お隣の奥さんを紹介します
「素敵な奥さん」という言葉から思い浮かべるイメージは、きっと人それぞれだと思うけど、私の場合はお隣に住んでいる、高峰優里花をまず真っ先に思い浮かべる。
細い道を一本隔てた向こう側の家はお隣と言っていいのかどうか、とにかく玄関から出て右側、我が家の真横に高峰家は建っている。古い木造住宅が並ぶこちら側に対して、あちらは新しくてやたらとリッチな家が並んだいわゆる新興住宅地。その一番端にある高峰さん家はとにかく豪華だ。白い壁の大きな家、広い庭には芝を敷いて花や実をつける木をたくさん植えているし、あちこちに妖精だか天使の石像を飾っている。白い高い木の柵で囲ってある家の入口にはアーチ状の門があって蔦が絡まり、季節が来れば花が咲いていい香りを振りまく。端っこにある噴水からはいつでも水の流れる音がして清々しいし、薔薇まで育てられている。
本人も、いつでも薔薇の香りがする美人。名前から受けるイメージにピッタリのおっとりとした雰囲気の美女は髪をくるくる巻いていて、それがまた似合うんだ。日差しの強い日には大きなつばの帽子を被って、白いレースの長い手袋に日傘。イメージカラーはとにかく白。肌も白、服も靴下もひらひらとした白。
そんな優里花さんと私は、何故か仲が良い。
築四十年のボロい旦那の実家で暮らす、薔薇どころか花にすら縁のない、年柄年中Tシャツとジーパンの私、村崎祥子が彼女と知り合ったのは、一番上の子供が同い年だったから。道の向こうに建った真新しい、夢のようなお家にやってきた素敵な奥さんは可愛い女の子を連れていた。ママそっくりのくりくりの目をした娘の名前は「梨々花」で、私の長男である健人と同じ学年。でも、それだけだったらきっと仲良くはならなかっただろう。
家の前で何回か顔を合わせて話しているうちに、私と優里花さんは同い年で、しかも誕生日まで一緒だった事がわかったのだ。
「なんて素敵な偶然なのかしら!」
優里花さんはそう言って、私を健人とセットで家に招いてくれた。外観から受けたイメージそのものの家の中、猫足のチェスト、ふかふかのソファの上にはやっぱり薔薇柄のカバーをかけられたクッション、花瓶には大輪の花が飾ってあって、見上げればシャンデリアがドーン。
よだれをじゃあじゃあ流すわが子を床の上に置いていいのかどうか。その前に、自分の小汚い靴下をスリッパに入れていいのかどうかすら悩んでいた私に、優里花さんはそれはそれは艶やかに笑ってこう言った。
「さあ座って! 今、お茶を用意するわね!」
子供たちをおもちゃがいっぱいのサークルの中に入れたら、大人たちは優雅なティータイム。
「お紅茶、何にする?」
やれアッサムだ、ディンブラだ、産地がどうのこうのと笑顔で話す優里花さんの口から出てくる単語はほとんど初耳のものばかりだったので、唯一聞き覚えのある「ダージリンで」と答えた。紅茶といえば黄色いパッケージのティーバッグのものくらいしか知らない私の前で、優里花さんは鼻歌を歌いながら素敵な“お紅茶”を用意している。いい香りがリビングを包んで、キッチンから運ばれてきたのは花の形をしたピンクのお皿。お茶請けはクッキーで、どれもこれも可愛い形の、上品な甘さ。粗相をしてはならないとおそるおそる味わいながら、楽しげに「素敵な偶然」を喜ぶ優里花さんの声に耳を傾ける。
こんな大きな家で薔薇に囲まれて暮らしているから違う世界の住人なんだろうと思っていた優里花さんは、ちっとも悪意のない、ほんわかとした幸せな少女のような人だった。今ハマっているドラマはどれだとか、あの俳優がかっこいいとか、出てくる話題も他愛のないものばかりで、旦那の年収自慢だとか、生活が違うみたいな話は一切しない。本当に育ちのいい人ってこういうものなのかもしれないと思いつつ、私も優里花さんの話にぼちぼちと答えていった。
愚痴だとか、疲れたとか負の話題のない楽しい時間。白い、薔薇の香りのリビングで私は少女だった頃に戻ったような気分でしばらく過ごした。
お茶を飲み終わってから御馳走様と立ち上がると、優里花さんはまた遊びに来てね、と笑った。
慣れない土地に来て、一人だから。心細そうなその顔に胸をなぜかキュンとさせて、私は「わかった」と答えた。
毎日毎日同居している義母に気を遣い、赤ん坊の鳴き声に追われ、くたびれた生活の中にいる私にとって、優里花さんとの時間はとてもゆったりとした癒しの満ちあふれたものになった。
子供同士は男の子と女の子で、少しずつ、遊びも友達も共通するものが減っていったし、私の方は健人に続いて、岳斗、陸斗と更に二人の男の子が出来たりして、梨々花ちゃんしかいない高峰家とは状況が随分違ったけれど、優里花さんはいつでもすごくいいタイミングで声をかけてくれた。美味しいお菓子を買って来たから一緒にどう? とか、新しい紅茶を買ったのよ、とか。よだれででろでろの息子の姿に申し訳ない気分になりながら、お邪魔してはほんの少しの安息を得る。優里花さんはでろでろの息子を見て、赤ちゃんって可愛い、懐かしいわと微笑んでくれる。
他愛のない話をしながら、友情を育んで今年でもう八年目。
四月にとうとう一番下の息子が幼稚園に入って、ようやくまとまった時間が出来始めた六月。お紅茶を二人で楽しんでいたら、優里花さんが突然こう言い出した。
「ねえ祥子さん、あのねえ」
ちょっと恥ずかしそうに、はにかんだ笑顔が可愛らしい。
「どうしたの。いいことがあった?」
「ううん、そういうのじゃないの」
両手で頬を挟んだまましばらくくねくねと照れてから、とうとう優里花さんが“白状”した。
「あのねえ、私、小説を書いてみたの」
「小説?」
テーブルの下から、ピンクと赤の花の写真が表紙のノートが出てくる。
「梨々花が好きなアイドルの、政宗君っているのね。その子が小説家としてデビューするっていうの。そしたら梨々花が、私も小説家になりたいって言って、で、なんだかんだと私も一緒に挑戦する事になっちゃって」
なにがなんだかんだとしたら子供と一緒に小説を書くことになるのかはわからなかったけれど、優里花さんはちょっと自信ありげな表情でノートを私に差し出してきた。
恐ろしい。小説ったって、一体どんな内容なんだろう。
心の中にある大きな困惑の中に潜んだ小さなワクワクを懸命に膨らませて、私はそっと、リッチなノートの表紙をめくった。