うちの猫とボスの線引き
家に帰ってくると、キッチンでごそごそと物音がしていた。
泥棒……ではなさそうだった。
キッチンにはうちの猫のエサ入れがある。物音はちょうどそのあたりから聞こえていた。
そうなると、物音の主は当然予想できる。
「お食事中でしたかー?」
いちおう、声をかけてみた。
音のする場所を覗くと、予想通り猫の背中が見えた。
だが、視界に入ったそれはうちの猫とは明らかに違っていた。
つやつやと光る黒い毛並み。うちの猫よりもはるかに大きな体。見えていたのは庭によく遊びに来る野良猫――『ボス』の背中だった。
その顔はうちの猫のエサ入れに向かっている。
「えっ、何してるんですか!?」
僕は言うと、ボスがちらと振り返って、すぐにエサ入れに顔を戻した。
一心不乱にエサを食べていた。
「ちょっと、ボス! それ、泥棒じゃないですか!」
僕が言ってもボスは聞く耳を持たなかった。
うちの猫が外に出かけるとき、ドアではなくて窓を利用することもある。
ここでうちの猫が出ていったのを確認して、開いた窓を閉めてしまうと、帰ってきたときに入れなくて困ってしまう。
だから、家に誰か人がいるときは窓を開けっ放しにしていることが多い。自由に出入りしてもらうためだ。
ボスはそこから侵入してしまったようだった。
「いいですか? それはうちの子のエサなんです。ボスのエサじゃないんですよ」
僕がしゃべっている間も、ボスはエサを食べていた。
「もう! 駄目ですよ!」
首の辺りの毛皮をぐいっと引っ張って、体を動かそうとする。かなり重い。
ようやく少し動いて、エサ入れから体が離れると、ボスは顔を思い切り前に突き出した。
口がぎりぎりエサまで届いている。かなり不自然な体勢になっていたが、ボスはそのままエサを食べ続けていた。
「ちょっと、どんだけ……なんですか!」
仕方がないのでボスを持ち上げることにした。
わきの下に手を入れて抱きかかえると、ずっしりとした手応えを感じる。一歳児くらいの重さはあるかもしれない。
持ち上げてしまうとボスは抵抗することもなく、おとなしく抱きかかえられていた。
僕はボスを抱えたままよたよた窓のほうへ向かった。
しばらく付き合ってみてわかったことだが、ボスはかなり頭がいい。たぶん、僕の言葉がわかっているのだと思う。
ボスを窓の外に下ろして、
「家の中に入っちゃ駄目なんですよ」
と僕は言った。
うつむいたボスが「ふうん」と鳴いた。
やっぱり言葉がわかっているみたいだった。
「まあ……たまになら家の中に入るのはいいですけど……でもエサを食べるのは駄目ですよ」
そういうことを許してしまうと、どんどんエスカレートして家の中の食べ物をあさるようになってしまうかもしれない。
ボスは「ふうん……」と鳴きながら、僕の足に体をこすり付けてきた。
そして――そのまま自然な流れで家の中へ自分の体をねじ込もうとする。
「ちょっと……なんですか、家に入ろうとして……全然わかってないじゃないですか!」
ボスの力は強い。僕が体全体でガードしていても、腋の隙間に顔を入れて突破しようとする。
「駄目ですって!」
そうやって僕とボスが格闘しているのを、うちの猫は少し離れたところから眺めていた。
あら、やってるわね、と思っているのかもしれない。うちの猫はボスに対してはちょっとドライなところがあった。
ボスは強行突破をあきらめて、別のやり方で家の中に入ろうと考えたようだった。
僕の目の前の地面にボスが寝転がる。仰向けになっていた。
背中をこすり付けるように体をくねらせて、ごろんと横向きになる。すぐにまた体をくねらせて、ごろんと反対側へ。それからちらっと僕の反応をうかがう。
ごろんごろんちらっ。ごろんごろんちらっ。
「ボス……かわいいですけど……駄目なんですよ」
しばらく続けて、ボスはごろんごろんするのもやめてしまった。ただ地面に寝転がっている。
するとうちの猫がゆっくりと歩いてきた。
ボスのことを気にする様子はない。
僕のことも特に気にしていないようだ。
うちの猫が家の中に入るのを止める理由は、何もない。僕の横を通り抜けて、家の中に入っていった。
ボスは寝転がったまま、それを見送っていた。
うちの猫と、よその猫。
きちんと線引きはしていたつもりだったのだけど、それは僕の勝手な都合だ。
――自分は家の中に入れないのに、あの子は入っていいんだ……。
ボスはいま、そう思っているのかもしれない。
ボスにしてみたら、それはとても理不尽なことなのだろう。
「でも、ボスはうちの猫じゃないんですよ……ごめんなさいね……」
ボスはじいっと僕のことを見つめていた。
――ちょっと仲良くなりすぎたのかな。どうすればいいのかな。
僕はボスの頭をぽんぽんと軽く叩きながら、そんなことを考えていた。




