正しい魔王の使い方(4)
ざばあっ!
「わっ、冷たっ!! ちょっと待ってよ、せめてこ、心の準備…っ!!」
「うるせえ、男なら逃げんな!!」
どばしゃっ!
「ぎゃー!! ひ、人でなし!!」
問答無用とばかりに頭から続けざまに冷たい水をかけられ、リドルは今にも死にそうな声をあげた。
季節的には過ごしやすい気候でも川の水はやっぱり冷たい。それを何の予告もなく頭からかけられ、全身ずぶ濡れにされては文句の一つも出ておかしくはないだろう。
しかしそんな非難もなんのその、人でなしと言われた当人は無言で三杯目の水を汲み上げ、にっこりと笑う。
── 顔自体は笑ってはいるが、目が笑っていないという器用な表情で。
「うう…、エミリオさんひどい。仮にも聖職者なのに、血の穢れを祓う為とはいえ、頭から水をかけるなんて……」
さめざめと涙ながらに訴えてみるものの、エミリオは聞く耳を持たずに情け容赦なく三杯目の水をうなだれるリドルに勢いよくかける。
「ぶはっ、ちょ、本気でひどくない!? い、今の鼻に入りかけたし!!」
「黙れ。お前にはこれで十分だ」
本気で涙目になるリドルに、エミリオは聞く耳を持たない。自覚がなくても、リドルには時にエミリオが血も涙もない『魔王』に思える。
もっともこんな乱暴な手段をエミリオが取るのも、いつもの事だったりするのだが。夏場ならおそらく問答無用に川に蹴り落とされている。
…魔族や一般人相手ならほぼ無敵を誇るリドルだが、エミリオの攻撃は来るとわかっていても完全には避けきれない。油断していると今のようにもろに食らう。
伝道を目的とする聖父は単独行動が基本である為、全員が体術を基本とした護身術を身に着けてはいる。…が、エミリオのそれは、暗示同様達人レベルだったりするのだった。
おそらくそもそもが『人類の敵』である事が影響しているのだろうが、リドルとは逆に魔族以外にはほぼ無敵なのだ。
幸か不幸か、リドルを叱り飛ばす時以外にその手腕を発揮する場面がない為、本人にその自覚はないのだが。
視線を足元に向ければ、そこには薄赤い水たまり。
例によって盛大に魔物の返り血を浴びた結果だが、これだけ水を浴びても完全には落ち切っていない。
こういう事態になる度に、次回はもうちょっと考えて攻撃しろと説教されるのだが、一向に改善されないとなればエミリオが怒るのも当然だろう。
(元々、沸点低いしね)
聞こえたらますます容赦ない水の洗礼を浴びかねない事を心の内だけで思い(流石にそこまで命知らずではない)、リドルはぷるぷると動物のように頭を振って水気を飛ばす。
── 寒い。
足元から這い上がってくる震えに耐えつつ、リドルはぎゅっと服の裾を絞る。盛大に水をかけられたお陰で、絞った所から薄汚れた水が滴り落ちる。
その程度で水気がなくなるはずもないが、放置するよりはマシだろう。そんな様子を横目で眺め、エミリオは小さくため息をついた。
「── リド。お前、なんでいつもそうなんだ?」
「…え?」
問われた言葉に怒りはない。むしろ何処か呆れを含んでいる。
驚いて顔を上げれば、エミリオの青い瞳が真っ直ぐに向けられていた。
「エミリオ?」
「見逃すという選択肢だってあるんじゃないのか? …毎回、律儀に倒す必要が何処にあるんだ」
言われた内容を理解し、リドルは心の内で息を飲む。
── いつか言われるのではないかと密かに思っていた言葉だった。
実際、魔族を倒す必要性は何処にもない。教会の教えでも人に害為す可能性がなければ、狩る必要はないと説かれている。
何故なら、魔族は世界にとって『必要』な存在だから。
一般的にはその認識はないが、魔族も人も、あらゆる生き物がお互いに影響し合っている。対とも言える魔族が減れば減るほど、実は世界は『闇』側に傾く。
すなわち、今の平安が消える日が近づく、という事を意味する。
現に魔族が弱体化した事で人の手でもそれなりに撃退出来るようになった結果、魔族が減り── 人の心は長い平和で傲慢になった。
その証拠に、『魔王』が生まれている。本来ならとっくに、光の時代は終わりを迎えていたのだ。
今回は確かに少女の命の危険があった訳だが(なお、件の少女はすでにエミリオによって近くの村へ送り届けられている)、最初に蹴り飛ばした時点で魔物が目を回している間に逃げるという選択肢だってあったのだ。
言動はとても聖父には思えないが、聖職者である事に変わりはないのか、エミリオの言葉は至極真っ当だった。
「それとも、魔族に…個人的な恨みでも……」
やがて言いづらそうに続いた言葉に、リドルは慌てて首を振った。
「それはない!!」
思わずといった調子の言葉に嘘はない。その様子に、エミリオは少しだけほっとしたように表情を緩めた。
「魔族に恨みなんてないよ」
「じゃあ何故、俺に付いて来る?」
「だ、だってエミリオは魔族が襲ってきたら撃退出来ないじゃないか。だから……」
「倒してくれ、とか守ってくれなんて、俺は頼んだ覚えがないぞ」
「う…、それは、そうだけど……」
心底困ったようにリドルは言い淀み── やがて、唇を拗ねたように尖らせるとぼそりと呟いた。
「…だって、エミリオと一緒にいると楽しいんだもん」
予想外の言葉にエミリオの思考は凍りついた。
「魔族を代わりに撃退するって、一緒にいる理由に丁度良かったし……。確かにエミリオはさ、『魔族ホイホイ』の上に人でなしだし、いつも怒ってばかりの癖に一般人の前じゃ『王子様』の二重人格だし、聖職者の癖に信仰心ないし、人としてどうかと思うけど」
「マテコラ」
ここぞとばかりに言いたい放題のリドルに、我に返ったエミリオのこめかみにうっすらと青筋が浮かび上がる。それに気付きつつも、リドルはこれだけはと思っている言葉を告げた。
「…でも、ぼくにとっては初めての『友達』だから」
虚を突かれたのか、エミリオが目を丸くする。
けれどそれはリドルのたくさんある隠し事の中でも、唯一胸を張って言える事だった。…気恥ずかしいから、出来れば本人には言いたくなかったのだけれども。
「だから、怪我なんてして欲しくないし、出来るだけ元気で長生きしてもらいたい。その為にぼくに出来る事は、近寄ってくる魔族から守る事だけなんだ」
それは真実だけれども、『何故魔族を倒すのか』という理由には足りない。
いつもならすかさずそこを突っ込んでくるであろうエミリオが、しかし今回は間抜けな顔で呆然とリドルを見つめている。
── 一体何がそこまで衝撃を与えたのか謎だが、先程の自分の言葉は結構な破壊力があったらしい。そこまで驚かれると正直傷付くのだが。
魔族を倒す事── それが魔族の『天敵』として生まれた自分の存在意義で。
それ以外に出来る事を思いつけなくて。
(エミリオを『魔王』にしたくないって、きっと我が儘なんだろうな)
それでも、誕生した魔王が未だに『人』として生きている事には、何か意味があるのだと思いたかった。
永く、永く繰り返された世界の摂理の、おそらく初めての『例外』。
初めての── 打算や恩義やそうしたものがない、対等な『友達』。
── 傀儡に心はいるまいに。
一番古い記憶にある、憐れむように微笑んだ顔を思い出す。
その通りだと思ったその時の自分は、まだ何もわかっていなかった。今はそんな事はないと言い返せる。
心がなければ、一緒にいて楽しいとか嬉しいなんて感情を知る事はなかったはずだから。
(失くしたくないんだよ)
頭ごなしに怒られる事も、飾らない言葉も、くだらない事で笑い合う事も、エミリオに会うまでは知らない事だった。
一緒にいるだけで、知らない事が増えて行く。
…いつか、エミリオは『魔王』になるのだろう。誰もが恐れ、魔族に傅かれる存在になるのだろう。実際、本人に記憶はなくても一度『魔王』としては覚醒しているのだ。
そうなった時、何処まで『エミリオ』であった頃の記憶や体験が残るか定かではない。その事を思うと怖くて堪らない。
エミリオが『魔王』になった瞬間、魔族の天敵である自分は彼に剣を向けなければならなくなる。『友達』と戦わなければならなくなる。
自分が魔族を倒す事で、その日が一日でも伸びるなら。最初の理由はそれだった。けれど今は違う。
── 忘れられたくない。
変わらないで欲しい。いつまでもこうして、呑気に旅をしていたい。
エミリオがどう思っているか知らないが、それがリドルの正直な気持ちだった。