母と魔王(1)
マリオーゾ上空で、魔王は不愉快になっていた。
地上から伸びる、白い光。全身に糸のように絡みつくそれが、身体の自由を奪っている。力任せに引き千切ろうとすれば、反発を起こすように青黒い稲妻が生じ、身体を痺れさせた。
── 鬱陶しい。
その煩わしさに顔を顰め、魔王は考えた。
どうしたらこれから自由になれるのか。無理に外すのを止め、改めてその糸の源を見る。
大地に描かれた巨大な法陣。どうやらこれは魔力そのものに反応する法陣らしい。試しに指先に魔力を放出してみると、たちまち稲妻が生じて相殺した。
魔力の発生源を感知し、相殺という形で魔力を無効化する── 魔力が生命力とも言い換えられる魔族にはひとたまりもないだろう。
魔族の王であるが魔族そのものではなく、通常の魔族など足元にも及ばない魔力を有する『魔王』だからこそ拘束程度で済んでいるのだ。
という事は、ここにある力を飽和させる程の魔力を出せばどうだろう。
規模こそ大きいが、所詮は人が作りあげたもの。こめられた力にも限りがあるはず。しかし、それは不可能な事ではないものの、無駄に疲労する事になりそうだ。
次に周囲を見る。この法陣を有効にしているのは、一見雑然としていて、実は規則的に描かれていた道だ。ではその道を崩してみたらどうだろう?
それなら魔力を無駄に使う必要はない。先程までいた地下水路にあった水。あれを操って水路自体を壊せば、その上にある建物や道は崩壊する。
これだけの規模の術ともなると、むしろそうしたものの方が効果が大きい事もある。魔王は誰からも教えられずに、その事を知っていた。
── そうしよう。
早速実行に移そうと魔王が地下に意識を向けた時、地上から何かが自分に向かって来るのを感じ取る。何だとそちらに目を向けると、何か赤いものが視界に入った。
翼だ。鮮やかな赤い翼が、力強く羽ばたきながらこちらにやって来る。
だが、それは鳥にしては変な形をしていた。遠目で見ると鳥よりは虫の方が近い。翼に対し、身体に当たる部分が細長く色も黒かった。
それは瞬く間に距離を詰め、やがてそれが背に巨大な翼を生やした人間である事が判明する。
「…エミリオ……!!」
やがて届いた声は、何故かよく知っているような気がして── 同時にその声の主に関わってはいけないような危機感を感じた。
「エミリオ、目を覚ましなさい!!」
おそらく普通の人間ならばとっくに目が眩んでいる超高度にありながら、声の主── ディスティエルは恐れなど欠片も抱いていない様子で距離を詰めてくる。
余程肝が据わっているか、単にその高さに意識が行っていないかどちらかだろう。
そのどちらでも魔王には無関係な事だが、向かって来るその相手に対し、関わりたくない── そう思うのは何故だろう。
相手は見る限り普通の人間だ。こちらが本気になれば、一瞬で消し飛んでしまうような弱い存在なのに。
「エミリオ!!」
「…うるさい……ッ」
初めて聞くはずの女の声は、魔王の心に何故か波紋を広げる。ただでさえこの絡みつく光の糸でイライラしているのに。
聞きたくない。その声は、『何か』を呼び起こす。奥底に閉じ込めたはずのそれが、目を覚ます気配がする。それは自分にとって不要な部分で、このまま消えるはずの部分だった。
冗談ではない。自分は『魔王』だ。他の何者にも支配される事は許されない── たとえ、それが自分の一部であっても。
それ以前に、自分は『エミリオ』などではない──!!
「邪魔を、するなああああッ!!!」
「!!」
力任せに腕をなぎ払った。その手から不可視の魔力が刃のように放たれる。
すかさず放出された魔力に反応して発生した稲妻が、魔王のみならず側にいたディスティエルにも向かって走った!
バシュンッ!
何かが蒸発するような激しい音と共に、眩しい光が放たれる。
魔王すらも余波で腕が痺れるほどの衝撃である。生身の人間ならばひとたまりもない。…そのはずだった。
「!」
しかし光が収まったそこに、まだ彼女の姿はあった。流石の魔王も軽く目を見張る。
「── 助かりました、フレイア」
『仕方ナイデショ! アタシマデ消エル所ダッタシ、ツイデヨツイデ!! ソレニ…頼マレチャッタシネ』
驚く魔王の前で、ディスティエルが礼を述べた。鳥の姿を取っていない為、直接的な声ではなかったが、フレイアがいかにも仕方がなくとばかりに憎まれ口を叩く。
先程の光は、フレイアがいかなる手段でか稲妻を消滅させた際に生じたものだったらしい。
今はディスティエルの背にあり、彼女に飛行能力を与えているが、そもそもはその為の存在ではない。
時として武器に、時として盾に── 時期に応じてその形態を変える生きた武具なのだ。もっともその事を知る者は教会に属する者でもごく少数しか存在しないのだが。
「わかっていますよ。しかし…どうやら少し荒療治の必要がありそうですね……」
出来る事ならば、彼の身体に傷をつけたり苦痛を与えたりするような事は避けたかったのだけれども。そして何より、エミリオをこの手で育てる事を決めてから、自分は二度とあれを手にしないと心に誓ったのだ。
だが、最初から語りかける程度で『エミリオ』が戻るとは思ってはいない。長い年月をかけて作りあげられたこの法陣の効力も、魔王相手ではあと僅かももたないだろう。
── 手段を選んでいられる余裕はない。
ディスティエルは心を鬼にすると、その手を組み精神を集中させた。…そして。
「── 我は汝を召喚す」
およそ十年ぶりに口にしたその言葉に、周囲の空気がピンと張りつめた。
「我が名はメリッサ。汝と契約を結びし主なり。来たれ、死神の使徒…『イグラドール』!」
「……!!」
ぞわり、と背筋を戦慄が走り抜け、魔王はそんな感覚を覚えた自分に驚いた。今のは何だろう。もしや『恐怖』だろうか?
── まさか。
この自分がそんな感情を抱くなんて有り得ない。
浮かんだ疑問を自分で否定し、目の前に浮かぶ聖女に改めて目を向けると、ディスティエルの手には、先程までは確かになかったものがいつの間にか握られていた。
全体の色彩は灰色に近い鈍い銀。微かに纏う光は、今自分を絡め取っている光と同質のもの。すなわち、魔力を無効化する力を持つ事を示していた。
一見杖のようにも見えたが、細長く伸びた先には杖にはないものが冷たい輝きを放って存在している。
それは刃。緩やかな弧を描き、先が鋭く尖ったその姿は、明らかに鎌と呼べるもの。
繊細な細工が施されているので殺伐とした雰囲気はないが、魔王の目には禍々しく見えた。彼にはそれが何か本能的にわかったのだ。
それは── 『闇』を刈り取る為の武器。
「…魔王よ、警告です。今すぐ、その身体を解放しなさい」
かつて数多くの魔族を屠った『死神の鎌』を構え、ディスティエルは魔王へ厳かに告げた。
+ + +
『チョ、チョット! ソンナ物騒ナ物出シテドウスルツモリ!?』
背後からフレイアが声なき声で慌てる。
『イクラ何デモ、ソンナノデ攻撃シタラ…チビガ無傷デ済ム訳ナイジャナイ!!』
イグラドールは意志を持ち変幻自在のフレイアと違い、通常の武器でもある。魔族に特に有効ではあるが、人ですら傷つけられる威力を秘めていた。
しかし、鎌を構えたディスティエルの返答は落ち着き払ったものだった。
「…口で言って聞いてくれる状態だとでも?」
『ダカラッテ……!』
「私とてエミリオを傷つけたい訳じゃありません」
言いながら久々に握った得物の具合を確かめるように、二三度振り回す。
随分久し振りだというのに、それはまるで身体の一部のように動いた。ヒュンッ、と鋭く空を切る音は、昔と一つも変わらない。
二度と振るわないと誓ったはずのこれ── イグラドールを出したのは、これが魔族にとって脅威になるとわかっての事だ。
実際、イグラドール召喚した途端、魔王の表情が幾分強張ったものになっていた。本人にその自覚があるのかまではわからないが、拒否反応のようなものを抱いているのは明らかだ。
── エミリオと同じ顔でそのような表情は見たくなかったが、仕方がない。今、己の前にいるのは、闇の王たる魔王なのだから。甘く見ればこちらの命がない。
「…さあ、魔王。あなたが真の闇の王ならば、これがどのようなものかわかるはず。そこに囚われている状態で、この切っ先から逃れられはしないでしょう。…あなたを狩るつもりはありません。ただ、今あなたが支配しているその子を返して欲しいだけです」
そうすれば何もしない── 言外に訴える言葉に、魔王はどうしたものかと考えた。
確かに分はこちらが悪い。
あれを受けた所で魔族ではない自分が消滅する事はないが、それでも傷くらいは負うだろう。深手を負えば少々厄介な事になるに違いない。
まだ成長しきっていない上に、目覚めたばかりのこの器はおそらくとても脆い。だが、だからと言ってその要求を飲めるかと言えばまた別問題だった。
何しろ返せと言われても、この身体は元々自分の物だ。他の誰かの身体ではないのだから。
「…これは、オレの物だ……」
ディスティエルの要求は、半ば『死ね』と言っているようなものだ。
今の魔王に『エミリオ』だった時の意識も記憶もない。
自分が『魔王』と呼ばれるものであるという認識しかないそんな彼に、ディスティエルが何を望んでいるのかわかるはずもなかった。
「何故、お前などに渡さなくてはならない……!!」
「!!」
理不尽さに魔王がその怒りを露にすると、放出された魔力に周囲の光が反応し、たちまちその場は先程までの比ではない青黒い稲妻に支配された。