母と魔王(2)
『…ヤバッ、退避スルワヨ! 流石ニコレハ無理!! 魔王ハコノ法陣ヲ力尽クデ破壊スル心算ダワ…!!』
ディスティエルの背で、フレイアが悲鳴をあげる。
これだけの規模の法陣である。しかも相手は魔王。その許容限界を超えた時、魔力と相殺し合った反動によって周辺にどれ程の余波を与えるかわかったものではない。
少なくとも世界地図上から『マリオーゾ』という名の町が消え去るのは確実だろう。否、それだけで済むかどうか──。
半ば本能的にその場を退避しようとしたその時、フレイアは何かがプツンと切れるような音を聞いた気がした。同時に嫌な予感が走る。
(…マ、マサカ……)
今すぐにでもこの場を離れたい、そんな焦りを感じていると、地獄の底から聞こえてきそうな声が極至近距離で紡がれた。
「──『お前』、ですって……?」
それは正に一触即発の危うい空気が漂う呟き。それを耳にしたフレイアは、慌ててディスティエルを制する。
『メ、メメメ、メリー! 落チ着イテ!! コンナ不安定ナ所デソンナノ使ッチャ駄目ー!!』
しかし何かが切れてしまったディスティエルに、彼女の悲痛の叫びは届かなかった。
「育てのとは言え、仮にも親に対しその言い草は何ですか── ッ!!!」
怒号と共に、銀の一閃。
それは風の刃となり、瞬時に魔王の頭の横を恐ろしい速さで通り抜けた。
「……ッ」
ぴりっとした痛みに魔王が反射的に頬へ手を伸ばすと、指先に赤い色がついた。
次いで何処か遠くで、派手な水しぶきが上がる音。今の一撃はマリオーゾを遥かに超えて、エンテ海にまで届いたらしい。
「フレイア! 魔王の元へ行きなさい!!」
怒り心頭と言わんばかりの勢いでディスティエルが命じる。
『冗談ジャナイワ!? 無茶言ワナイデ!!』
「フレイアッ!!」
いつもの冷静さは何処へやら、形相すらも変わっているディスティエルに、だからこの女は苦手なのよ、とフレイアは心の中で泣き言を漏らした。
かつてリオーニが指導教官としてディスティエルについていた頃、数度その補助として組んだ事があるのだが、その頃からリオーニ以上に鳥使いが荒かったのだ。
流石に年齢に応じて少しは落ち着いたかと思えば、本質的な部分は変わっていないらしい。
その気になれば無理矢理にでもここを離れる事が出来るが、その事で自棄になった彼女が無差別に攻撃を飛ばし始めたらどうなる事か。
風圧だけでもあれだけの破壊力があるのだ。マリオーゾ周辺に控えてこちらに向かってくる魔族に対応している、リオーニ以下の聖職者達にまで被害が出かねない。
── 怒りに我を忘れても、そうした事は無意識の内にちゃんと認識していて、こちらがおいそれと断れないとわかった上で無茶を言うのだから性質が悪い。
今の一撃で逆鱗に触れたのか、こちらを見る魔王の目が据わっていた。
先程切れた右頬から滴る血とその目だけで、あの無邪気だった顔が凶悪に見えるのだから不思議なものだ。
バチバチと一層激しくなる稲妻で、法陣の力が目に見えて減ってゆくのがわかる。これが消えてしまったら、恐らくもう機会はない。
『…モウッ、ワカッタワヨ! ヤレバイインデショ、ヤレバー!!!』
そして、フレイアも自棄になった。立ち向かうにしても、逃げるにしても時間がない。行動を起こすなら今しかなかった。
使える力を全て使い、魔王に向かって飛ぶ。
イグラドールを構えたディスティエルの意図が何処にあるかはわからないが、その命が狙いでない事を祈るしかない。
襲いかかる稲妻を弾き返しながら、フレイアは飛ぶ。ダメージこそないが、ディスティエルをその衝撃から守る為に、その動きは速いとは言いがたいものだった。
だがその稲妻の嵐へ再び銀の光が走る。元々、この世界に属しない死神の鎌は荒れ狂う稲妻を切り裂き、道を切り開いた。
── 来る。
魔王は迫り来る刃から逃れる為、持てる魔力を可能な限り放出した。
その分、戻って来る衝撃は今までの非ではないが、この厄介なものから自由にならなければ、死神の鎌が襲ってくる。
「…う、あああああああっ!!!」
今まで以上の力が魔王周辺に放たれる。相殺によって生じる稲妻は先程の比ではない。フレイアでもその全てを避ける事は不可能だ。
その穴をかいくぐって遅い来る衝撃を、ディスティエルのイグラドールが切り裂く。
魔王まであと僅か、という距離で魔力の放出が止まった。
先程の放出は丁度、法陣の力を相殺するだけの強さを秘めていたらしい。ふつっ、と糸が切れるように、光が消え失せる。法陣が無効化してしまったのだ。
(間ニ合ウカ!?)
同時に翼にかかる負荷がなくなり、フレイアは一気に速度を上げた。
魔王はすぐには動けないのか、荒い呼吸をつきながらその場に留まっている。
今のでかなりの力を消耗したはずだが、相手は魔王だ。拘束がなくなった今、その力を妨げるものはない。
フレイアとディスティエルは、そのまま魔王の身体に体当たりするような勢いで風を裂いて突っ込んで行く。
その接近を察知してか、魔王が俯いていた顔をこちらに向ける。光が消えた為、その表情は見えないが、避けようとする素振りは見て取れた。
「フレイア、このまま!!」
『ハイハイハイ、ワカッタワヨッ!!』
考えている余裕はない。このまま逃げられる訳には行かない事はフレイアも理解している。
このまま突っ込めという指示に従い、フレイアは更に速度を増した。まるで赤い矢のように、彼女達は魔王に突き進む。
── そして。
「!?」
攻撃をしてくるかと身構えた魔王の意表を突いて、ディスティエルはその小さな身体を片腕で横抱きにするように捕まえた。
てっきりイグラドールで攻撃するとばかり思っていたフレイアもこれには驚いたが、そのまま速度を維持する。
「離せ……!!」
当然、捕まったままでいる魔王ではない。怒りに満ちた形相で、ディスティエルを払い落とそうとする。
「離すものですか!!」
対するディスティエルも負けずに腕に力をこめた。暴れる子供一人押さえつけられずに、子育てなど出来るものかとばかりにがっしりと腰を抱え込む。
先程魔力を消耗しすぎたのか、それとも本来の肉体能力は変わらないのか。魔王の抵抗は年相応の子供のものと大差がない。
だが暴れる子供を押さえつけるには、場所が悪すぎた。足場のない空中という不安定な場所で、人二人(しかも片方は暴れている)を支えるのは流石のフレイアも至難の業だった。
『モ、モウ、無理ィイイイイ…!!!』
フレイアが絶叫し、その翼が安定を欠く。
結果として魔王とディスティエル、そしてフレイアは、そのままもみ合う形で地面へと落下する。
ドオオオオオオン……!!!!
落下の瞬間、激しい地響きと土煙が生じ、マリオーゾの外で成り行きを見守っていた人々は思わず顔を見合わせ、次いでさあっと青褪める。
今の音と衝撃では、普通なら生きていられるとは思えない。
リオーニですらも、あまりの事に言葉も出なかった。先程ディスティエルがイグラドールで攻撃を仕掛けた時も肝が冷えたが、今のはその時の比ではない。
「リ、リオーニ総統……」
おそるおそるといった様子で、側にいた青年が硬直したリオーニに声をかける。
その声にはっと我に返ると、リオーニはすぐさまその場にいる者たちに指示を出し、数名を伴って二名と一羽が落下した地点へと向かった。
落下地点は彼等のいる場所の街を挟んで正反対。法陣が機能した事で街自体にどれだけ影響が出たかわからない以上、迂回して行くしかない。
(生きてろよ…チビ、メリー)
元々生物ではないフレイアは無事だろうが、その二人に関しては楽観的には考えられない。場合によっては最悪の事態も有り得る。
落下地点へと急ぎながら、今の彼に出来るのは彼等の無事を祈る事だけだった。