エミリオ少年の受難(1)
昨晩、酒瓶を抱えた人々に追いかけられるという、何とも微妙な悪夢を見たエミリオは、いつもより早く目を覚ました。
まだ日の出の鐘も鳴らされていないが、寝直す程ではない。エミリオはすっきりしない気分を振り切るようにぶるぶるっと頭を振ると、寝台から降りた。
「おはよう。ディス、おっちゃ……あれ?」
身支度を整え、洗顔を済ませるとエミリオは階下に降りた。そのままいつものように食堂に向かい、まだ火の気のない厨房の様子に首を傾げた。
もうとっくに起き出していると思っていた二人の姿がない。珍しい事もあるものだと思いつつ、取り合えずかまどに火を入れる。寝ぼけ眼のまま湯を沸かしていると、背後の扉が開く音がした。
「あ、おはよ…う?」
「おお、どうした? 今日は早いな、チビ」
振り向きかけた体勢で、軽く驚いた顔をしたエミリオに笑いかけるのは、確かにリオーニだったのだが。
「…何、その格好」
彼が身に着けていたのは、いつもの白い聖父の正装ではなかった。
全体的な色彩は黒。部分部分に白い縫い取りがある、少しくたびれた感じのある服だ。
良く言えば見た目よりも動きやすさを重要視した、悪く言えばどう見ても聖職者に見えない衣服は、聖父の服よりもずっとリオーニには似合っていた。
心なしかリオーニ自身も上機嫌に見える。今にも鼻歌でも歌いそうな様子で、エミリオに感想を尋ねてきた。
「ふふん、どうだ? 似合うだろ?」
「うん。どうしたんだよ、おっちゃん。その格好…ついに聖父をクビになったの?」
正直に思った事をそのまま口にすると、たちまちリオーニの顔に凶悪な笑みが浮かんだ。そのまま拳骨で左右から頭をぐりぐりとされ、エミリオは朝っぱらから悲鳴を上げる羽目になった。
「イタタタタ! 痛いって、イテー!!」
「…テメエ、言っていい事と悪い事の区別もつかんのか? ん?」
「ご、ごめんってば! だってさあ……!!」
「── 朝っぱらから、何を騒いでいるんですか」
やがてその場の空気を冷やす声が間に入る事で、ようやくエミリオは解放された。
「お、おはよう…ディス」
「おはようございます。…今日は随分と早起きですね、エミリオ」
「う、うん…ちょっとさ、夢見が悪くて」
涙目で答えつつ、念の為にさりげなくディスティエルの姿も頭から足先まで観察する。こちらはいつも通り、似合うとは言いがたい白い聖女の服だ。その姿に何故かほっとする。
ディスティエルまでもリオーニのように普段と違う格好をしていたらどうしよう、と思ったが、それは杞憂に終わったようだ。
何故かと問われると非常に答えに困るが、この二人が揃って普段と違う事をし始めるのは、何だかいろんな意味でよくない事の前兆のような気がしたのだ。
「……。おはようございます、リオーニ聖父」
「おう、おはよう。今日もいい天気だな」
そんなエミリオの心の内を知ってか知らずか、ディスティエルは朝の挨拶をしながら、まじまじと黒い服装のリオーニを見つめ── やがて呆れたような顔をして吐息をついた。
しかし、意外な事にその事に対しては特に何も言わず。
(な、なんで!? なんでそこで何も言わないんだよ、ディス!?)
『聖父の身で、何故そんな格好をしているのですか? 服装の乱れは心の乱れ。仮にも聖職者でありながら、そのような乱れた服装でいいと思っているのですか!』
── などと、いつもならディスティエルがそんな風に一言物申すはずだ。
何しろ、今のリオーニの姿は聖父らしい清潔さの欠片もなければ、腕まくりはしているわ、襟元も寛いでいるわと見事なまでに着崩しまくったものなのだ。
そんな有様なのに、あのディスティエルが一言も小言が飛ばさないなんて──。
(…て、天変地異の前触れ……?)
思わずそんな失礼甚だしい事を考えてしまう程、それは意外としか言えない出来事だった。
二言三言軽い会話を交わすとすぐにそのまま何事もなかったかのように、鐘楼あるいは聖所の門へと、それぞれの朝一番の仕事をしに行ってしまった二人を見送る形で、その場にはエミリオただ一人だけが取り残される。
しゅんしゅんとお湯が沸く音に気付いて薬缶は下ろしたものの、エミリオは朝っぱらからしばらく困惑する羽目に陥ったのだった。
+ + +
いつもと違う事は他にもあった。
信者達が帰っていった後、軽い朝食を摂ると、いつもはあまりこの聖所から出歩く事のないリオーニが出かけたのだ。
特に手荷物もなく、時期的にも数月に一度ある教会関係者の会合ではないのは確かだった。第一、相変わらず服装が聖父のそれではない。
聖所の中でならともかく、外出時ならなおさら口うるさく身なりを注意するディスティエルは、やはりここでも呆れた顔はしながらも何も言わなかった。
(…何なんだろう……。絶対、変だよ)
そうは思うのだが、朝は気付かなかったある事に気付き、服装については何とか納得出来る答えを見出す事が出来た。
リオーニの首の後ろ辺り、立てた襟に白い刺繍を見つけたのだ。
大きなものではなかった上に、リオーニが長身の為、椅子に座った姿を見るまで気付かなかったのだが、十字に曲線を組み合わせた左右非対称のそれは、明らかに聖主教会のシンボルマークだった。
見た目的にはそのようには見えないが、その服装もまた私服ではなく教会関係者の身に着けるものなのだろうと見当付ける。だから、ディスティエルも何も言わなかったに違いない。
実際の所は直接尋ねてみなければわからないが、動きやすそうな所を見るに、作業着のようなものなのかもしれない。
何しろ、聖父や聖女の正装は、重いわ嵩張るわで、動きやすさにおいては非常に劣る部類に入る。
そもそも、聖父や聖女が動き回るような事自体、そうあるものではないので、そんな服装を日常的に身に着けても問題がないのだ。
まだマリオーゾに来る以前、ディスティエルと共に各地を旅している時に、いくつかの聖所の世話になった。
幼い頃だったのでうっすらとしか記憶に残っていないが、確か余程辺境でない限り、何処も聖父(女性の場合は聖母)一人に対し、補佐となる聖父見習いや聖女が数名いたように思う。
決して少ないとは言えない日常の細かな仕事を捌くには、それだけの人数が必要なのだろう。
イオス大陸でも有数の港町であるマリオーゾの聖所は他と比べれば大きい。何か理由があるのかもしれないが、その規模に対し、聖父と聖女が一人ずつしかいない事がおかしいのだ。
逆にそれだけしかいないのに、あの動きにくそうな正装のままで、さまざまな仕事を支障なくこなして行く二人(特にディスティエル)が、一般と比べて尋常ではない。
そんな事をつらつら考えながら、やはり正装のまま、てきぱきと洗い物をするディスティエルを覗き見る。
しばし聞くべきかどうか悩んだが、すっきりしないのはどうにも気持ち悪い。結局我慢できずに尋ねる事にした。
「…ディス、おっちゃんは何処に行ったんだ?」
「リオーニ聖父、でしょう。…変な所で似ているのですね、二人とも」
呆れ果てたため息をつきながら訂正を入れると、洗い物の手を休めてディスティエルは知りませんよ、とあっさり答えた。
「え、知らないって……」
聖父の留守を預かる聖女がそんないい加減で良いのだろうか。
それ以前に、何事にもきっちりしているディスティエルが、リオーニの行く先を聞いていない事が何より不思議だ。
その疑問が顔に出ていたのだろう。ディスティエルは更に口を開いた。
「リオーニ聖父が何処に行ったかなど、いちいち詮索する事でもありません。日没までには戻って来るでしょうし、そうでないのなら一言、こちらに言ってゆかれるはずですから」
「それはそうだけど……。今日はいつもと違う服着てたし」
「ああ……。それが気になっていたんですか」
軽く眉を持ち上げて、ようやく気付いたと言わんばかりの顔になると、ディスティエルは少し考え込むように沈黙し、やがて何処かぎこちない様子で口を開いた。
「あれも…まあ、聖父の衣服です。見た目はそう見えませんが、一応正規のものなのですよ」
返って来た言葉はある意味予想通りだったものの、そのぎこちない口調におやと首を傾げる。
「…作業着みたいなもの?」
鎌をかけるというよりは、助け舟を出すように尋ねると、ディスティエルは軽く目を見開いた。どうやら少し驚いたようだ。
「何故、そんな風に思ったのです?」
「え、だって…なんか動きやすそうだったから」
「そう……。まあ、そうですね。動きやすさを重要視はされています。…作業の為ではありませんが」
「???」
何だか訳がわからない説明だ。何事もきっぱりはっきり言い切るディスティエルにしては、随分と歯切れが悪い。
一見した所、いつもと変わっていないように見えるディスティエルだが、どうやらこちらもいつもと違うようだ。気のせいか、何処となく心ここに在らずと言うか。
昨夜のリオーニとディスティエルの会話を知らないエミリオには、二人の言動の理由がわかるはずもなく。かと言って、これ以上に追求しても何も出て来そうではない。
すっきりしないままの気持ちを抱え、エミリオは何なんだ、とこっそりため息をついた。