第9わん 動物の本能
ムツ子ことムツィ・クォロは素早く動いた。
彼女はベルト代わりにしていたサルの足に手を伸ばすと、そこに括りつけている黒い何かを手に取る。
「させるか!」
危険を察したケリーは反射的にムツ子に殴りかかるが、ムツ子は軽やかなステップで難なく躱す。そのままピョンピョンとウサギのような足取りで後退され、彼女との距離は十メートル程になった。
「ジェイミー!」
「う、うん!」
後退したムツ子に向け、ジェイミーが杖を向ける。彼女が小さく何かを呟くと、杖の先が輝き、そこから光の弾が三つほど放たれた。弾はそれぞれ異なる起動を描きながら、ムツ子に襲いかかる。しかしムツ子は余裕な表情で右手を振るうと、空気を切るような乾いた音が響き、光の弾が一気に消失してしまった。
「うふふ」
ジェイミーの魔法をいとも容易く打ち消した物の正体は、彼女が手に持っている物。
鞭だ。
「いきますわよぉ〜!」
ムツ子が大きく縦に腕を振るう。それに応じて、鞭が蛇のようにうねる。
一見すると長さ二メートル程度の普通の鞭だ。俺達との距離は十メートルはあるので、到底届く距離ではない。
しかし魔法が施された鞭だったのか、空を切るそれはグングンと長さを伸ばし、ついに俺達の元へと到達する程の長さとなった。
鞭の狙いは、ジェイミーの足元――俺だ。
「ヌー!」
鞭の先端は、場合によっては音速を超えるスピードが出るという。まして魔法が施された鞭。目にも留まらぬ速さで襲いかかってくる。
鞭の標的に気がついたケリーだったが、さすがの彼女も超高速の鞭の動きに身体が追いつかなかったようだ。
「さぁワンちゃん! お覚悟ですわ!」
だが俺はチート犬。なんとか鞭の動きは目で追えていたし、避けようと思えば避けれた。
しかし、俺が避けてしまえば背後のプーちゃんに当たってしまう。
ここは耐えるか……。当たったら痛そうだけど、俺の防御力をもってすればきっと耐えられるだろう……。
俺が覚悟を決めて瞳を閉じたとき、
『ヌー! 危ない!』
ダルシーの声と共に、俺の体が宙を舞った。目を開けると、プーちゃんも同様に空中に投げ出されているのが見える。
ダルシーが驚異的な反射力を見せ、俺とプーちゃんを突き飛ばし、身代わりとなったようだ。
「きゃうんっ」
「ダーちゃん!」
直後、バシン! という痛々しい音と共に、鞭はダルシーの脇腹に直撃。彼女はその衝撃で、後方に吹っ飛ばされてしまった。
こうして彼女に助けられるのは、茶髪男の銃弾の時に続き二度目だ。
『お、おい! ダルシー大丈夫か!?』
地面に落下し、横たわるダルシー。慌てて彼女の元に駆け寄る。
しかし意外なことに、彼女はすぐに立ち上がった。
『……あれ? ……全然痛くなかった』
見た所、鞭で叩かられた部分に怪我は見られない。怪我どころか、鞭が当たった痕跡すら存在していなかった。
『ほ、ほんとか!? ほんとに大丈夫なのか!?』
『……うん。……全然いたく……』
そこでダルシーは何かを思いついたようにハッとし、
『……い、痛い! やっぱりすごく痛い! 特におっぱいが! ヌー、ペロペロして治して!』
ワザとらしく弱々しい鳴き声を上げ、仰向けになって腹部を晒してくる。
もうその手は通じないぞ……。茶髪男の銃に助けられた時は騙されたが、二度目はない。
つか、そんなとこ見せつけるなよ、目のやり場に困る……。
「ダルシー、平気か!?」
「大丈夫!? ダーちゃん!?」
「ば、ばう」
今回は近くに姉妹が居たこともあり、ダルシーに怪我が無いことがすぐに証明されていた。彼女は残念そうな表情をしているが、怪我がなくて一安心だ。
しかし、結構痛そうな音してたけどなぁ。見掛け倒しで全然威力の無い鞭だったのだろうか。
「うふふ。ダルシーちゃんと言うのですわね。わたくしのペットになる大切な子ですわ。傷なんかつけませんわよ」
いつの間にか鞭の長さは元に戻っていて、束ねられて再びサルの足に括り付けられていた。
「だから貴様のペットなんかに――」
ケリーの言葉を遮るように、ムツ子はダルシーに向け、手をパンパンと鳴らす。
「こっちに来るのですわ、ダルシーちゃん」
はぁ? 急に何を言っているんだ?
ダルシーがそっちに行くわけないだろ、っと思ったのだが、
「ばう!」
ムツ子が呼びかけた途端、ダルシーは勢いよく飛び出し、魔女の元へ駆け寄って行く。
「ダ、ダーちゃん?」
「にゃう……?」
『……あ、あれ? 身体が勝手に……』
ダルシーの奇行に混乱する俺達だったが、彼女自身も何が起こったのか分からないようだ。
俺達の混乱を他所に、ムツ子は屈んで手を差し出す。
「ダルシーちゃん、おて」
「ばう」
「おすわり」
「ばう」
「よぉ〜しよしよしよし。良い子ですわぁ〜」
「ばぅ〜ん」
ど、どうしたんだダルシー? 魔女の言うことなんか聞いて、されるがまま撫でられるなんて……。
『……な、なんで? 身体が! 身体が勝手に動く!』
彼女自身も困惑している。自分の意思とは裏腹に、魔女に従わされているとでも言うのだろうか。
「うふふ、これがこの鞭の力ですわ」
「どういうことだ!? ダルシーに何をした!?」
ムツ子はもう一度ベルトから鞭を取って、得意げにこちらに見せつけてくる。
「これは、わたくし特製の魔術が封じ込められた鞭。その力は――」
ど、どんな恐ろしい力があると言うのだ……。
「動物の本能を呼び起こしますのよぉー!」
ど、動物の本能……?
高らかに発せられたその言葉に、ケリーとダルシーがほぼ同時に反応する。
「つまり性欲か!?」
『つまり性欲!?』
「ち・が・い・ますわよぉー! あなたの頭の中にはそれしかありませんの!?」
お恥ずかしい限りです……。
ムツ子はオホン、と咳払いをして、
「この鞭は、動物の本能、つまり服従心を呼び起こしますの」
「ふ、服従心?」
「そうですわ。どんな動物も、本能的に強者に服従する心を持っていますの。この鞭で叩かれた動物はその服従心が増大して、鞭の持ち主に絶対服従してしまうのですわ。ま、人間には効果ありませんけどね」
なるほど……。
ムツ子はその鞭の力でダルシーや動物の集団を手懐けているのか。
となると、この動物集団も無理やり彼女に従っているのだろうか。なんか可哀想だな……。
『……ヌー……私……』
ダルシーが切なそうな瞳で見つめてくる。きっと無理やり服従させられて、悔しい思いをしているのだろう。
まってろダルシー! 絶対に助けてやるからな!
彼女を安心させようと、そう言おうとしたのだが、
『……私、こんな鞭なんかなくても……ヌーには絶対服従だからね!』
あいつの頭の中もだいぶ可哀想だな……。
そんな犬同士の会話なんか知る由もなく、ムツ子はさらに説明を続ける。
「この鞭には、もう一つ力がありますのよ」
「なんだと!?」
服従だけでも強力な力だが、まだ他にあるのか……。
「この鞭の第二の力――」
一体どんな恐ろしい力が……。
「動物の考えていることが分かりますの〜!」
……え? あ、うん? なにその微妙な力?
「うふふ〜」
ムツ子が指をパチンと鳴らすと、それを合図として鞭が蛇のようにうねり始め、ひとりでにダルシーの首元へ向かっていく。そしてそのまま、リードのようにダルシーの首に巻きついた。苦しそうには見えないので、首を絞めているわけではなさそうだ。
「こうすることで、動物の思考を読み取れますのよ!」
「う、羨ましい……!」
まぁ人間からしたら、ペットが何を考えているのか知りたいのかな。
ムツ子はその場にしゃがみ込み、ダルシーに視線を合わせて満面の笑みで話しかける。
「さてさて〜。ダルシーちゃんはどんなことを考えていますの〜? ワンワンワン〜? ワワワ〜ン?」
今こうしている間にもダルシーの思考がムツ子に読み取られているのだろうか?
ワクワクウキウキといった感じでダルシーを見つめていたムツ子だったが、徐々にその表情が固まっていく。
「ワワワ……ワン……?」
やがて完全に硬直してしまい、そのまま動かなくなってしまった。
「ム、ムツ子さん……?」
石のように固まったムツ子。
硬直したままの彼女の顔が、次第に赤らんでくる。
「ど、どうしたんだ?」
ようやく硬直が解けたかと思うと、ムツ子はその場を飛び退き、ダルシーから距離を置いて悲鳴を上げる。
「な、なんて卑猥なことを考えていますのこの子ー!?」
えぇー……。
ダルシーの頭の中、どうなっているんだ……。
彼女の考えを読んだムツ子は、顔を真っ赤にして涙目になり始めていた。
「い、いやああ! 卑猥ですの卑猥ですの〜!」
首に巻き付いた鞭を介して、ダルシーの思考がムツ子に流れ続けているようだ。
後退したムツ子に、不敵な笑みを浮かべながら、ジリジリとダルシーが近づいていく。それに伴って、ムツ子の顔がどんどん真っ赤になっていった。
「やめてっ! わたくしの脳内に変な単語を流し込まないでっ! それ何て意味ですのっ!? わたくしには理解できませんわぁー!」
ダルシーを追い詰めたように見えたムツ子だったが、なぜか逆に追い詰められていたようだ。
「も、もう無理ですわ!」
ついにムツ子は限界に達したようで、しゅるりとダルシーの首に巻き付いていた鞭が解ける。
ようやく卑猥な思考から解放されたムツ子は、放心状態で虚空を見つめていた。
「はわぁ……。無駄な知識が増えてしまいましたわぁ……」
ムツ子……痴女みたいな格好しておきながら、意外と無垢な女の子だったんだな……。
『……フッ、口程にもないね』
魂が抜けたようなムツ子の一方で、何故か勝ち誇ったような表情のダルシー。
エロいことを考えるだけで魔女に打ち勝つとは……恐ろしいやつ……。
ふと、ダルシーは俺の方を向き、
『……ヌーにも……私が今考えていたこと教えてあげようか?』
『いやいいよ……』
「ばうばう、ばぅばぅ、ばぅ〜」
おまっ……! そんなこと考えてたのか!? 女の子がそんなこと口に出すんじゃありません!
そんな卑猥な思考を脳内に流し込まれて、ムツ子に同情するぞ……。
「えっと、ムツ子さん大丈夫?」
ジェイミーの気遣うような声によって、ようやくムツ子の魂が戻ってきたようだ。
「まったく! なんて卑猥なワンちゃんですの! やっぱり飼い主とペットは似るのですわね!」
「私はダルシーの本当の飼い主ではない。預かっているだけだ」
「……な、なんてことですの。この世にあなたに匹敵するレベルの卑猥な人間が他にも居るなんて……」
「わ、私はアマンダほど卑猥ではない!」
卑猥なのは否定しないのかよ……。
「そちらの茶色いワンちゃんは、あなたのペットですのよね?」
「そうだ」
「ということは、その子も、あなたくらい卑猥な子ですの……?」
ちげーよ!
なんてとばっちり!
「ふっ、まぁそうなるな」
なんでお前は勝ち誇ったような顔してんだ!!
『……ヌー……卑猥』
お前は黙ってろぉぉぉぉぉぉ!!
「ヌーちゃん、ひわいな子なの……?」
「にゃう……?」
ちがうよジェイミー! 誤解だプーちゃん!
そんな目で見ないで!
「くっ! まぁいいですわ! 卑猥で結構! そちらの茶色い子も頂きますわよ!」
だから俺は卑猥じゃねーって!
そうこうしているうちに、ムツ子は再び腕を振るい、魔法の鞭が俺に襲いかかってくる。
「させるか!」
だがケリーが俺の前に立ち塞がり、鞭を腕で受け止めた。
バシン! と痛々しい音がするものの、やはり物理的な威力は全く無いようで、ケリーはビクともしない。
威力が無い上に、人間に対しては服従の魔法の効果は無いらしいので、ケリーとジェイミーの前ではこの鞭は無力だな。
「もう〜! 邪魔ですわ! どいてくださいですの!」
一度見ただけで音速に近い鞭の動きに対応できるケリーの運動神経に、ムツ子は驚きと共に苛立ちを見せる。
だがそこで、予想外の展開が起こった。
苛立ちを込めて発せられたムツ子の言葉。
特に意味もなく、何気なく発せられたのであろうその言葉に、
「ハイ!」
ケリーは元気良く返事をし、言われるがまま一歩横にずれたのだ。
「は? な、なにしてますの?」
「……え? あれ? 身体が勝手に!?」
ケリーの行動はムツ子にも予想外だったようで、ポカーンと間の抜けた表情をしている。
「お、お姉ちゃん? に、人間には効かないんじゃなかったの?」
「た、確かに……基本的に人間には効果ありませんが……」
ムツ子は少し考えるような素振りを見せ、ゆっくりと語り始める。
「例外も二つ程ありますわ……」
「例外……?」
「こんな噂を知っています? 人間の姿に化けることができる動物がいると……」
その言葉に、ぎくり、と姉妹の身体が反応する。
「もしそういったニセ人間が本当に存在しているとしたら、結局動物なのですから、この鞭はきっと有効ですわ」
ぎくぎくり、と姉妹がさらに反応する。
あの、君たち、反応が分かりやす過ぎるよ……。
しかしムツ子は考察と演説に夢中で、姉妹の様子に気がついていない。
「そしてもう一つの例外。それは――」
「そ、それは?」
「服従したがりな、相当なドM人間、ですわ」
ぎくり、とケリーが反応する。おい……。
「さて、あなたはどちらですのぉ〜?」
意地悪く問いかけるムツ子に、ケリーはしばらく考え込んだ後、
「……こ、後者だ」
いいのかそれで!?
正体を隠したいがあまり、お前相当なドM人間ってことになるぞ!?
いや、あながち間違っていないか……。
「あ、あなた、やっぱり相当な変態ですわね……」
さすがのムツ子もドン引きだ。
「ま、まぁいいですわ。あなたもわたくしのペットに加えてあげますの」
「誰が貴様なんかに!」
「うるさいですわ。黙ってこっちに来るですの」
「くっ……」
ケリーは口をつぐむと、悔しそうに顔を歪める。
そして膝と両手を地面に付き、四つん這いでムツ子の元へ向かった。
「誰も四つん這いで来いなんて言ってないですわ! あなたやっぱり相当なドMですのね!」
「う、うるさい! 身体が勝手に動くんだ!」
さも当然のように四つん這いになるもんだから、違和感が無かった……。
「せっかくだからあなたの頭の中も覗いてみますの」
「や、やめろ……!」
俺もやめたほうがいいと思うけど……。
ムツ子は好奇心を抑えられないようで、少し不安げな表情を見せながらも、指をパチンと鳴らす。すると鞭がひとりでにケリーに向かい、首に巻きついた。
「み、見るなぁ!」
「さぁ、変態さんの頭の中はどうなって――」
そこでムツ子の言葉は止まり、ダルシーの時と同様、身体が一瞬石のように固まったかと思うと、
「うぅ……ぐすん……。へ、へんたいですの……」
な、泣き出したー!?
泣くほど!? 泣くほどケリーの頭の中ヤバいの!?
「な、なにを泣いているんだ!」
「あなた日常生活どうやって送ってますの!?」
「どういう意味だ!」
一体ケリーの脳内はどうなっているのだろうか……。
ムツ子は涙を拭い、再び高圧的な態度に戻る。気持ちの切り替えが早い奴だな。
「うふふ、まぁいいですわ! これでこの変態お姉さんと変態ワンちゃんは、わたくしのペットですわぁ! オーホッホホ!」
高笑うムツ子は、しかしその笑い声を突然止めると、地面に鞭を叩きつけて、
「って、こんな変態ペットいらないですわァァァ!」
ですよねぇ……。




