第10わん 至って健全で微笑ましい思考
遅くなってごめんにゃさい
「こんな変態ペットいらないですわァァァ!」
怒りに任せ、ムツ子は鞭を地面に叩きつけた。
それはつまり、唯一の武装を自ら解除したことを意味する。
――チャンスだ。
「わんっ!」
思考したとほぼ同時、俺は四本の足で力いっぱい地面を蹴飛ばした。たったひと蹴りで、体は弾丸のような速度に到達する。
狙いは、捨てられた鞭だ。
「ヌーちゃん!?」
足元に居た俺が突然飛び出したものだから、ジェイミーは止めることもできず、驚きの声を発するしかなかったようだ。
彼女の声は一瞬のうちに遥か後方へと消えていく。反対に、ムツ子の声が一気に近く感じた。
「なっ!? まさか!?」
彼女は俺の狙いに気がついたようで、手放した武器に慌てて手を伸ばす。
だが遅い。
俺の脚力は、全力を出せば天にも到達する程なのだ。かつて空を飛んだ時と同じ感覚で、今度は垂直方向ではなく水平方向に地面を蹴った。
ゆえに、『走った』というより水平に『飛んだ』という表現の方が適切だと思う。
「なんて速さですのぉ!?」
その結果、瞬間移動の如く移動し、距離的なアドバンテージはムツ子の方が圧倒的にあったに関わらず、彼女よりも先に鞭を奪取することができた。
「わぅん!」
地面スレスレに滑空したまま、鞭の上を通過する際に口で鞭を回収し、そのまま勢いに任せてムツ子の股ぐらをくぐり抜ける。
減速する気配は一向に感じられず、このままでは前方のモンスターに激突しそうだったので、俺は地面に足を付けてブレーキを試みた。
ぷにぷにの肉球が硬い地面と擦れて痛かったが、ズザザザザ!っと激しい摩擦を発生させ、数メートルの制動距離を経てようやく静止する。
「ダ、ダルシーちゃん! 取り返すですのぉ〜!」
背後でムツ子の慌てふためく声が聞こえる。
これで奴は武装を失った。今やただのサルを着た変態に成り下がってしまったのだ。
しかし、悠長にしている暇はなかった。
振り返ると、ムツ子の命令を受けて、ちょうどダルシーが飛びかかってきたところだった。
『ヌー! よけて!』
噛み付こうと飛びかかってくるダルシー。慌てて横に飛び、寸前でかわす。
『……ごめんヌー……身体が勝手に』
『ああ、分かってる』
彼女に敵意はない。服従の魔法によって無理やり従わされているだけなのだ。
『あぁ! また勝手に! よけてヌー!』
しかしダルシーの動きは素早く、逃げる隙すら与えてくれなかった。
彼女の牙が、鞭を捉えようと再び目前に迫り来る。俺は横っ飛びに避けてなんとか回避するものの、さらに追撃が続く。
反撃するわけにもいかず、鞭を奪おうと襲いかかってくる彼女の牙をギリギリ避けるので精一杯だった。
『……ごめん……身体が……身体が勝手に、ヌーの口から鞭を奪おうと動いちゃう……ヌーの口から……』
ダルシーも不本意だろう。可哀想に。はやく彼女を鞭の魔力から解放してあげたいものだ。
『……ヌーの口……ヌーの唇……くちびるを……はぁはぁ』
……なんで呼吸が荒くなってるの?
いや、ダルシーは操られているだけだ。これも彼女の本心ではないハズだ。
『……ヌーの……くちびる……くちびるを……奪う……はぁはぁ』
あれ? 目的変わってない?
『……はぁはぁ……う、奪う……ヌーの童貞を……奪う!』
完全に目的変わってるじゃねーか!
お前本当に操られてんだよな!?
「素早いワンちゃんですわね……」
なかなか捕まえられないことに痺れを切らしたのか、ムツ子は苛立ちを込めて更に命令を下す。
「ダルシーちゃん! 頑張るのですわ! はやく奪うですの!」
『ど、童貞を!?』
なんでだよ! 鞭だろ!
『ヌーの! 童貞を! 奪う!』
つかどどど童貞ちゃうわ! いや確かに犬になってからは童貞だけども!
俺は前世では二十五年も生きていたんだぞ!? そんだけ生きていて童貞なわけが……童貞なわけが……あれ、おかしいな、思い当たる節がない……。
まさか! 犬化の影響で人間だった頃の記憶が失われ始めたのか!? そうに違いない! 童貞かどうかに関する記憶だけ消えるなんて!
……あれ、おかしいな、涙が。
『ああ! 身体が勝手に!』
「わぅん!?」
うわあ! あっぶねぇ! ダルシーの奴、俺のポチに噛み付こうとしやがった!
危うく俺の童貞が(物理的に)奪われるところだったぞ……。
『……ご、ごめん、ヌー。……ムツ子に命令されたから。……ヌーの、童貞を奪えって……』
だから鞭! 鞭だって!
勘違いしたダルシーは、鞭に目もくれず、狙いを完全に俺のポチに変え、そこに噛み付こうと飛びかかってくる。
……先ほどより俊敏な動きになっているのは気のせいだろうか。
「さぁ! 奪うのですわ! さっさと奪うのですわ!」
主語を! 主語を付けて!
『ごめんヌー! 命令だから! 操られてるだけだから! はやく童貞をちょうだい!』
やっぱりお前操られてないだろ!
「お姉さん! あなたも行くのですわ! はやくヌーちゃんから奪うですの!」
ああ、ケリーにそんな命令を下したら変態が増えてしまう!
俺の童貞がさらにピンチに!
「う、奪うって、ヌーの、く、くく唇をか!?」
あ、ケリーお姉ちゃん、ピュアだ……。
「ハァ!? アホですの!? 鞭に決まっていますの! ダルシーちゃんも、さっきからなんで股間ばっか狙っていますの!? さっさと鞭を奪うのですわ〜!」
明示的な命令を下され、鞭の服従の力がようやく正常に働いたのか、ダルシーの狙いが俺の口へと戻される。
主語って大事だね……。
『……チッ』
……あれ、ダルシーさん今舌打ちしなかった? 本当に操られてるんだよね?
ターゲットが鞭へと戻った途端、ダルシーの体のキレが明らかに鈍くなる。避け易くなったからいいんだけど、なんだかなぁ……。
しかし彼女の動きは遅くなったものの、ケリーが加勢してきたため、状況としては更に厳しいものとなった。
「ヌー! すまん! 避けてくれ!」
ダルシーの牙を避けたと思ったら、ケリーの腕が伸びてくる。
人間とは思えない運動神経を有するケリーだ。俺のチート級の能力をもってしても、ギリギリ避けるので精一杯だった。
これが他の敵なら容赦なく撃退できるのだが、彼女達相手ではどうすることもできない。ムツ子もそれが分かっていてこの二人だけに命令を下したのだろう。
このままではジリ貧だ……俺の体力が尽きる前になんとかしないと……。
『ヌー! こうなったら、私のことをその鞭で叩いて!』
はぁ!? 何言ってんだダルシー!?
ダルシーの奴、ついにおかしくなったのか!? いや、こいつは元々こんな奴か……。
『私のこと叩けば、もしかしたら洗脳が解けるかも!』
ハッ! そうか!
この鞭は服従の鞭! 俺がこの鞭でダルシーを叩けば、彼女を服従させられるかもしれない!
俺が使って効果があるか分からないし、効果があったとしてムツ子の洗脳を上書きできるかわからないけど、やってみる価値はありそうだ!
そう言いたかったんだろ、ダルシー!? おかしくなったとか言ってごめん!
『はやく叩いて! さぁはやく! はぁはぁ』
なんで呼吸荒くなってるの?
洗脳を解くために叩くんだよね?
『さぁさぁ!』
なんかテンション高くなってない?
つか、この変態犬を服従させると後が大変な気が……でもこの状況を切り抜けられる唯一の可能性だ……。
ええい! もうやるしかない! どうにでもなれ!
「わん!」
俺は口で鞭の持ち手を咥え、首を右から左に大きくスイングして鞭を振るう。
『きたぁ!』
なんで嬉しそうなんだよダルシー。
しかし、首で鞭を振って狙い通りの場所に当てるというのは、思ったより難しかった。しかも速度も全然出ない。
ダルシーに目掛けて振るったその鞭は、狙いを大きく外れ、ヘロヘロと勢いの無い軌道で明後日の方向へ飛んで行ってしまった。
「な、なんだ?」
鞭が飛んで行った先には、たまたまケリーが。
そのまま彼女の元へ飛んで行き、弱々しく肩に乗っかった。当たったというより、ちょこんと乗っかっただけだ。
失敗かと思ったが、驚いたことに、鞭の先端が意思を持ったようにウネウネと動き出した。そして、とぐろを巻くようにケリーの首に巻き付き始める。
あれ、この構図は……まさか……。
「ヌー? 一体なにを……?」
いや、俺だって好きでやったわけじゃ……。
困惑したように俺を見つめるケリー。そのエメラルドグリーンに輝く瞳を見つめ返した瞬間、鞭を伝って何かが俺の脳内に流れ込んでくる。
(な、なんだ? これじゃまるで、さっきムツ子が私の思考を読んだ時と同じじゃないか)
こ、これは……ケリーが頭の中で考えていることか?
耳から聞こえるのではなく、彼女の声が脳に直接届いてくるような感覚だ。
(ど、どうしよう。私の考えが、ヌーに読まれてしまう……やだ……恥かしい……)
お、俺だって別に読みたくねーよ!
でもせっかく鞭を奪ったのだ。これを手放すわけにはいかない。
くそっ、こうしている間にもケリーの思考がどんどん流れ込んでくる……。
(まずい、このまま思考を読まれたら、私の秘密がバレてしまう……)
ケリーの秘密……。
やはり、にゃんダフルランド出身ということに関わることだろうか……。
(私の秘密が……毎晩ヌーとハチミツってることがバレてしまう!)
そっちか!
お前やっぱり俺にハチミツってるんだな! いやだからハチミツってるって何だよ!
(あぁ、バレちゃうぅぅ……。いろんなところにハチミツ付けて、ヌーにペロペロしてもらってるのがバレちゃうよぉぉぉ!)
いろんなところをペロペロ!? なにやらせているんだ!
俺は怒りを込めて、キッと鋭い視線でケリーを睨みつける。
(ああぁぁ……ヌーが、ヌーが私のことを見ている……いやらしい目で見られている……私の身体を舐め回すように……)
いやらしい目で見てないんだけどっ!?
舐め回すように見てないですけどぉ!?
(い、いやぁ……みるなぁ……そんなはずかしいところ、みないでぇ……)
お前の頭の中が一番恥ずかしいわぁぁぁ!!
まずい、これ以上ケリーの思考を読むのはまずい。頭がおかしくなりそうだ。はやく鞭を解かないと!
俺はケリーの首から鞭を解くため、グイッと引っ張ってみた。しかし、鞭は解けるどころか、さらにきつく巻き付いてしまう。
(はうっ!? 鞭がきつく……。まさかヌーの奴……このまま私を縛り上げて、犯す気なんじゃ……?)
犯さねーわ! おい縛られてる絵図を想像すんな! まさか想像したイメージ図も流れ込んでくるとは!
「おいヌー? 大丈夫か? すごい汗だぞ?」
こいつ……平然な顔して、よくそんな台詞を吐けるな……。頭の中でとんでもないことを考えてるくせに……。さっきケリーのことをピュアだと思ったのは撤回しなければ……。
ケリーの思考は、濁流のように容赦なく流れ込み続けてくる。
(あぁ……ヌーに犯されちゃう……。きっと裸にされて、こんなふうに縛られて……はずかしいところを全部見られちゃうんだ……。それで、動けなくなったところをペロペロされちゃうんだ……)
きゃあああ! なんてことを想像してるんだ!
言葉にするのがはばかれる映像が脳に流れ込んでくるぅぅぅぅ!
(『くっ、や、やめろ……! こんな辱めを受けるくらいなら、殺してくれっ!』って私は言うんだけど……)
なんかドラマ始まったんだけど!?
(『ぐへへ、口では嫌がってても身体は正直だワン』とか言われちゃうんだ……)
それ俺!? そんなこと言わねーよ! 勝手に人を変なキャラにするんじゃない!
(それでその後、嫌がる私に無理やり……)
それ以上はダメだぁぁぁぁ!!
やだ! もうやだ! もうケリーの考えを読みたくない! はやく鞭を解かないと! くそ! 引っ張っても鞭が取れない!
(あぁ! 縛られてる! さらにきつく縛られてる! 犯されちゃう! ヌーに犯されちゃうよぉぉぉ! ヌーの赤ちゃんできちゃうよぉぉぉぉぉ!!)
いやぁぁぁぁぁ!! もうやめてぇぇ!! それ以上俺の頭の中に変なこと流し込まないでぇぇぇ!!
津波のように押し寄せるケリーの思考に飲み込まれそうになる中、耳を伝ってムツ子の声が届き、なんとか踏み止まることができた。
「ヌーちゃん! それ以上その変態の思考を読んではいけませんわ! 頭がおかしくなってしまいますわよ!」
敵にまで心配される始末だ……。ムツ子が泣き出した理由がよく分かったぞ……。
「おいどういう意味だ! 別に変なこと考えていないぞ! 普段通り、至って健全で微笑ましいことしか考えていないぞ!」
普段からこんなこと考えてんの!? こいつマジで日常生活どう送ってるんだよ!?
ケリーの頭の中では、ついに俺と彼女の間に子供が生まれ、第二子を産むために再び営みが開始されたところだった。
ああ、やばい。ケリーの思考に犯されて、意識が遠くなっていく……。
「大変ですの! ヌーちゃんが白目を向いていますわ! ドラゴンちゃん! ヌーちゃんを助けるですの!」
そういや、俺達はドラゴンに取り囲まれていたな。すっかり風景に溶け込んでいたから忘れていた。
朦朧とする意識の中、そんなことをボーっと考えていると、突如として強風が巻き起こり、意識が覚醒する。
「うわっ! なんだ!?」
「わぅん!?」
「にゃっ!?」
どうやらドラゴンが羽ばたき、その巨大な翼から突風を生み出したようだ。
人間組やダルシーはなんとか踏ん張ったが、体の軽い俺とプーちゃんは吹き飛ばされてしまう。
不意を突かれたこともあって、飛ばされる際に咥えていた鞭の取っ手を離してしまった。
(あああん! ヌーの赤ちゃん生まれりゅぅぅうううう――)
鞭を離した瞬間、ラジオの電源が突然切れるように、ぶつん、とケリーの声が途切れた。
よ、ようやく解放された……頭がおかしくなるかと思った……。
「ヌー! 大丈夫か!」
風に乗って飛ばされそうになったが、ケリーが驚異的な反射神経を見せ、宙に浮く俺をキャッチした。
視界の端で、同様に飛ばされていたプーちゃんをジェイミーが魔法で救出したのが見える。
「よかった、吹き飛ばされなくて」
ケリーは俺のことを優しく抱き、頭を撫でてくる。
何も知らなければ、優しく微笑む彼女はとても良い飼い主に見えるが、今頃こいつの頭の中では俺と子作りの真っ最中なことなのだろう。
ケリーお姉ちゃん……恐ろしい……。
「な、なぜ震えているんだ、ヌー?」
「可哀想に……ヌーちゃんも恐ろしい目に遭ったのですわね……」
「だからどういう意味だ!」
ケリーの問いに答えず、ムツ子は手招きをして命令を下す。
「変態お姉さん、そのままヌーちゃんと鞭をこっちに持ってくるですの」
「まずい! 逃げろヌー!」
命令が下されると同時、服従の魔法によって操られたケリーは、俺のことを固く抱き締めようと力を加えてきた。
しかし、俺はすんでの所で彼女の腕から抜け出して、地面に退避する。
「あら。まぁいいですわ。とりあえず鞭だけ持ってくるですの」
「くっ……」
ケリーは首に鞭を首に巻き付けたまま、取っ手部分をズルズル引きずってムツ子の元へと向かっていく。
その様子をぐったりとしながら眺めていると、ダルシーが駆け寄ってきた。
『……ヌー、ケリーはどんなこと考えてた?』
『聞かないでくれ……』
『……私の思考も……読んでくれてよかったのに』
『お前の思考を読んだら俺は死ぬと思う』
そうこうしている内に、ケリーはムツ子の元へ到着したようだ。
「ご苦労ですわ」
ムツ子は屈み、鞭の取っ手を掴む。
あ、バカ! まだ鞭の先端はケリーの首に巻き付いたままだぞ! そんなことしたらまた……!
止めようとするも間に合わず、結果彼女は『大家族ですのぉー!?』とか言ってその場に倒れて動かなくなってしまった。
あぁ、またケリーの思考の被害にあってしまったのか……可哀想に……。
おかげさまで20万字を超えました……!
いつも読んでくださってありがとうございます!!




