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声が聞こえる

作者: ふで屋

父が笑っている。母が笑っている。祖父が笑っている。祖母が笑っている。懐かしい、あの頃。僕は──笑っている?

不快な眠りから目を醒ました僕は、枕元の時計を手に取り、時刻を確認する。午後四時半。夏もそろそろ終わりを迎えようとしてはいるものの、残暑が厳しい。六畳一間の僕の部屋は、ほとんどサウナと言っていいくらいの蒸し暑さだ。


のろのろと汗で濡れた布団から起き上がり、キッチンまで歩く。畳を踏む足が汗で湿っている。部屋の暑さとさっき見た悪夢、そしてこの発汗。とにかく不快だ。台所までほんの数歩、湿った足の裏と湿った畳が接触する。べたべたして気持ちが悪い。


錆びた水道の蛇口を捻り、コップに水を灌ぎ、一気に飲み干す。流れ出てきた水は、冷たいどころかほとんどぬるま湯で、不快だ。


部屋に一つだけある窓のクレセント錠を開錠して、窓を開ける。部屋に入ってくる外気。滞留していた僕の部屋の空気と、窓の外の空気が交差し、僕の部屋の淀んだ空気は外へと逃げ、逃げて行った空気と交代するように外気が僕の部屋へと入り込んでくる。


深呼吸。外界の空気を吸い込むと同時に、僕の意識は今へと引き戻される。アパート近くの小学校から聞こえてくる子供たちの声。それに交じって聞こえる女性の声は、彼ら、彼女らの母親の声だろうか。


窓の下に置いてある小さな木製の本棚。建築士の祖父が、余った建材で作ってくれたものだ。古い蔵書が数冊あるだけで、隙間だらけの本棚。その上段に置かれた煙草に手を伸ばし、火をつける。吐き出した煙が外界へと逃げていく様子を僕はただ黙って見つめる。そっと、本棚を触ってみる。陽に焼けた祖父の笑った顔が浮かんでくる。煙草を揉み消し、もう一本。思って煙草のパッケージを振るけれど、どうやらさっきの一本が最後だったようだ。


僕は湿気の抜けない布団に座って、考える。どうして、こうなったんだろう?


ふと、声が聞こえた。


「もう、いいんじゃない? そろそろ、こっちにおいでよ」声の主は僕に語りかける。


「ねぇ、こっちにおいでよ」声の主は言葉を重ねる。


僕は強く頭を左右に振って、声の主の存在を否定する。


「黙っていてくれないか」僕は言う。汗を吸ったシャツを脱ぎ、新しいシャツに着替えた僕は、再び湿り気を帯びた布団に寝転がり、瞼を閉じる。闇に引き込まれる感覚。僕は体と心を委ねる。


目を醒ました僕は、学習された動作で枕元の時計で時刻を確認する。午前二時。開け放たれた窓からは、昼間の暑さに比べれば涼しさを帯びた外気が入り込んできている。


深呼吸をする。


煙草が吸いたくなった僕は、立ち上がって本棚の前に立つ。灰皿には揉み消された吸殻が一本と、捻り潰された煙草のパッケージが灰皿の脇に置いてある。


ああ、そうか、最後の一本だったんだっけ……。


夕方に着替えたシャツはやはり、汗を吸って背中に貼りついていて、不快だ。気持ちが悪い。シャツを脱ぎ、洗濯籠に放る。汗で汚れた衣類の入った洗濯籠からは、酸っぱい臭いが漂ってきて、不快だ。自分のものだとわかってはいるけれど、不快だ。なんて気持ちの悪い臭いなんだろう。アパートのドアに設置された郵便受を見る。おそらくこのアパートの部屋全てを回って投函されたであろうチラシが詰まっている。束になったそれを引き抜き、"春の家電特売セール"と書かれた家電店のチラシを一枚広げて洗濯籠に押し込む。紙で押し込まれる衣類。押し込まれる僕。


僕は部屋の片隅に置いてある衣類ケースから最後の一枚になったシャツとハーフパンツを取り出して、着替える。洗濯洗剤の匂いに部屋の饐えたような臭いが混じって、不快だ。これと言って盗まれる心配のある物はないけれど、窓を施錠し、チラシで押さえ込まれた衣類の入った洗濯籠と、わずかばかりの現金の入った財布をハーフパンツのヒップポケットに入れ、素足のままスニーカーを履いた。汗で湿った足の裏と、スニーカーの中底が擦れる感触が不快だ。


脚力のある人間が蹴飛ばせば、簡単に壊れてしまいそうな薄っぺらい玄関のドアも施錠して、僕は部屋を後にする。


錆の浮いた階段を使い、忍び足で一階部分へと降りる。手摺のざらざらとした感触が不快だ。一階、二階と合わせて十室あるこのアパートに住んで何年になるだろうか……。僕は僕以外の住人を知らない。アパートを振り返って眺める。一階の窓から明かりが確認できる。きっと誰かが住んでいるんだろう。ただそれだけのこと。僕は洗濯籠を持って、深夜の道を歩く。


道を照らす常夜灯、そして静寂。空を見上げてみる。星は出ていない。広がる漆黒の空。


声が聞こえる。


「こっちへおいでよ」


僕は、声の主に返事を返す。


「嫌だよ」


「そう? 本心だとは思えないけれど」


「嘘じゃないよ」


僕が二度目の返事を返しながら、角を曲がると声は聞こえなくなった。


コインランドリーが前方に見える。深夜という時間帯もあってか、僕以外の"客"はいない。小銭を投入して、洗濯籠に被せたチラシを剥ぎ取る。饐えた衣類の臭いが鼻をつく。不快だ。洗濯槽に汚れた衣類を放り込み、ごみ箱にチラシを丸めて捨てる。洗剤の粉末を入れ、ボタンを押して洗濯槽を回す。


洗濯が終わるまでの時間、切れた煙草を買いにコインランドリーを出る。すると、また声が聞こえた。


「こっちへおいでよ」


「嫌だよ」


──いつものやり取りだ。


「なあ、あんた、誰だよ」


僕は声に出して問う。


「わかっているはずだよ。気付かないふりをしているだけ」


「知らないよ。わからないよ」


「そう? よく見てごらんよ」


「何を?」


「今の君を」


「今の僕?」


「そう」


コインランドリーから歩いて五分の距離に、煙草の自動販売機と飲み物の自動販売機が並んで立っている。僕はいつものセブンスターを買い、釣り銭で冷えた緑茶を買う。喉が渇いていた。プルリングを開け、半分ほど一気に腹に流し込む。思えば夕方にぬるい水を飲んだきり、ろくに水分を摂っていなかったことに気づく。冷えた緑茶が熱を帯びた体に染み渡っていく感覚。セブンスターの封を切り、一本引き抜いて、火をつけて煙を吸い込む。苦くて重厚な煙が胸に入ってくる。


「生き返るな……」僕は独り言を呟いていた。それに反応するように、あの声が聞こえてきた。


「生き返った? 本当に?」


「うん、冷たいお茶と、煙草。生き返るよ」


「本当に?」


「本当だよ」


「そう」


声は聞こえなくなった。僕は煙草の火を地面で消して、残り半分になった緑茶を飲み干し、空いた缶に吸殻を入れ、コインランドリーへ戻ることにする。ふと、足元に視線が向いた。


──このスニーカー……洗っても汚れが落ちないスニーカー。元々は白なのに、今じゃ茶色みがかってるこのスニーカー、これは母さんが進学祝いに買ってくれたんだっけ。懐かしいな。ふと、大学の合格通知を受け取った冬のことを思い出す。屈んで緩みかけていた靴紐を結び直す。結び目を固くし、上体を起こそうとすると、シャツの胸ポケットに入れていたセブンスターのパッケージが地面に落ちた。セブンスター……ああ、これは父さんが吸っていた煙草だ。ヘビースモーカーで、家の中はいつも煙たくて。蘇ってくる記憶。僕はセブンスターのパッケージを拾い上げ、胸ポケットに仕舞い、コインランドリーへと歩みを向けた。


洗濯槽はもう止まっていた。僕は洗濯槽から衣類を取り出して乾燥機に放る。乾燥機の稼働ボタンを押して、コインランドリーの外に設置してあるベンチに腰掛け、僕は漆黒の夜空を見上げる。


「こっちへおいでよ」


また声が聞こえる。


「嫌だよ」


何度繰り返したのか、もう覚えていないけれど、声の主はいつも僕を"こっち"へ誘う。


「自分を見た?」


「見なくてもわかるよ」


「嘘」


「嘘じゃないよ」


「そのスニーカーは? そのお茶は? その煙草は?」


「スニーカー? お茶? 煙草?」


「そう。それは誰の物?」


「これは僕のだよ」


「本当に?」


「本当だよ」


「そう」


僕が声の主と会話していると、音を立てて揺れていた乾燥機の稼働音が止んだ。稼働音が止むと同時に、声は聞こえなくなる。僕は乾燥機から衣類をビニール袋に入れて、汗の付着した洗濯籠をコインランドリーに設置してある手洗い場で汚れを洗い流す。


右手にビニール袋、左手に洗濯籠を持って、僕はアパートへと向かって歩き出す。常夜灯に照らされた夜道。スニーカーが地面を蹴る音。


──「自分を見た?」


声の主が僕に放った言葉が頭の中で反響する。


スニーカー、これは母さんが買ってくれたスニーカー。セブンスター、これは父さんが吸っていた煙草。その吸殻の入った緑茶の空き缶。緑茶、これは祖母が好きだった飲み物。


思い出しながら僕は歩く。アパートの中はきっと、まだ暑いままだろう。不快な臭い、不快な温度、湿った畳。でも、僕の居場所はあの部屋しかないんだ。戻らなくちゃ。


「こっちへおいでよ」


声が聞こえた。


アパートの二階。僕の部屋へ続く、錆びた鉄製の階段をそっと上る。薄っぺらい僕の部屋のドアの鍵を開錠して、部屋に入る。変わらずそこは蒸し暑く、そして不快な臭いで充満している。ドアを閉め、再び施錠する。


「こっちへおいでよ」


声が聞こえた。


僕はスニーカーを脱ぎ、湿った畳を踏む。不快な感触と、不快な臭いに満ちた部屋。


洗濯籠を洗面台の脇に置き、洗った衣類を衣装箱に畳んで収める。洗ってもすぐに、この饐えたような臭いが付着してしまうだろう、と僕は思う。


シャツのポケットからセブンスターのパッケージを出し、一本抜いて火をつけ、本棚に置いた灰皿の前に移動する。畳を踏む不快な感触、湿り気を帯びた万年床。不快だ。本当に、不快だ。


背中にシャツが張りつく、ねっとりとした感触が不快だ。煙草を揉み消し。僕は洗面台へ向かう。


「自分を見て」


声が聞こえる。水道から出てきた生ぬるい水で顔を洗い、生ぬるい水を掌ですくって飲む。


「わからないの?」


「何が?」


「君のことだよ」


「僕は、僕だよ」


「ねえ、君」


「何?」


僕は苛つきながら声に応じる。


「今日は、何年の何月何日?」


「………」


僕は質問に答えられない。どうしてだろう?


「自分を見て」


声の主はやはり、僕に同じことを問う。


洗面台にある汚れて曇った鏡を僕は見つめる。"この部屋"に入居した当時からあるこの鏡。そう言えば鏡なんて見たことなかったな、と思う。汚れて曇った鏡に映った僕を僕は見つめる。僕は僕に問う。


「ねえ、君は……誰?」


(了)



ここには……誰がいるのだろう?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「不快」という言葉を描写おきに加えることは、不快さを印象付けるのに効果的だと思いました。また、それにより描写ごとの僕の感覚も想像しやすくなっているとも思いました。 また、声の主が何なの…
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