丘の麓(Under the Hill)
「おーちゃん!これくわえて。」
姉がなんか言ってきた。
僕は液タブを窓寄りの机において彼女の方に向いた。
彼女は帰ってきたばかりで、コートを脱ぎながら細長い箱をこちらに向けている。
「あの、めーちゃん…なんなの?」
「なんかアジア食品店で賞味期限近かったから安かったの。」
彼女が持っていたのはP o c k yと書かれている赤い箱…
「ポッキー?なにそれ?お菓子?」
彼女は頷いて答えた。
「そうよ。チョコ菓子。」
「ふーん…で?何するの?」
彼女は母親のエレンにバレないよう、こっそり部屋を区切る境界線を侵犯した。
サウス・ケンジントンのこのアパートは家賃が安いかわりに部屋が多くない。この部屋は2階にあり、階段を降りて下にはエレンの寝室兼リビングと狭いキッチンがあり、玄関もある。
父のヴィンセントは、僕らをエレンに預け、生活を立て直すために様々なところの事務員として働いており、現在はそこの社員寮で寝泊まりしている。
そして、エレンは僕らによりよい教育を受けさせ、養うためにスケジュールをぎっしり埋めている。今日は確か、フィッシュアンドチップス店のパートとピアノの講師だったか。
そのため、僕は芸術学校の通信教育を、姉のメイベルは一週間に一回の演技のレッスンを受けることができている。
「で?やるの?どうするの?」
姉が笑い、ストッキングを脱ぎながら尋ねた。
「いつも通り条件がないと無理だよ。あと、何をするの?」
僕は至極まっとうなことを言った。
姉は僕の目の前のタスクチェアに座って前傾姿勢で僕に条件を提示する。
「うーんと…今からやるのはポッキーゲームってゲームよ。そうね…条件はこうしましょう。もしおーちゃんが勝てば私が1時間おーちゃんのモデルになってあげる。でも、もし私が勝てば、明日の台本の確認を1時間手伝ってもらうわ。それでいい?」
彼女はティティアン・レッドの髪から髪留めを取り外し、髪を震わせながら言った。
「了解。それならいいよ。」
僕はいつも通りの提案を受け入れた。
「よし!じゃあ行くわよ!」
彼女はそう言うと、ポッキーというお菓子のチョコがない部分を口にくわえた。
「ふぁんふぁいふぁふぁふふぁふぇふぇ(反対側くわえて)」
「ごめん。ルールをよく分かってない。」
彼女は目を丸くすると、ポッキーを口で食べてしまってから話した。
「そうね。言ってなかったわね。説明すると、私たちが向かい合って、両端をそれぞれくわえるの。それで、両端から中心に向かって食べ進めていって、先に恥ずかしくなって口を離したら負けよ。分かった?」
「分かった。」
「じゃあ。続き行くわよ。」
彼女はまた箱からもう一本取り出して、チョコがない部分をくわえた。
僕も反対側をくわえる。
「ふふぁーふぉ!(スタート!)」
姉の合図で開始する。
目を前に向けると、見慣れたはずの姉の顔があった。
よく見ると、僕はまだ姉の事をよく知らないなと感じる。彼女は少しだけそばかすがあった。
頬は冬だからか少し赤く、帰ってきたばかりで疲れているのか息も荒い。唇の薄い赤の口紅のまま舌が唇に触れる様と両耳についたホワイトビーズピアスが揺れる様は彼女を艶めかしく見せている。
彼女の瞳には僕の姿が鏡のように映し出されている。たぶんその瞳のなかの僕の瞳には姉の姿があり、その姉の瞳にも僕の姿が映っているのだろう。
家族なのに彼女についてはまだ知らないことばかりだ。
彼女は売れない女優をしている。
彼女が初めてステージに立ったのは1年前、地方の劇場だった。僕は15歳で、彼女は16歳。
彼女が演じたのは主人公のジョーがいた道で箒を掃く女。荒涼館の世界観で、彼女はほとんど台詞を与えられていなかったが、その一挙一動は不自然なほど自然だった。何というか…自由だったんだ。彼女はただエキストラの一人として箒を掃いているだけに見えるが、その行動一つ一つが意味があり、その意味を見ている人々が簡単に捉えられ、すんなりとそれを理解できる。気づかないほどに。そして、世界観を崩すこともなく彼女は空気になった。空気という言い方はよく言い表せてはいないかもしれない。だが、そういうことなのだ。そして、彼女が振り向いたとき…その目をみた瞬間に…僕は思った。シスコンなんて言わないでくれ。僕が思ったことは、彼女は天才だということ。父の自由奔放さ(父は婚約不履行のままエレンと結婚した)を引き継いでいるのか、それともエレンの真面目さを引き継いでいるのかは分からないが、僕は彼女の演技の虜になった。
そして、彼女が誰か知らない男と一緒にいると胸が苦しくなる。結核は数年前に完治したというのに、口がきな臭くなる。声がかすれてしまう。これは…恋なんかじゃない。
私が物心ついた頃から弟はそこにいた。
そして、今現在まで私と同じ部屋にカーテンを挟んで過ごしている。
およそ十年前のある日、おーちゃんは絵を描き始めた。最初は可愛らしい子供が描いたような普通の絵だった。でも、彼はとても絵がうまく、私はそんな弟を誇りに感じていた。
いつだったか、4年前くらいに、彼はモノクロの絵を描き始めた。
理由は知らないが、ある日彼は私にモデルになってほしいと頼んできた。
私は弟の絵を見たことがなかったから、見せてもらうことを条件に許可した。
見せてもらった時の私の驚きは忘れられない。それは不思議な絵だった。モノクロで、線が乱立せずに人物や状況を表している作品もあれば、服をきめ細やかに表現することでとても情報量の多く、様々なことが脳に伝わってくる作品もあった。そのどれも、たった1本の線から様々なことが分かってしまう。何を思っていたのか、何を表そうとしているのか…色がないことがその意味を際立たせている。背徳的で蠱惑的な線の塊が絵として人物や状況の表現を作り出している。ブラコンとは言わないでほしいが、私は彼の絵の虜になった。
それからというもの、私は弟…オーブリーの新たな作品を目にすることを楽しみにするようになった。
最近は彼はRedditなどに投稿するようになったが、ひと作品3プレビュー行ったら奇跡だという。もちろんそのうち一つは私だ。
弟の影響からか、私もなにか表現するようなことをしたいと思い始めるようになった。その頃、私はドラマの授業で賞を取った。これはチャンスだと思った。私も、弟のようになにか自分の大切なことを表現することができるのではないか。
そして、私は女優を目指そうと思ったのだ。
エレンにそのことを伝えると、彼女は私の決心をとても喜んでくれた。すぐさま、演技教室に通わせてもらえることになった。
そこで、親友となる人物と出会った。
その女性はネッタと言った。
彼女は天真爛漫で少しおっちょこちょいな女の子で、何と脚本も書くという。
素晴らしいと思った。彼女も自分の何かを表現しているのだ。
彼女に弟のことを伝えると、彼女は言った。
「そっか。メイは弟くんの絵に恋してるんだね。」
そうかも知れない。
「もしかしてさ…弟くんも好き?」
私はこのときどんな顔をしていたか分からない。恥ずかしかったのを覚えている。ネッタはからかっているだけだろうけれど、私にはその言葉が、私の思いをそっくりそのまま言い表わされたようで恥ずかしかった。
「あれ?図星?」
そう聞かれてヒヤッとした。
「いやいやいや。そんなことないって。そんなことあってもダメでしょ。実の姉弟なんだから。」
私は全力で否定したが、その間にこんなことも考えていた。
もし、私がおーちゃんに抱いているのは恋心ではない。恋心であったとしても、それは絶対に成就しない。だから、私はその気持ちの意味について否定する。これは恋心なんかではない。これは…弟に私だけを向いていてほしいという思い…私は幼少期からエレンが仕事に行っている時は、おーちゃんの世話をしてきた。だから、誰よりもおーちゃんと過ごした時間は長い。彼が結核になった時も、看護をしてあげたのは私だ。全身を濡れタオルで拭ってあげて喀血した時に床を拭いてベッドシーツを洗濯して彼の口を拭って飲み物を持ってきて薬を飲ませて……その後、彼は完治したが、外に出たがらなくなった。
彼は家にこもって絵を描くようになった。私も彼の暇つぶしになれたらとたまにモデルになってあげた。その時、私には彼の結核が治ってよかったという気持ちと、彼が引きこもりになったことで彼を管理できる、彼を独り占めできるという真逆の2つの気持ちがあった。
だから、これは恋心なんかではない。これは独占欲だ。
今日はこれをやってみよう。近くのアジア食品店で安く売っていた。棒状のチョコ菓子。
私は、ラジオドラマの収録が終わると、家に直行せず、朝少し下見したアジア食品店で赤い箱の菓子を買った。P o c k y…google先生に聞いてみると、ポッキーゲームというゲームがあるらしい。いい。すごくいい。
私はそれを買うと即座に家に帰った。
エレンはまだ帰ってきていない。チャンスだ。
「おかえり。めーちゃん。」
おーちゃんの少し青白い顔が目に入ってくる。
この顔は十数年間見慣れたはずなのに今でも可愛いと思ってしまう。
私と同じ赤毛の髪の毛もかわいい。液タブのケースが黒猫なのもかわいい。
言い出すとキリがない。
私は彼の姉ということ以上を求めているわけではないし、今でも十分満足している。だけど……誰も知らない彼の姿を見たい。彼のその姿を私以外の誰にも見せたくない。
彼が離れていってしまうのがとても怖い。
だから私はこうやって繋ぎ止めることしかできない。
私はコートを脱ぎながらおーちゃんにこう言った。「おーちゃん、これくわえて!」
オーブリーはこれから様々な人に会い、様々な経験をしていくだろう…その中でも私が一番でなければいけない。
姉の顔が近づいてくる。
僕も同じくらいの速さで中心に向かって食べていく。
段々と恥ずかしさがこみ上げてきた。
こんなに近くで彼女の顔を見たことがなかった。
自分の顔が分からないが、たぶん僕は顔を真っ赤にしていただろう。
彼女はまだ余裕に笑っている。
その時、玄関が開いた音が下からした。
バキッと音がしてポッキーの破片が床に落ちた。
2人とも玄関の音にびっくりしてポッキーを同時に噛み切ってしまったのだ。
「メイベル、オーブリー、帰ったわよ〜。」
僕は液タブにタッチして時間を見る。18:34分。いつもならエレンが帰ってきていてもおかしくない時間だ。
僕らはなんかおかしくなって二人して笑ってしまった。
「なんでいいとこで帰ってくるのよ。」
「これ決着どうする?」
「ねえー?メイベルー?オーブリー?いないの〜?」
エレンの声がした。
「エレンおかえり〜。」
メイベルが大声で下の階に向かって叫んだ。
「おかえり〜。」
僕も同じように言った。
その後、また向き合った。
「考えたんだけどさ、めーちゃんがモデルに30分なったあと台本の読み合わせ30分ってのはどう?」
姉は少し考えたあと言った。
「悪くないんじゃない?」
「じゃあ合意ってことで。」
「ええ。」
「ねえ!メイベルとオーブリー!手伝って!今日はオーブリーの好きなアスピックよ!サラダ作るの手伝って!」
エレンの大声が小さな家に響いた。




