正しい魔王の使い方(1)
昔、むかし。
かつてこの世は恐ろしい魔王が支配していました。
魔王の下僕である魔族や魔物は、我が物顔で人々を蹂躙し、たくさんの命が失われ、たくさんの不幸が生まれ、たくさんの嘆きが世に満ちていました。
けれどある時、絶望の中にある人々に希望の光が齎されました。
── 『勇者』。
吟遊詩人達にはそう謳われ、さらには神格化までされる事となった一人の人物によって、魔王は倒され、その死により闇の時代は終止符が打たれ、魔族達は次第に弱体化して行きました。
今では最盛期の十分の一、もしくはそれ以下にまで落ちたそれ等はもはや人の脅威ではありません。
人の力でも十分対抗できるようになった存在となり、いつしかその姿を見る事の方が稀になっていったのです──。
+ + +
── そんな昔話を思い出し、少女は心の内で『嘘つき』と呟いた。
グルルゥウウウ……
音に直すとそんな感じだろうか。
獣の唸り声に似て、それとも違う、薄気味悪い声。
それが、少女の足先から数十歩先にいる『獣のようなもの』の口から零れ落ちる。
嘘つき、ともう一度。今度は口の中で呟く。
(姿を見る事の方が珍しくなったって話だったじゃない……)
かくかくと震える膝。
気を抜けば腰が抜けてその場に座りこんでしまいそう。そうなるのが嫌で、必死に足を踏ん張る。
通常の獣に遭遇した時も、下手に背を見せては危険だと父親から言われた事を思い出す。でも── それは『通常の』獣であった場合だ。
尾が三つもあり、鋭い牙が口からはみ出し、緑を帯びた体毛はまるで鋼のような奇妙な光沢がある。どう見ても動物ではない。
それは、『魔物』と呼ばれる闇の生き物だった。
昔話では魔王が死んでから弱体化し、人の手でも倒せるようになったという事だったが、それは相応の装備と戦闘能力があっての事だろう。
丸腰の十五にも満たない少女に一体何が出来るというのか。
「う、…うう…っ」
怖い。
怖くて怖くて、涙が出る。
でも、泣いてしまったら余計に相手の姿を見失う。零れ落ちる涙を拭う事も耐えて、ただ少女は目の前の獣を刺激しないように努めた。
こうして待っていればいつか助けが来る、などとは思わない。そこまで都合の良い夢を抱けるほど、子供ではない。けれど──。
(誰か……)
ついに獣が動く。
ほんの一駆けであっと言う間に縮まる距離。血を想わせる真っ赤な目が何処か楽しげに見えて、少女の心は恐怖する。
(誰か、誰か、助けて…っ)
唾液に濡れた牙が目前に迫ったその時だった。
「はいはいはい、オイタは駄目だよー」
「!?」
何処かからやけに呑気な声がしたかと思うと、目の前にいたはずの獣の姿が魔法のように消えていた。
一体何が、と思う矢先、やけに離れた場所から、ギャン! と獣のものと思われる悲鳴があがる。
「危なかったねー、でももう大丈夫だよ」
何が何やらわからずに立ちつくす少女の視界に、ひょいと何者かの顔が飛び込んでくる。
その思いがけない近さにびくりと反射的に身を離すと、その人物── 自分より少し年上の少年だった── は目を丸くした。
「あれっ、ごめん。驚かせ──」
ゴンッ
「──~~ッ!!」
言葉途中で謎の鈍い音がしたかと思えば、赤錆色の髪をしたその少年が後頭部を押さえてしゃがみ込んだ。余程痛かったのだろう、その黒い瞳が涙で潤んでいる。
一体どうしたのかと思っていると、そこに第三者の声が飛んでくる。
「リド、てめえ…、あれ程先走るなって言っただろうが……!」
苛立ちを隠さない男の声。
その声がしたと思うと、目の前の少年の肩がびくっと跳ねた。おそるおそる振りかえるのにつられてそちらに目を向け、少女は息を飲んだ。
(…う、うわ……)
そこにいたのは怒りオーラを背に背負った一人の青年。しかし、少女が息を飲んだのはその怒りに対してではない。
(お、『王子様』だ……!)
表現にすると実に陳腐だが、それが一番しっくりくる表現だった。
金色の髪に、海みたいな青い瞳。すらりと均整のとれた肢体。不機嫌そうな表情というのに、それも絵になる、まさに乙女がイメージする絵に描いたような『王子様』そのものの人物がそこにいた。
鄙びた田舎にはまずいない人種である。思わず見とれていると、『王子様』と目が合った。
「…!!」
じろじろ見ていた自分に気付き、反射的に視線をそらそうとする前に、横にいた少年が口を開く。
「仕方ないでしょ、待ってたらこの子が危なかったんだから」
その言葉で我に返る。そう言えば自分はつい先程死にかけていたのだ。
慌てて周囲を見回すと、随分と離れた所に先程の魔物らしい姿があった。一体何があったのか、ぐったりと地面に転がっている。
(し、死んで……?)
「残念ながら、まだ死んでないよ」
「!」
まるで思考を見透かしたような言葉に、目を戻すと少年が後頭部を擦りながら地面に転がっている何かを拾い上げる所だった。どうやら先程少年の後頭部を直撃したのはそれらしい。
それは── 男が持つにはやけに細身な短剣だった。どちらかと言えば女性の護身用のものに近い。ただ、そこには女性が持つ物とは異なり装飾らしきものは一切ない。
「いくら鞘があるからって、人の頭に刃物を投げるなんてひどいや」
ぶつくさと文句を言いながら短剣を拾い上げた少年に対し、それを見事としか言えないコントロールで投げつけた相手は鼻先で笑った。
「それくらい避けやがれ。魔物相手に遊べるなら余裕のはずだろ。退魔師のくせして情けねえな」
「そういうエミリオこそ、もうちょっと口の悪さを治したら? 一応聖職者なんだしさ」
「うるせえ、一応は余計だ」
ぎゃいぎゃいと言い争いながらも、少年は短剣の鞘を抜きはらい、まるで少女を庇うように前に出る。青年も気がつくとすぐ側に来ていた。
完全に状況に置いて行かれている少女へ、少年は安心させるように微笑んだ。
「もう大丈夫だよ。あれはぼくが片付けるから」
まるで大した事のないように気軽に言い放つ。驚く彼女に、青年がいまさらのように口調を改めて口を開いた。
「心配は無用です。こう見えて、これは魔族の天敵ですから」
とどめとばかりににこりと笑う。── おそらく先程までのガラの悪さを見ていなかったら騙されたであろう、完璧な笑顔だった。
「人を物扱いしないでよ! 大体、この魔物がこんな人里近くまで来たのは、絶対にエミリオのせいだからね」
むっとした様子で少年が噛みつく。
「何だと?」
「自分が魔族に好かれやすい体質なの、いい加減に自覚しなって」
青年はさらに文句をつけようとしたようだったが、会話はそこで途切れた。
目を回していたらしき魔族がのそりと起き上ったからだ。ぞくり、と背中を悪寒が走り、少女は無意識に自分を抱き締めていた。
なんだろう── 先程までとは何だか様子が違うように感じるのは。
一人で対峙していた時も怖かった。けれど今は── まるでもっと怖いものを前にしているような恐怖を感じる。同じはずなのに、まったく違う生き物がそこにいるような。
そんな少女の様子に気付いてか、青年── エミリオという名前らしい── の手が励ますように肩を包む。
「大丈夫。すぐに終わります」
何の根拠もないその言葉と、肩から伝わる温もりに、恐怖が僅かに薄れる。
無意識に向けた視線に、エミリオは微笑み──
「それまで少し、おやすみ」
そんな言葉が聞こえたと思った矢先、少女の意識はぷつりと途切れた。