奥さんはあふれる熱意で、二作目を書き上げました
今日の紅茶はキャラメルのフレーバーティーで、白いティーカップの隣には近所にオープンしたばかりのケーキ屋のモンブランが並んでいる。運動会の次の日、学校は休みで、子供たちはそれぞれ友達の家に遊びに出かけていた。
テーブルの上に置かれているノートの表紙は、ケーキの写真だった。金箔をちらしたチョコレートケーキの写真が大人っぽいノートは、端がよれよれになっている。前回より使い込んである気配から、優里花さんの気合が伝わってきたような気がした。
「あのねえ祥子さん」
表紙を開こうとした私の手を、優里花さんの声が止める。
「なあに?」
「前に書いたものがあったでしょ? あれを見せた後、梨々花も自分の作品を作り上げてね」
「うん」
梨々花ちゃんが書いたのは、女子中学生が主人公の恋愛物だったと優里花さんは話した。
主人公・愛梨は買い物に出かけた先で偶然、トップアイドルの神城剣と出会い、トラブルに巻き込まれ成り行きでデートをすることになってしまう。テレビから受ける印象とは違って傲慢で自分勝手な剣に愛梨はガッカリするものの、その後連発するトラブルを切り抜けている間に実は優しくて強くて、プロとしてのプライドを持った男だとわかる。恋に落ちそう、と思った二人にはすぐに別れの時が訪れ……。
「で、剣君は最後、愛梨の額にキスするの。お前が気に入ったって」
「少女漫画っぽいなあ。血は争えないね」
あははと笑いながら、銀のフォークでモンブランをつつく。てっぺんに乗った栗を口に放り込んで咀嚼していると、目の前の優里花さんは頬に手を当てて、エレガントなポーズで大きくため息をついた。
「そうなの。梨々花が書いたのも王道的な物語なのよね。いかにも女の子の夢って感じだと思う。トップアイドルとばったり出会うなんてみんな憧れるだろうし、一緒に長い時間を二人で過ごして、好かれたりなんてね」
「かわいいほへ」
うん、このモンブランは美味しい。かけらを飛ばしそうになりながら私は笑って頷いたけれど、優里花さんはどうやら、同意を求めていたわけではなかったようだ。
「最初にまず、ちょっと嫌な奴、って思わせるのがニクい演出だと思うの。あのスターの剣君が実はすごく自分勝手で我儘な、いわゆる『俺様系』ってやつらしいんだけど、そういうキャラクターってことにしておいて、一緒にいるうちにだんだんいいところが見えてくるって」
「うん。でも、それも王道なんじゃない?」
「そうよね。確かちょっと前にあの子は、そんな漫画を読んで面白かったって言ってた。それを、小説にしてみましたみたいなところはあると思うの」
ふう、と二度目のため息が吐き出される。キャラメルの甘ったるい香りをまき散らしている紅茶にも、モンブランにも手をつけないまま、優里花さんはぎゅぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「文章もめちゃめちゃだし、読んでいられない部分は多かったわ……」
あまりにも深刻なその表情に、不安がよぎる。
「どうしたの、一体」
「面白かったのよ。私のよりも、断然、梨々花の書いたものの方が」
思わず、ケラケラと笑った。おかしくてしばらく笑い続けて、でも、優里花さんの表情がずっとしかめっ面なままだと気が付いて、私はピタリと笑うのをやめた。慌ててやめた。
「優里花さん?」
「若さよね。滅茶苦茶だけどパワーがあったわ。面白い、自分が好きなものを書いてやるっていう強い思いが溢れてて、技術的には未熟ではあるんだけど、ひきつける力が溢れていたの。私のものとは違って!」
どうやら本気で悔しがっているらしい姿に、どう声をかけたらいいのかわからず、私はそーっと、音を立てないように気を付けながら紅茶を啜り、どうコメントすべきかまた悩んだ。
そこに、優里花さんはこうたたみかけてきた。
「それに対抗できるのは、年月だけだと思ったの……!」
「年月?」
「ええと、経験と言った方がいいかしら。人生経験とか、知識よ。梨々花が若さでいいものを生み出したんだから、私は人生の経験値でもって面白いものを書くべきかなって」
「なるほどね」
初めて見る大人げない姿。メラメラと燃える友人の姿にあっけにとられつつ、頷く。
「そういう心意気で書いたの、これ」
「ああ」
どのような意気込みで書いたかの説明だったらしい。道理でノートがヨレるわけだ。表紙をめくると、前回と違って字が少し乱れている。ところどころこすったあとがついているし、修正テープで消されている箇所も多い。
「力作なのね」
「そうなの!」
すべてを語って満足したのか、優里花さんはようやくいつもの微笑みを浮かべて紅茶を口にした。見覚えのあるエレガントな仕草が戻ってきて、私もほっと一息。モンブランの残りをパクパクと食べて、改めて新作に目を通していく。
今回の主人公はぐっと大人になって、二十六歳のOL。名前は美佳。美佳は恋をしている。相手は部長の坂東、四十一歳。大人で仕事のできる坂東に、美佳は恋焦がれている。しかし彼は妻子がある身。だけど恋心は止められない。部長、好きです。愛しているんです。あなたに愛されるのなら、私は何も求めません。離婚も求めない、携帯の待ち受けは可愛い子供たちのままでいい。激情のままに美佳は坂東の胸に飛び込み――。
「いやいやいやいや、いやいやいや!」
「どうしたの祥子さん」
「いや、うーん、これさあ……うん、なんか、うーん」
コメントしづらいことこの上ない物語だ。
「まさか梨々花ちゃんに見せたりとかは」
「当たり前でしょ、こんなの、小学生には早すぎるもの」
ではなぜ書いた。なんのために書いたんだ。……そうか、面白い話を書きたいがあまり、暴走したのか。
「ごめんね祥子さん、恋愛物はあんまりって言ってたのに。なかなか面白い話のアイディアが思いつかなくて、色々考えてたらこうなっちゃって」
「そうなんだ。うん、なんか、すごいよね。そこまで夢中になれるなんてちょっとうらやましいよ」
そう言いつつ、ノートを閉じた。まだ途中なんだけど、これ以上は恐ろしくて読めない。
なぜかというと、激情のままに愛の深淵に身を投じる女が主人公なので、オブラートに包むとラブシーン、包まないで言うととにかくエロイシーンが多いんだけど、書いている優里花さんの経験値がなんとなく透けて見えるような文章になってしまっている。多分、その道のプロの書いた「官能小説」ならばこうはならないであろう、どストレートな表現の数々。ラブホテルなんか行ったことがないんだろうし、特殊なプレイなんてしたことがないであろうからこその、曖昧なイメージ先行の台詞の数々。そのせいで、すっかり卑猥な仕上がりになってしまっている。ラブシーンの部分だけは、男子中学生が書いたんじゃないかと思えるようなムードで読んでいてとにかく恥ずかしい。どうだ、美佳、ここがいいんだろう! こうされるのが好きなんだろう! とか。ちょっと違うんじゃないかと。
「でも、知らないことを想像だけで書くのは、難しいんじゃないかなあ」
「そう思った?」
黙って、こくんと頷く。そう思うし、そうであって欲しい。
「不倫とか、そのー、違うんじゃないかな。面白いテーマだと思ったのかもしれないけど、余りにもリアリティがなさすぎるとこう、説得力がないっていうか」
「……そっか。なるほど」
その反応に、ほっとしてしまう。むしろ良かった。こんな内容の小説を雰囲気ありありのセクシーな文章で書かれたら、旦那さんと次から顔を合わせられない。
「そうね、知識のないまま、想像だけで書くなんて、読んだ人に嘘をつくようなものだものね」
「うん? うん」
そう言いたいわけじゃあないんだ。このテーマはあなたに合ってない、そう伝えたかっただけ。こんな内容で書くぐらいなら、最初の、古臭くとも清らかな青春物を綴っていった方が良かったという意味だったんだけど。
そんな私の真意が伝わっていなかったのだと思い知らされたのは半年後。
桜が舞う四月。学年がみんな一つずつ上がって、PTAの役員決めで散々揉めた総会の帰り道、優里花さんはにっこり微笑んでこう言った。
「ねえ、また新しい小説が書けそうなの」
へえ、と笑う。今度はどんなテーマなのか、それは明日教えてくれるそうだ。
新しいお紅茶を頂きながら、薔薇の香りが漂う高峰家のリビングで軽く腰を抜かすことになるなんて。誰が想像できるだろうか。いや、できない。
と、思わず反語表現を使ってしまうほど、私は驚くことになるのだった。