母と魔王(3)
現場は見事に地形が変わっていた。
その衝撃の大きさを示すように、木々は嵐が過ぎ去った後のようになぎ倒され、大地は大きく陥没している。普通なら生きているどころか、五体満足であるかもわからない状況である。
だから彼等は、落下地点と思われる場所で人らしき姿を見た時はその目を疑い、次に見間違いではないと理解した瞬間、我先にと駆けだしていた。
誰よりも先に走り出したのがリオーニだった事は言うまでもない。
土煙が邪魔し視界がはっきりしない中、その人影が動いた時は彼等は歓声をあげた。
── 生きている!!
これぞまさに神の奇跡だと誰しも思ったが、結局、彼等はその発見を純粋に喜び合う事は出来なかった。
というのも、もうもうと落ち着く気配のない土煙に咳き込みつつ、彼等が落下点に辿り着いた時、彼等が見たのは魔王に馬乗りになって、スパーンとその頬を叩くディスティエルの姿だった。
「……」
「………」
「…………」
後になればなるほど、沈黙が重くなる。
一同、声もかける事が出来ずに立ち尽くした。傍目では年端も行かない少年を折檻しているかのようだが、問題はそこではない。
あれだけの落下でありながら、二人に怪我らしい怪我がないというのもすごいが、まさか魔族の王たる魔王を素手で殴るとは。
見守る彼等の存在に気付いていないのか、ディスティエルはぐっと魔王の胸倉を掴み、未だ収まる様子のない怒りに満ちた表情で一喝した。
「私は親に対して『お前』などと呼ぶような礼儀知らずに育てた覚えはありませんよ!!」
しかも怒鳴りつけた言葉がまた、魔王に対して言う言葉ではない。彼等はただ呆然と目の前のやり取りを見つめる事しか出来なかった。
すでにディスティエルの手にイグラドールの姿はない。落下の直前に大地へ一撃を振るう事で落下の衝撃を和らげた後、その召喚を解いたのだ。
流石に骨の一本や二本は覚悟していたものの、フレイアが何とか踏ん張ってくれたらしい。ディスティエル自身は軽い打ち身程度で済んだ。
魔王に至ってはディスティエルがしっかりと抱え込んでいた事も幸いしてかどうやら無傷のようだ。その事にほっと安堵する。
元々、ディスティエルの目的は魔王を傷つける事ではない。魔王から我が子を取り戻す事こそが目的だ。
たとえ魔王に支配されようと、ディスティエルにとって目の前にいるのは、『エミリオ』という少年でしかない。
血こそ繋がっていなくても、我が子と思って育ててきた以上、立派な大人になるまで育てる事こそ『親』の使命だと信じていたし、まっすぐに育つエミリオの姿を誇らしく感じていたのだ。
だからこの場も、ディスティエルは聖女としてではなく、『母』としての自分を優先した。
基本的に聞き分けの良かったエミリオだけに、今まで殴りつけてまで叱り飛ばした事はない。手を出す必要がなかっただけでなく、血の繋がりがある訳でもない自分にそこまでする権利はないと思っていたからだ。
けれど── ディスティエルはあえてその一線を越えた。
どうしたら魔王からエミリオを取り戻せるのかわからない今、形振りなど構ってはいられない。ただ、自分の声がエミリオに届く事を祈るばかりだった。
対してディスティエルに殴られた魔王は一体何が起こったのかわからないという表情で、ぽかんとディスティエルを見つめている。その頬が早くも赤く腫れつつあるが、気にならないらしい。
何が何やらなのはリオーニ達もだった。うかつに声もかけられず、かと言って目の前にいるのが『魔王』である事を考えると気を抜く事も出来ない。
行動に困っていると、バサバサと羽音を立ててディスティエルからようやく解放されたフレイアが飛んで来る。
「リオーニ~~~~」
反射的に差し伸べた腕に止まった姿は、見る者に憐れさを誘う程にずたぼろだった。
「フレイア…何だか、その、大変だったみたいだな……」
「大変ダッタ、ジャナイワヨ!? モウ二度ト嫌ダカラネ!! メリーノ手伝イスルノ!!」
半泣きで訴えるフレイアをよしよし、と宥めつつ、リオーニは再びディスティエルと魔王に目を戻す。
ディスティエルの説教はまだ続いていた。
「見なさい、この惨状を!! あなた一人の為に、これだけの物が失われたのですよ!!」
びしっと指で指し示す先にある破壊されつくした周囲の様子を眺め、
── いや、これはほとんどあんたの仕業だろう
リオーニ以下、数名は心の中で突っ込んだ。
確かに魔王が法陣の支配から抜け出した後に全力を出していたなら、おそらくこの程度では済まなかったに違いないが、今の時点で魔王による直接的な被害は最初の火柱による穴だけである。
魔王の魔力に法陣が反応して生じた稲妻によって、マリオーゾの街には相応の被害が出ている事が考えられたが、それでも完全に街自体が消滅する可能性があった事を考えれば被害は予想以上に小さいと言える。
伝説の武器の一つ、イグラドールの所持者がとんでもない破壊魔で、通った後には雑草も生えないという噂があった事を今さらながらにぼんやりと思いだす彼等だった。
その事実を知っていたリオーニですら、久々に目の当たりにした破壊っぷりに正直苦笑いしか浮かばない。
そんな呆れの混じった視線を受けてようやく彼等の存在に気付いたのか、それとも彼等の心の声でも読んだのか、ディスティエルがギロリと恐ろしい視線を向け、彼等は思わず身を竦めた。
── そこにいる魔王よりもよっぽど恐ろしい。
当の魔王はまだぼんやりとしていた。衝撃のショックか、それとも先程法陣を破壊した事で虚脱状態になっているのか。
早くも赤く腫れた先程叩かれた頬(この辺は親切にも、切りつけた側とは逆の頬だった)を押さえ、その大きな瞳を眦を釣り上げるディスティエルに向けている。
それを良い事に、ディスティエルは掴んだ胸倉を引き寄せ、顔を近付ける。真っ直ぐにその目を見つめ、ドスの効いた迫力満点の声で言った。
「こんな時にどうしたらいいか、私はすでにあなたに教えているはずですね?」
── 十年前に立ち寄った辺境の村で倒した魔族が抱えていた赤子。
成り行きで育てる事になり、何とかなるだろうと自分に言い聞かせたが、自信などこれっぽっちもなかった。
ディスティエルに、母の記憶はない。あるのはろくでもない父との弱肉強食な日々ばかり。母の愛情を知らない己に、子供など本当に育てられるのかと思ったものだ。
聖女になりたいと願い、魔族を屠る退魔師を嫌い、父の元を離れ入った総本山で、ディスティエルは孤独だった。
人との関わり方を知らず、本音と建前の使い分けなどしない彼女はとかく無駄に敵を作りやすかったのだ。
リオーニと出会い、少しはそうした事も改善されたが、最初に出来た偏見はなかなか消える事はなかった。果たして心から笑った事など、一体幾度あっただろう。
そんな自分が自然に笑えるようになったのは──。
(エミリオ、帰って来なさい)
ひょっとしたら無駄かもしれない。それでもディスティエルは言葉を重ねる。
「さあ、エミリオ」
(私達は── 血が繋がらなくとも、『家族』のようなものだった。そうでしょう?)
そんな彼女の言葉をリオーニ達も固唾を飲んで見守る。ディスティエルがどんな気持ちなのか、彼等なりに察した為だ。
だが──。
「『ごめんなさい』は?」
── 魔王にそれを言うか!?
再び心の中で盛大に突っ込んだ彼等だった。まるで幼児に対するような態度なのが余計に理解に苦しむ。
おそらく、『エミリオ』ならば子供扱いするなと憤慨した事だろう。しかし、魔王はその言葉に対して怒り狂ったりはしなかった。
沈黙する事、しばし。
やがてその口から、驚くべき言葉が零れ落ちたのだった。
「…ごめんなさい……」
「!!??」
驚いたのはリオーニ達だけではなかった。
それはまるでディスティエルの迫力に負けてのもののようだったが、紛う事ない謝罪の言葉。
憑き物が落ちたような顔で目を丸くしたディスティエルは、たっぷり数秒は黙り込み── やがて震える声で尋ねた。
「…エミリオ?」
「……」
魔王はその問いかけには答えなかった。正確には答える事が出来なかった、とも言う。
そのまま魔王は幾度か瞬きをしたかと思うと、突然力尽きたように意識を失い、パタリと倒れてしまったからだ。
慌ててその身体を抱き上げたディスティエルと、ようやく近寄る事が出来たリオーニ達が何度も呼びかけるが、その目が開く事はなく。
しかし、脈は正常で呼吸も落ち着いている事もあり、最悪の事態は避けられたと彼等は結論付けた。
意識を手放したエミリオをリオーニが背負い、ひとまずその場から運び出す事になった。傷ついた右頬を布で拭いながら、普段の調子に戻ったディスティエルはほっとした顔でぽつりと呟く。
「…お帰りなさい、エミリオ」
それは時と場合によっては非常に感動的な言葉ではあったものの、周囲の崩壊と先程までの様子を見てしまっては感動もへったくれもない。
だが少々過激なこれもいわゆる母の愛が為した奇跡なのだろう、と彼等の後ろに続く人々は苦笑いを交わし、やれやれと肩を竦めた。