エミリオ少年の受難(3)
ざわざわと不特定多数の声がする。
声を抑えているせいか交わしている言葉は不明瞭だが、そこに篭っている『熱』は伝わって来る。
(…ええと……?)
何だろう、妙に頭がすっきりしない。というか、妙に後頭部が痛いような。
(痛いって…何で……)
二日酔いは治ったはずだ。それ以前に、二日酔いの頭痛はこういう痛みではなかった気がする。
もっと、こう…ぐわんぐわんと響くような感じで、今のような殴られたようなものでは──。
(── …殴られた?)
その瞬間、一気に意識がはっきりとした。
同時に開いた目の前に見えたのは、所々に苔らしきものが見える何処かカビ臭い石畳。
(何処だ、ここ──!?)
慌てて起き上がろうとするものの、それは叶わなかった。両手が使えない。どうやら、後ろでロープのようなもので縛られているらしい。
「な、んだよ…これ……っ」
混乱しつつも、必死に記憶を辿る。確かいつも通り、町へ買出しに出たはずだ。
ディスティエルが今夜は自分の好物である雛鳥のパイ包みを作ってくれるというので、それに必要な香草と雛鳥の肉を買って来ようと、バザールに向かったまでは覚えている。
時折、顔見知りと挨拶を交わしながら道を歩いて…そうだ、もう少しでバザールという地点の角を曲がった時に、いきなり後ろから誰かに羽交い絞めにされて──。
そこまで思い出した時、エミリオが目を覚ました事に気付いたのか、周囲のざわめきが小さなどよめきに変わった。
「おお、お目覚めになられたぞ!」
「まったく、いくらお暴れになったからって、いきなり殴る事ないじゃないのさ」
「そうだとも、そうだとも。大事な玉体にもしもの事があったら、一体どうするつもりだったのだ」
「このまま目が覚めなかったら、大変な事になっておったわ」
「む…? それで王を殴った者はどうした?」
「『オレは何という無礼な事を!』と今にも自害しそうだったんでな。仕方がないから石化の呪いをかけて…ホレ、そこに」
「ああ、妙な石像がいつの間にか出来ていると思ったら……。しかし、それは止め方しては何か違う気がするんだが」
「仕方なかろう。今は無駄に戦力を減らす訳には行かん」
── などなど。口々に何やら言っているが、ぼそぼそとした呟きがほとんどでエミリオには理解不能だった。
聞こえてきた言葉の断片から判断するに、どうやら自分が暴れたので、強行手段で殴ったら意識を失った、という事のようだが。
落ち着いて動けないなりに周囲を見回してみると、随分と暗くじめじめした所だった。微かに潮の臭いがするという事は、海辺に近い倉庫か何かだろうか。
火の気がないせいで、周囲にいるらしい人々の姿も影のようにしか見えない。
だが、その影の奇妙な歪さと、自分を拉致っているという事実でその正体は知れた。この十日ばかり自分に付きまとっていた、あの謎の宗教団体だろう。
(…ついに実力行使、ってか?)
思い返せば、確かに初対面時に彼等は有無を言わさず何処かに連れて行こうとしていた。その後は付きまといこそすれ、実力行使をするような事もなかったので忘れていたけれども。
やっと諦めたかと思ったのに、よもや誘拐までやらかしてくれるとは。おそらく、昨日の謎の女性は彼等の仲間だったのだ。
一体、彼等が何故自分にそこまで執着するのかわからないが、これで彼等は『変質者』から『犯罪者』へレベルアップだ。
ばかな事したなあ、などとエミリオが呆れていると、影の一つが床に転がっているエミリオの方へ歩み寄ってきた。
「我等の同胞が乱暴な手段を使いまして申し訳ございません」
暗い上に地面に半ばうつ伏せの状態では、相手がどんな人物かはわからない。だが、聞こえてきた声は予想に反して、意外に紳士的だった。
「ご気分はいかがですか?」
「……最悪」
心配そうに尋ねられて、どう答えるべきかしばし悩んだものの正直に答えると、どよっとどよめきが周囲に走った。
「最悪ですと!?」
「何と言う事だ……!」
「手加減しないからだわ!! どうするのよ!?」
殴られたと思しき後頭部はズキズキするし(きっとこぶになっているに違いない)、後ろで縛られた手首も少し痛い。
石畳に寝かされたせいでか、単に不自然な体勢だからか、身体がギシギシ言っているし、何より胃が空腹を訴えていた。
それらを総合しての『最悪』だったのだが、何だか違う方向に誤解されているような。だが、わざわざそれを修正してやる程、親切な気持ちにはなれそうになかった。
「…何が目的なんだよ。身代金を払う余裕なんて、うちにはないぞ」
言われた時は結構悲しかったものだが、この間ディスティエルが言っていた事は紛れもない事実だった。
生活費などは教会側から支給されるが、質素倹約を旨とする為、その額は必要最小限なものだ。
金額的にはまとまった額のように見えるが、その大部分が聖所の維持費に消える。
特にこのマリオーゾの聖所は、元々歴史ある古いものだった上に、リオーニ一人の時代にこれ以上とないレベルで荒れた事もあり、他の場所よりも消える金額は多いのだ。
…もしかすると聖父と聖女が一人ずつというのは、考えたくない事だが教会側の経費削減策の一環である可能性すらある。
しかも、リオーニ曰く『ケチで融通のきかない』教会の経理担当者は、教会に所属するリオーニとディスティエルの分しか出してくれない為、教会に属さない上に育ち盛りのエミリオがいる分、彼等は結構切り詰めた生活をしているのだった。
「身代金……?」
しかし、てっきり金目当てかと思っていたが、返って来た言葉は予想外の言葉を聞いたような、不思議そうなものだった。
「身代金など、要求するつもりはございませんよ。王。それではまるで、誘拐犯ではありませんか」
「とんでもない。我等をその辺の犯罪者と一緒にされては困りますぞ」
「そうよそうよ!」
「……はい?」
やがて大真面目に返って来た言葉達に、エミリオは床に転がりつつ首を傾けるという器用な事をする羽目になった。
彼等の言い分が嘘偽りないものだと仮定すると、この状況は誘拐ではないらしい。
では、今の拉致監禁状態は一体何だというのだろう。エミリオの語彙の中には、それに適する表現が見当たらなかった。
「誘拐じゃないんだったら、縛る必要なんてないはずじゃないか」
騙されるもんか、と言い返すと周囲はおろおろと動揺した。
「そ、それは……!」
「ようやくこちらに来て頂けたのに、逃げられたら…なあ?」
「つい、なあ」
「早く解くのだ!」
「申し訳ありません……!」
そして我が我がと人が押し寄せてくる。
どうやら縛ったロープを解いてくれるつもりらしいが、一斉に来られてはどうしようもない。というか、そのまま押し潰されそうで怖い。
「わわわ、こ、このままでいいから! こっち来んな!!」
圧死しそうな恐怖から叫ぶと、彼等は面白いようにピタっと動きを止めた。
状況が状況でなければ、鈍いエミリオもその反応で彼等の目的が自分自身だと気付いたかもしれないが、彼はまだその現実に気付いていなかった。
「…ゆ、誘拐じゃないなら、どうしてオレをこんな所に連れて来たんだよ!」
虚勢を張って、あえて強気の発言をする。
誘拐犯なら下手に刺激をしてはならない気もするが、そうでもしなければ自分が保てそうになかった。
「…て言うか、何処だよ。ここは」
そう言えばというつもりで、ぼそりと呟くと、先程の質問よりも先にそちらに答えが返って来た。
「マリオーゾの地下です」
「…地下?」
それで暗いのかと納得するものの、それはそれで疑問は増えた。
マリオーゾの地下に、このような人が集まれそうな程に広い場所があるなど聞いた事もない。
その疑問を汲み取ったのか、先程の紳士的な人物が親切にも解説してくれる。
「ここは千年以上前に存在した、ある王国によって作られた地下水路です」
「千年…以上前? カレーズ??」
「地上にあった建造物は全て焼き払われてしまいましたが、このカレーズだけは残ったのですよ。この街はその後に人間によって築かれた街です。歴史に残っていない以上、ここの人間は存在すら気付いておらんでしょうな」
何処か誇らしげに語られる内容は、少々エミリオの理解を超えるものだった。
言われてみると、確かに遠くで水が流れるような音がするので、水路という事はわかるが、これが千年以上前のものだと言われても、あまりに壮大過ぎてその重みがよくわからない。
だが、取り合えずここがマリオーゾの中で、何処か知らない場所ではないのは確かだ。ほんの少しだけほっとする。
事態は何も変わっていない気がするが、五歳の時にここへ来てからというもの、町の外へ出た事がないのだ。地下であろうと、マリオーゾであるだけで心強かった。
…だが。
その後に続いた、くつくつと楽しげに笑いながらの男の言葉に、エミリオは凍りつく事になった。
「もっとも、この町も今日限りで地上から消える事になりますがね」
「…!?」
ぎょっと目を見開き、苦労して首を持ち上げ目の前の人物を見る。
闇の中に浮かび上がる奇形の影。その姿に、エミリオは初めて恐怖した。