグミがいるのに」
「少しだけでいいから」
顔を近づけて長々とキスをする。何だろう、このテンション。やっぱり彼女とは上手く出来なかったのかも……。
ガラッと戸が開く音と、メグミの驚く声が同時にした。慌てて離れたけど、カイくんの大事な部分はしっかり見られたみたい。
「朝から盛ってんじゃないよ、全く」
その後何故か、カイくんが運転する車に私とメグミが乗っていた。
「何度目ですか、それ。俺だって恥ずかしいんだけど」
「だってカイくんのが目に焼き付いちゃって、しばらく無理……うわっ」
少し乱暴に車が止まり、後部座席の私とメグミがよろける。またすぐに車は発進し、地下の駐車場へと入っていった。
「着きましたよ」
車を降りて建物へ続くドアを開け、かなり広めのエレベーターに乗る。高層階で降り、おそらく高級マンションと思われる廊下を歩く。
ある部屋の前に着いて、カイくんがドアを開けた。中に入った私たちは、エントランスからすでに騒いでいた。
「何これ。玄関、広過ぎ」
「メグミ、この床は大理石だよ」
そしてリビングの広さと窓からの景色に、また歓声を上げる。
「カイくんの彼女ってお金持ち?」
そう聞いた私に、誰の彼女ってと尋ねる。にゃあという声がして下を見ると、足元に耳を擦り付ける人懐こい猫がいた。
「ただいま、なずな」
カイくんが愛おしそうに抱き上げて私を見た。
「前にも言ったけど、ここは友達の家だよ。旅行の間、猫を見てくれって頼まれてたんだ。小説の直しも集中的にしたかったし、バイト代もくれるから引き受けたって訳」
「そっか。彼女じゃないんだ」
何だかホッとして、でもそれを見破られるのが嫌で視線を逸らす。やだな。こういうの。
メグミが勢いよくリビングに入ってきて、
「もしかしてここ、和泉秀勝さんの部屋だったりする?」と大声を出した。
「そう。よくわかったね」
「誰なの、それ」
私が聞くと二人とも、知らないのと驚いた。え。そんなに有名な人?
「元議員で会社経営者。最近はよくテレビにも出てるぜ」
「そうなの。テレビ観ないから知らなかった」
とりあえずその人が、お金持ちなのはよくわかった。天井の高いリビングには高級そうな家具が置かれてあるし、小物も凝ったデザインの物が多い。
「雪路の家のリビングに雰囲気が似てない?」
うちは一軒家でここまで広くないよ。そう言って口をつぐむ。虎ちゃんと住んだ家は、もう私の家じゃない。
ソファに座って猫と戯れているカイくんが、
「そろそろ本人が帰って来るよ」とあっさり言った。私たちは驚いて、
「それじゃあすぐ、おいとましなきゃ。旅行から帰って疲れてるでしょうし」
「大丈夫。雪路に会いたいんだって」
それで連れてきたんだと彼は笑って、ちょうどいいタイミングでリビングのドアが開いた。
それから一週間後、私は広いオフィス内でパソコンと格闘していた。
「桐沢さん。調子はどう?」
隣の小鳩さんが優しく尋ねる。この人は私の上司で、現在は会計ソフトの使い方を指導してくれていた。
「すみません。飲み込みが遅くて」
「そんな事ないわよ。でも今日は社長とランチの約束があるから、少し早めに手を動かしてね」
そう。社長とのランチがあるからこそ、緊張して余計に遅くなってしまうのだ。電話受付のバイトの筈が、何ゆえ商品登録画面とにらめっこしてるのか。
「こういう時は、ショートカットキーが早いわよ」
まるでピアノ奏者のように、小鳩さんの指先が踊る。速すぎてさっきから、ひえーという言葉しか浮かばない。
目の前の電話が鳴った。小鳩さんが素早く受話器を上げ、業務連絡らしき会話をしている。ぽちぽちとキー入力していたら、電話を切った小鳩さんがそれ保存しといてねと言った。
「思ってたより早く戻られたわ。行き先は聞いたから、今から出ましょう」と立ち上がった。
会社を出て近くの蕎麦屋に入り、奥の個室へ。小鳩さんが先に座って、
「和泉社長とは前からの知り合いって聞いてるけど、具体的にはどんな関係なの?」と聞いてきた。
「同居人の友達ってだけです。今日会うのも二回目ですから、知り合いって程じゃ……」
「それじゃ、よっぽど気に入られたのね。ゆくゆくは正社員にするって、うちの課の課長からも話を聞いてるのよ」
「本当に助かります。離婚したばっかりで、早く安定したいので」
「そう。大変なのね」
離婚というキーワードに眉を下げて、
「でも、ツイてる事もあるわね。うちの事務は人気で、中途採用はなかなか受からないの。電話受付の方はバイトしか取らないから、事務に回されたのは本当にラッキーよ」
「お待たせ」
縦長の暖簾を開いて、和泉さんが入って来た。蕎麦屋にいるからって訳じゃないけど、和風のイケメンだなと思う。切れ長の目が魅力的で、テレビではもっぱら主婦層に人気が高いらしい。
「雪ちゃん、仕事には慣れた?」
「いえ、まだ二日目なので」
「そうだよね。ちょっとずつ慣れていけばいいよ」
そう言って可愛らしい笑顔になった。この気さくな人柄も人気の一つなんだろう。いわゆる富裕層にいる人たちは、子供の頃から社交的になるよう育てられるんだろうか。虎ちゃんも人付き合いが上手だったし、なんて思ってたら二人はメニューを見てさっさと注文をしていた。わからなくてお二人と同じ物でと言うと、大きなお盆に天ぷらとお寿司、蕎麦が乗った豪華な定食が目の前に現れた。
「関西ではざるそばに、ウズラの卵を入れるんだよ」
和泉さんが品良くお蕎麦をすする。
「ああ知ってます。母の実家が大阪なので」
小鳩さんがそう言って和泉さんも、俺の母も大阪生まれと笑った。
「肉まんって言うと、それは豚まんやと言われて育ったよ」
「そうそう。からしを付けて食べるんですよね」
二人で楽しそうに笑っている。私も笑顔で蕎麦を食べてると、
「そういえば、平助の実家は京都だよ」と和泉さんが私を見た。
「一度遊びに行ったけど、町屋っていうの? 間口が狭くて奥に長いお宅で、なかなかの風情だったよ」
「そうなんですか。てっきり、こっちの人かと思ってました」
「なんでも親が離婚して、小学校の低学年ぐらいから引っ越してきたらしい」
「お詳しいですね」
私の言葉に、俺は平助の大ファンだからと胸を張った。そして小鳩さんに、
「雪ちゃんの同居人は、推理作家なんだ。デビューの小説をたまたま本屋で見つけて、それがすっごく面白くて。すぐにファンレターを出したの。そしたら律儀に返事をくれて、それが縁で仲良くなったんだ」
「ああ、その方ですか」
小鳩さんが納得しましたと笑う。
「先日のSNSで社長が、作家の友達に愛猫を預けてるって書かれてましたよね」
「そう。甲斐平助。一度読んでみなよ。面白いから」
「面白くて、割とエロいですよ」
小鳩さんにそう言うと、本人とおんなじと言って和泉さんは楽しそうに笑った。
仕事に戻ってすぐ、和泉さんからメールをもらう。
『さっきは食事に付き合ってくれてありがとう。今度は個人的に誘ってもいいかな? 平助の事で色々話したい事があるんだ』
そういう文面だった。話って一体何だろうと思いつつ、了解致しましたと返信する。
「社長って気さくな方よね」
隣に座ってすぐ、小鳩さんが小声を出す。
「実は私も、個人的に話すのは三度目ぐらいなの。同じ社内にいても、やっぱり雲の上の人だから」
ですよねと相槌を打って、社内をぐるっと見渡す。たくさんの人が忙しそうに仕事をしていて、会社の規模の大きさに目がくらみそうになる。
「だからちょっと羨ましかった。社長が、雪ちゃんって呼んでるの」
小鳩さんが少し頬を赤くして私から目をそらす。
「そうなんですね。一応わきまえてますよ。和泉さんは同居人の友達だけど、私にとっては雇い主ですし」
「ん? 別にいいんじゃない? 社内恋愛、大いに結構。これ、うちの社訓だから」
面白いですねと笑って、私はまた登録画面に向かった。年頃の女の人にとって、和泉さんは夢物語の一つなんだろうな。どんなに時代が変わっても、玉の輿に乗ることが女の幸せだと思う人はまだまだ多い。結婚はゴールではなくスタートで、いざ玉の輿に乗ってみたら障害物の多さに驚くというのに。虎ちゃんは浮気をしない人だったけど、大抵のお金持ちは女好きなのだ。他にもたくさん、見えない針が入った真綿にくるまれるような息苦しさを、どうすれば感じずに済むか模索する。それが結婚生活だと思うけれど、人に羨ましがられる環境はどんな人にとっても魅惑的なのだ。
アパートに帰るとカイくんは仕事に出掛けていた。晩ごはんを食べてゆっくりお風呂に浸かったらもうやる事がない。一人ってこんなにつまんなかったっけ。そう思うようになったのは、いつからだろう。
夜中に帰ってきた彼に、布団の中でそっと抱きしめられると安心する。でもこの気持ちに名前を付ける事は敢えてしたくなかった。