エミリオ少年の困惑(1)
翌朝。
今日もマリオーゾは雲一つない快晴だった。
窓からカーテン越しに降り注ぐ清浄な朝日の中、寝台の上で呻くエミリオの姿があった。
(う゛~~あ゛~~~……あ、頭、痛ぇ~~~~~)
頭の中がグラグラする。もう起きねばならない時間なのに、どうしても起き上がれない。
(き、気持ち悪い…何なんだ、これ……?)
キリキリと痛むこめかみに、むかつく胃。妙に咽喉が渇くし、身体もだるい。
あまりの苦しさに、自然と眉間に皺が寄る。
言うまでもなく二日酔いの症状だったが、わかる人間には一発でわかるそれも、十歳の少年にわかるはずもなく。
(オ、オレ…もしかしたら何か命に関わる病気!?)
いまだ嘗てない苦しみに、突拍子もなくそんな結論に達したエミリオは、かっと目を見開きぶるっと身を震わせた。
(い、嫌だ、そんなの……!!)
今までも、祝い事などでワインを少し口にする事はあったが、寝酒にするような酒精の強いものを飲んだ事はなかった為、それが原因だとまでは思いつけないエミリオだった。
ついでに軽く記憶も飛んでいて、いつベッドに入ったのかさえも覚えていない。
「いやだ……」
口に出して呟き、ぎゅっと敷布を握り締める。
冗談ではなかった。まだ、十年しか生きていないのに。第一、まだ自分はやりたい事がたくさんあるのだ。
(そうだよ…、まだオレ、世界一の大商人になってないじゃんかー!)
── 五年の月日を経て、幼い夢はさりげなくスケールアップしていたらしい。
その時、すぐ近くからリーンゴーンと大音響の鐘の音が鳴り響き、エミリオは頭を抱えてぐお、と呻く事になった。
リオーニが日の出の鐘を鳴らしているのだ。
エミリオの部屋は宿房(聖所とは区別してこう呼ばれる)の三階、元々物置だった屋根裏の為、鐘楼に比較的近い。
いつもならうるさいだけの鐘の音が、今は凶器と化していた。
朝は八回、夜は六回。二回分多いだけ、その鳴り響く時間は長い。鐘が余韻を漂わせながら鳴り終わった頃には、エミリオは悶絶寸前だった。
(…あ、あたま、が……われそう……)
ぐらぐらする頭を抱え、頭痛と戦う事しばし。次はコンコン、とドアを叩く音がした。
「…エミリオ、朝ですよ。起きなさい」
廊下から聞こえてきたのは、ディスティエルの落ち着いた声。
いつもならとっくに起き出しているはずの自分が起きて来ないので、起こしにきてくれたのだろう。
聖所の朝は忙しい。
リオーニ一人だった頃は聖所として機能していなかった所だが、ディスティエルの働きにより機能するようになった。
その為、今ではマリオーゾでも特に信心深い人々が、わざわざ聖所まで朝の祈りを捧げに来るようになっていた。
その数は決して多くはないが、疎かに出来るはずがない。
何より、マリオーゾ唯一の聖所の、やはり唯一の聖女であるディスティエルがそんな事を許すはずがなかった。
日の出の鐘が鳴ると同時に門扉を開き、信者達がいつ来ても良いようにした後は、聖主像を清め、聖水の用意をする。
求めがあれば、聖言を唱えて人々を祝福するし、懺悔を聞く事もある。
そんな慌しい中でわざわざ声をかけてくれたのだ。しかし、今のエミリオには反応を返す事が出来ない。反応がなければ寝ていると思うに決まっている。
ドンドンドン!!
今度は激しく扉を叩く音に襲われる事になった。ようやく先程の鐘の余韻から抜け出しそうだったのに、再び頭痛がぶり返される。
(ああぁあああ!! 頭がぁあああ!!)
頭を抱え込みながら涙目で扉を睨み、聞こえていると反論したい所なのに、咽喉がカラカラで声が出ない。
こうなると、いっそ起きろ! と怒鳴り込んで来てくれた方が楽である。
「エミリオ! もうとっくに日の出の鐘は鳴ったのですよ!? さっさと起きなさい!!」
叩く音に加えて、何処となく苛立ちと声量の増した声まで加わって、音の凶器は容赦なくエミリオを打ちのめす。
(わかってるって、ディス~~~!! だからもうちょっと、声を抑えてくれよ…っ)
うーうー、と寝台の上で呻きつつ、必死に耐えていると、ようやく痺れを切らしたディスティエルがバン! と一際大きく音を立ててドアを開いた。
「エミリオ!? …?」
柳眉を逆立てたディスティエルが拳を固めて部屋に押し入ってくる。そこでようやく寝台の上で身悶えるエミリオの只ならぬ状態に気付き、その目を丸くした。
「…どうしたのです、エミリオ。具合でも悪いのですか?」
自分が悪化させたとは夢にも思っていない口調での問いかけに、エミリオはがっくりと頭を枕に沈ませた。
+ + +
「二日酔いだな」
「は…? ふつかよ……?」
頭が痛い、気持ち悪いではよくわからないからと、午前中は寝ていても良いという許しを貰ったエミリオに対し、朝の勤めを終わらせたリオーニが下した所見はそんなものだった。
一体、どんな重病かと思っていたエミリオは、思いっきりその目を丸くした。
その病名(?)は聞いた事がある。聞いた事はあるけれども。
「…二日酔いって、酒飲みがなるもんじゃなかったっけ……?」
記憶が飛んでいるエミリオが、騙されるもんかと胡散臭そうな目で問い返すと、リオーニはけろりとした顔で答えた。
「だってお前、昨日飲んだじゃないか。舐める程度にしとけ、って言う前に、グラスでぐいっと」
「はあ?」
「…もしかして、覚えてないのか?」
明らかに記憶にございません、という顔をするエミリオに、リオーニは自分のした事を棚に上げて呆れた目を向けた。
「『酒は飲んでも飲まれるな』だぞ、チビ?」
「何を偉そうに子供相手に余計な説教をしているんです、リオーニ聖父」
冷ややかな言葉に、リオーニの顔が引き攣る。
「メ、メリー!? い、一体いつからそこに」
「たった今です。ついでに『メリー』ではないと昨日も言ったはずですが?」
リオーニの手が無意識に後頭部に向かう。そこには昨夜、麺棒にて受けた一撃によるこぶがあった。
「そ、そんな事言っても、お前が俺の生徒だった時は『メリッサ』だったじゃないか」
「まだ聖名さえ頂いてなかった頃の話を、いつまで引き摺る気ですか!」
二日酔いに苦しむ子供の前で、どうでも良い事で口論し始める保護者達を呆れ顔で見つめ、エミリオは昨夜の事をぼんやりと思い返していた。
確か、寝台に入っても何だか寝付けなかった記憶がある。
何というか、ざわざわと落ち着かない気分というか、神経が昂ぶっているような── そう、まるでカーニバルの後夜祭の後のような気分だった。
血が騒ぐとでも、言うのだろうか。
寝つきも寝起きも良い方なのに、何故そんな状態になったのかはよくわからない。
ごろごろと何度も寝返りを繰り返して、それでも一向に睡魔が訪れてくれなかったので、水でも飲むかと起き出して── 。
そうだ、まだ起きていたリオーニに眠れない、と話しかけた。
それならとリオーニが差し出したグラスに入っていた無色透明な液体を深く考えずに口にして── そこから記憶が途切れている。
という事は。
「おっちゃんのせいか!?」
思わず声を上げ、自分の上げた声でぐわんと頭に衝撃を受け、ぐううと寝台に沈み込む。
そんなエミリオの今更ながらの反応に、まだ何か言い争っていた二人がぴたりと口を閉じた。
「…えーあー、まあ、遠因はあると思うが」
やがてぽりぽりとこめかみを掻きながら居心地悪そうにリオーニが肯定すると、横から冷ややかにディスティエルが訂正を入れる。
「遠因? 原因の間違いでしょう。あんな強い酒を子供に勧める事自体間違っています。しかもグラスで」
「丁度飲んでいた所だったし、わざわざ別の入れ物を出す程でもないと思ったんだよ。それに、寝るにはあれが一番確実じゃないか!」
「聖父ともあろう者が、自分の物差しを他人に押し付けるんじゃありません!」
再び言い争い始める二人の言動から、どのような状況だったかを推測したエミリオは、本当に自分を襲った苦痛が二日酔いである事を理解した。
話には聞いていたが、よもやこれ程のものとは。
教会が飲酒に関しては何故か特に制限を設けていない為、リオーニもよく飲んでいるのだが、彼はザルと言うよりは底なしで、二日酔いの醜態など全く見せない。
そのせいで、酒に対しての認識が甘かったエミリオは、もう二度と酒なんか口にするものかと心に誓った。
あと四、ゴ年もすれば、子供から半人前に昇格して大人達の仲間入りをするが、こんなに苦しい思いをしてまで飲みたいとは思えない。
そんな風に十歳にして禁酒の誓いを立てたエミリオだが、後にそれがあっさりと覆される事になるのは── また別の話である。