1話
言葉ひとつで環境なんて簡単に変わる。
夏空が広がる朝、私は古いアパートの前に立っていた。どの町にもある、古い集合住宅だ。門や玄関は無く、木製のドアが一定の間隔で並ぶシンプルなアパート。二階建ての外側だけでは、古さの加減がよくわからない。表札を確かめ、カイくんの部屋のドアをノックする。その手がかすかに震えていて、緊張していたのだと今更気づいた。
しばらくして出てきた彼は、私を見て片眉を上げた。明らかに機嫌が悪そうで、しかもそれを隠そうとしていない。おかしいな。数時間前の対応とは雲泥の差だ。
「こんなに早く来るって、聞いてないんだけど」
頭を掻きながら部屋に入り、ふわあと大きくあくびをした。
「え、ちゃんと言ったよ。友達の家に居づらいから、荷物まとめたらすぐに行くよって。そしたらカイくん、いつでもおいでって優しく……」
「店での俺は、俺じゃないから」
ムッとしたままTシャツの裾をめくり、お腹を掻いている。何これ。もう、嫌な予感しかしない。
「……もしかしてカイくん、居候の件を反故にする気?」
「そうは言ってないけど」
時計をちらっと見て、玄関からは見えない部屋に入ってしまった。仕方ないので靴を脱いで、ダイニングルームとして使ってそうな部屋に入る。外観にそぐわない綺麗な室内は、彼が昨日話してたリノベーションって奴だろうか。柱や今時珍しい木製の引き戸も白く塗られ、古さを活かしたおしゃれな空間って感じだ。
静かになったのが気になって、隣の和室を覗いてみた。案の定私を無視して、カイくんは寝てしまったようだ。さすがに入りづらくて、そっと引き戸を閉める。さて、これからどうしたものか。
とりあえず椅子に座り、暑かったのでクーラーを付ける。カイくんが起きてきたら、何としても置いてもらえるよう説得しなくちゃ。もう他に行く当てもないのだ。仕事を探して、落ち着くまでの間でいいから。そう言って必死で頼み込んで……。
「おい」
気づいたらテーブルに突っ伏して眠っていた。顔を上げると無表情のカイくんがいて、
「クーラー付けたまま眠ったらダメじゃん。風邪引くよ」と毛布を渡してくれた。
お礼を言って、体に巻き付けた途端くしゃみが出る。確かに体がとても冷えていた。
「シャワー浴びてきたら?」
普通の顔で手招きして、バスルームまで案内してくれた。ああ、良かった。さっきより機嫌がマシになっている。お言葉に甘えてシャワーを借りて出てきたら、カイくんは淡々とごはんを食べていた。
「居候の件だけど」
私が口を開く前に、カイくんは顔を上げた。きりっとした眉に大きな目。私の好みではないけど、世間的にはイケメンと呼ばれる顔立ちなんだろう。アイドルグループにいたらリーダーで、ドラマでオレ様キャラとか演じそうだ。佇まいに迫力があるから、ヤンキー役とかもハマりそうと妄想を膨らませてたら、聞いてるのかと怖い目で睨まれた。ほら、ヤンキー似合ってる。
「……ここにいたいなら条件がある」
彼は指を一本立てた。女の人みたいに細く、長い人差し指。
「家賃や光熱費は俺が出す。でもその他の諸経費は折半。時間帯が合わないだろうから食費は各自で。基本的にお互いのプライバシーには口出ししない。あと大事なのが」
指を数本立てたまま、カイくんは更に目を細くした。
「居住の期間を設けて、期日になれば出て行くこと。これらを守れるなら、この部屋にいても構わないよ」
「リーダー、一つだけいいですか?」
私は手を挙げる。こういうノリは尊重しないと。
「掃除は当番制ですか? あと、居住期間の最長は?」
「掃除は俺がする。見てわかるだろうけど綺麗好きなんだ。ある意味、趣味の範疇だと思う」
「了解です」
「居住期間については、こちらから質問がある。雪ちゃんの要望をまず聞きたい。一人で生活するようになるまで、後どのくらいかかるんだ?」
私は口ごもる。まずは仕事を決めて落ち着いてから、って感じになるんだろうけど。
「……半年もらえたら助かるかな。何しろ社会復帰が久々過ぎて」
「そういえば、一ヶ月前まで主婦してたんだっけ」
頷いて目を逸らす。そういう言葉、急に聞くと痛いなあ。まだ全然、傷がふさがらない。
「オッケー。期間は今日から半年で。よろしくね、雪ちゃん」
「もう一つ大事なこと、聞いていい?」
向かいの椅子に座って、カイくんの顔を正面から見る。
「カイくんとの関係だけど、私はただの居候でいいんだよね?」
「どういう意味?」
「つまり、私は女だから。……友達でいいのかって事。恋人的な役割まで、求めてないよね?」
「まだ朝なのに、元主婦はあからさまだな」
ようやく笑って、カイくんは私の髪を触った。
「そのへんはおいおいって事で。対人関係の線引きって、好きじゃないんだよね」
なるほど。この顔でバーテンしてたら、女性関係もさぞお盛んなんでしょう。手を払って、
「カイくんって、来るもの拒まずって感じね」
「ご想像にお任せします」
急に店での対応時のように、優しく微笑んだ。やっぱり、ちょっと変な人だ。
「あと、これも重要なんだけど」
澄ました顔でお茶を飲んで、カイくんは真顔に戻った。
「バーテンはバイトで、本業は小説書いてんの。だから日中は向こうの六畳間に籠ってるから、必要時以外は話しかけないでね」
では今から仕事するんで。
そう言って立ち上がり、静かに襖を閉めた。二部屋しかないのに、なかなかハードルの高い事をおっしゃる。
その日は安い食器やスリッパなんかを買いに行き、駅前にある大きな図書館で時間をつぶした。それからおじさん率の高い食堂で晩ごはんを食べ、部屋に戻るともうカイくんはいなくなっていた。
六畳の和室を通り抜けて、バスルームでシャワーを浴びる。水回りは最新の物だし、建物は古いけど意外に快適だ。
洗面所で髪を乾かしてから和室を眺めた。机と大きな本棚、セミダブルのベッドでスペースはほぼ埋まっている。ということは、私はどこで寝れば良いのだろう。とりあえず机とベッドの間に毛布を敷いて、私物のハーフケットをお腹に掛けて寝転んだ。水回りへの通路だけど、本人の承諾もなくベッドを借りるよりはマシだろう。
それにしても。うたた寝をしたせいか人の家だからか、全く眠くならない。仕方がないので預金通帳を開き、減る一方の残額を見つめる。何でもいいから、早く仕事を見つけなきゃ。慰謝料を拒否した事だけは、意地でも後悔したくないし。全てをリセットして新しい生活を始めるのだから、もう後ろは振り向かない。
「ああん」
突然ものすごく甘い女性の声が、隣の壁から聞こえてきた。え。こんなに薄いの? まるですぐ近くにいるみたいなんですけど。
最初は我慢してたけど、声が大きくなるにつれ我慢が出来なくて、私はイヤホンで音楽を聴いてやり過ごした。一時間ぐらいそうしていたら終わったようで、ホッとしてイヤホンを外す。
カイくんは知ってるのかな。
ようやく彼の事が気になった。冷静にしてたつもりだけど、私も余裕がなかったんだな。本業の小説って、どんなジャンルなんだろう。あのクールな顔で恋愛小説とかだったら、ちょっと笑える。二十八って聞いてたけど、独身のせいかもっと若く見えるんだよね。
……いつの間にか眠ってたようだ。目を開けたらベッドにいて、お約束のように隣にカイくんが眠っていた。
でも添い寝という感じで特に何もなさそうだ。安心して、私はまた目を閉じた。