エミリオ少年の悩み(1)
イオス大陸有数の港町、マリオーゾ。人も物も、イオス大陸のあらゆるものがここへ集まると言われている。
その南西に広がるは、穏やかな海流を誇るエンテ海。
南国特有の少し強めの陽射しの下では、まるで宝石をばら撒いたかのような眩さで煌いている。空は青く澄み渡り、そこに漂う雲の白さを際立たせていた。
道を行く人々は明るい表情で、陽気で大らかな性質はその街の豊かさをも象徴していた。
その日焼けした身に纏うのも、色鮮やかで解放的なデザインのものが多く、マリオーゾ特有の自由な気風がよく表れている。
長旅を経てこの町へと辿り着いた人間が、町の入り口でその活気に満ちた様子を目の当たりにし、呆然と立ち尽くす事がこの町でよく見られる光景になって久しい。
というのも、マリオーゾに満ちる明るく解放的な空気も、肩や腕を剥き出しにするような服装も、イオス大陸の他の場所では、まず見かける事がないものだからだ。
他に存在する大陸と異なり、このイオス大陸は特に聖主信仰が篤い地である。
聖主とは、古の時代に世界を支配していた魔王を倒し、世に希望と平和を齎した人物を神格化したもので、聖主信仰は後世に名を残さなかったその人物の偉業を讃える内に宗教となったものだ。
その苦難の人生を不屈の精神で乗り越えた偉大なる人物──その人物を讃える宗教は、とかく規律が厳しい事で知られている。
肌は必要以上見せてはならない、暴力はいかなる理由があろうとも働いてはならない、質素を常とし贅沢は慎め、日々研鑽努力すべし── などなど。全てを挙げるのも面倒なほど。
もっとも、その全てを守ろうとすると実生活に支障が出る為、実行しているのは聖職者の中でも特に敬虔な信者のみだが、その教えは一般の民にまで浸透している。
なにしろ、イオス大陸の北東にその総本山が存在しているのだ。
そんな背景もありイオス大陸全体が聖主信仰を基本宗教とし、結果として世界的な目で見ると昔かたぎの封建的な風土の土地が多いのだった。
人々の多くはそうした生活に満足し、そのまま生まれた地の土へと還るのが常だ。刺激を求める一部の人間だけが大陸の外へと出て行き、大抵そうした人々は二度と戻って来る事はない。
マリオーゾは、そんな一部の人間が目指す最初の『外』への出口の一つなのだった。
+ + +
その日もまた、マリオーゾの町は新たな旅人を迎え入れた。
大人と子供の二人組──マリオーゾにやって来る旅人の中でも少々珍しい組み合わせだ。
その二人は他の旅人同様、入り口の辺りで立ち尽くしていた。
……ただし、驚いて立っていたのは子供の方だけで、大人──二十歳前後の女性──はその顔にも態度にも一切驚いた様子を見せていなかったが。
立ち尽くす子供を見守る彼女は女性にしては背が高く、真っ直ぐに伸びた姿勢が印象的だった。
邪魔にならないようにか、濃い灰色の髪をきっちりと結い上げた彼女が身に着けているのは厚手のマントに男物の旅行服で、どちらかと言うと丸みの欠けたその痩身も相まって、遠目では性別がわかりにくい。
顔立ちもどちらかと言うと中性的で、冷ややかな薄茶の瞳が余計にそれを際立たせている。
一方、連れの子供は見た所では四、五歳ほど。金髪に碧眼の、まさに可愛い盛りの少年である。だが、可愛いだけでなく利発そうな雰囲気がその大きな瞳に漂っていた。
二人は親子にしてはあまりにも共通点が見当たらず、傍目ではその関係がわかりにくい。実際、二人の間に血縁関係というものは存在していなかった。
「……すっげー……!」
ようやく子供の口からそんな興奮した声が零れ落ちる。
マリオーゾの町を前に頬を紅潮させ、口をぽかんと開けている様子は、子供らしくて微笑ましい。やがてその顔に全開の笑みを浮かべると、少年は実に嬉しそうに言い放った。
「人がカレハカクレ虫みたいにいっぱいいるー!」
──カレハカクレ虫とは、枯葉の下に卵を産んで越冬する虫で、春になるとわらわらと湧き出してくる虫である。
その湧いて出る様は決して見て気持ちの良いものではなく、生理的嫌悪感を抱く者が大半を占める。
人が群れ集っている様子をそんなものに喩えた少年の感性に頭痛を覚え、連れの女性は胸の内で育て方を間違ってしまったかもしれない、と不安を感じた。
少年と彼女の間に血縁こそないが、少年が赤子の頃から今まで育てて来たのは彼女である。
育ての母としては幾分経験が足りてなかった事は否めないが、人として最低限の事は教えたつもりだ。……が、それ以外の情緒面に関しては自信がない。
何しろ彼女自身、感情を人に曝す事を苦手にしているし、必要最小限の会話を好む方だからだ。
確かに今までずっと人口の少ない山間部を主に旅してきた為、一度にこれ程の人間を目の当たりにする事などなかった。
その事を思えば、人が多いだけで感動する事自体は不思議な事ではなかったが、喩えに素で虫が出て来るのは人としてどうか。
自分の隣でそんな事を養い親が思い悩んでいるとは夢にも思っていない様子で、少年は次に地面をタスタスと踏み、さらに興奮気味に報告してくる。
「すっげー、道が土じゃない!! 何だろこれ、石かな!?」
エンテ海もかくやの澄んだ青い瞳をキラキラと輝かせての一言に、彼女はくらりと眩暈を感じた。もちろん、その笑顔の眩しさに対してではない。
確かに田舎ばかりを旅して回ったのは事実だ。事実だけれども。
道を煉瓦で舗装された街は、封建的なイオス大陸でも決して珍しいものではない。
今までマリオーゾに来た旅人の中で、その景観や開放的な雰囲気ではなく、たかが道にそこまで感動した者はいないに違いない。
「……ディス?」
何の反応も示さない保護者に不思議そうな目を向けてくる少年へ彼女はぎこちなく微笑みかけ、彼の偏りまくった一般常識を早めに矯正せねば、と心に誓った。
「さあ、もういいですか? そろそろ移動しますよ」
「……何処に?」
自分の報告に彼女が大して反応を返さなかった為か、それともここからまだ移動したくなかった為か。
心なしかムッとしたように眉を寄せての問いかけに、彼女は澄ました顔で答えた。
「これから私達が暮らす所へですよ。言っておいたでしょう。今日で旅は終わりなのですよ?」
「あ、そっか!! そうだった!!」
最初は驚き、次に嬉しさを隠さずに笑顔になる少年を微笑ましく思いながら、横に置いていた荷物を抱え上げる。
そう、今日からはもう各地を流離う事なく、このマリオーゾで日々を営むのだ。
この地には彼女が師と仰ぐ人物がいる。彼と顔を合わせるのも実に八年ぶりだ。
最初こそマリオーゾで暮らす事にすっきりしない思いを抱いていたものの、今は楽しみにすら感じていた。この街の解放的な空気が、頑なな所のある彼女の心にも作用したのかもしれない。
彼女が先に歩き出すと、すぐに小走りで少年が追い着いてくる。そして横からわくわくした様子で矢継ぎ早に確かめてきた。
「じゃあさ、じゃあさ、今日からは野宿とかしないでいいんだ?」
「ええ、そうです」
「雨漏りがする納屋とか、物置の片隅とかで寝たりしないんだ?」
「……ええ、そうです」
「朝起きたら馬糞に囲まれてたりしないんだ?」
「……」
確かに馬小屋に泊まった時は彼女も閉口したものだ。
その時の事を思い出してげんなりとなりつつも、彼女は良心を失わなかった。
「──エミリオ、ろくに路銀を持たない私達に、親切にも一夜の宿を貸して下さった方々が誤解されるような事を口にするのはやめなさい」
「はーい。でも本当の事じゃん……」
ぶつぶつと言いながらも、すぐに好奇心の塊は次の興味の対象を見つけ出す。
「あっ、あれなんだ!?」
小さな指で指し示す方へ目を向けると、そこには多くの露店が軒を連ねるバザールがあった。
喧々囂々(けんけんごうごう)と商人と客がやり取りする声が、少し離れた場所にまで聞こえてくる。間違いなくこのマリオーゾでも一番の賑わいを見せる場所だろう。
「あれはバザールですよ」
「嘘だ! あんなに人がいっぱいいるし、食べ物じゃないし、うるさいじゃないか!」
常識の偏った少年だが、その言葉に間違いはなかった。ただ、今まで見てきた田舎のバザールとマリオーゾのバザールの性質が違い過ぎるだけだ。
地方では農作物や食料品が主で、元々の相場が安い為に値切る交渉など滅多になく、所によっては物々交換だったりするものでそもそもの目的が違うのだ。
彼女はすかさずその知識に補足してやる事にした。
「これもそうなのですよ。このマリオーゾには他の大陸からの品も入ってきます。ほら、この街の人は他とは違う染めをした服を着ているでしょう? あれも海の向こうから伝わったものという話です。ここでは宝石や衣類の生地、薬草──この大陸にはないものばかりが売られています。だから各地の商人がわざわざここまで買い付けに来ているのですよ」
地方からマリオーゾに出て来るのには、相応の時間と路銀が必要になる。その結果、可能な限り安価で良い物を仕入れようと値切りの交渉は非常に白熱する訳だ。
少年はその説明に納得したのか、ふうん、と相槌を打つと今度は食い入るようにその目をバザールのやり取りに向けた。
口を動かすばかりではなく、次から次へと商品を並べて行く手際も見事だし、口では激しくやり取りしながら、片手では買い取った商品を整理し、あるいは算盤を弾く器用さはまるで手品だ。
それを面白そうに見ている少年に、先を急かす代わりに彼女はからかい半分で問いかけてみた。
「商人になってみたくなりましたか?」
幼い子供の事だ。面白そうな職業を見て、それに憧れを抱くのは実に普通の心の動きだろう。
その問いかけにぱっと顔を彼女の方に向けた少年は、しかし予想に反してその首を横に振った。
「んーん、ならない。あれも面白そうだけど、もうなるものは決めてるから!」
「えっ?」
ずっと側にいたのに養い子がそんな事を考えていたとは思わず、彼女は素直に驚き、そして月日の流れる速さを思った。
夜泣きをするような子ではなかったし、基本的に聞き分けの良い子だったが、苦労がなかった訳でもない。
ほんのりと胸の奥が熱く感じるのは何故だろう。世の母親も子の成長を前にこのような気持ちになるものなのだろうか――などと密かに感激しつつ、彼女は少年へ好奇心から尋ねてみた。
「では、何になりたいのですか?」
元よりまともな答えは期待してはいなかった。年よりしっかりしている子ではあるが、むしろこの年でまとも過ぎてもちょっと微妙である。
問われた少年はその一言を待っていたかのように、その顔にさながら天使のように純真無垢な笑顔を浮かべると、胸を張って誇らしげに言い放ったのだった。
「大金持ち!」
──その瞬間、彼女は自分の育て方を激しく後悔したという……。