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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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4/7

祝えない進路

「灰原、おまえこれ何だ」


 掲示板の前で立ち止まったまま、誰かがそう言った。


 始業前の訓練棟は、人が多いわりに声の高さが揃わない。新しい班編成や課程表の更新が貼り出される日は、もっとざわつき方が単純になるはずだった。名前を見つけて笑う声、外れた不満、知っている相手同士の軽口。そういういつもの混ざり方ではなく、今日は紙の前で生じた小さな引っかかりが、あちこちで細い沈黙になって残っている。


 灰原律はいばら・りつは、人の肩越しに自分の名前を見た。


 通常訓練班の一覧には載っていない。代わりに掲示の一番下、補足欄のような位置に、簡潔な一行だけが入っていた。


 灰原律 外部実習扱い 詳細は個別通知。


 紙の上では、それだけだった。


 欠席でもない。保留でもない。班変更でもない。推薦先の一覧とも違う。何かへ進んだようにも見えるのに、進路として整った書き方ではなかった。学園の中の流れから、ひとり分だけ名前を抜いて、別欄に移してある。そんな見え方をする一行だった。


 「外部実習って、三年からじゃなかったっけ」

 「普通はな」

 「じゃあ先取り?」

 「でも詳細は個別通知って変じゃない?」


 すぐ背後で交わされた声は、わざと小さくしているのが分かる音量だった。本人に聞こえないように、ではなく、聞こえても困らない程度に抑える小ささだ。言い切るほど知らない。けれど黙ってもいられない。その半端な距離が、紙の前にいる人数ぶんだけ増えていく。


 律はもう一度だけ掲示を見て、視線を外した。


 思ったより冷静だった。驚かなかったわけではない。だが、こういう形で出るのだろうとは、前の話の延長で分かっていた。封筒の中に入っていた語の硬さを考えれば、普通の班表の中に何事もなかったように名前が戻る方が不自然だった。


 ただ、不自然さが自分にだけ見えていると思っていた部分まで、紙にして壁へ貼られると、さすがに逃げ場がない。


 視線を避けるようにして人波から離れかけたところで、横から肩を軽く叩かれた。


 「灰原」


 振り向くと、黒瀬未玖くろせ・みくがいた。いつも通り無駄のない顔つきだが、掲示板を見る前と見た後で、たぶん話しかけ方を少し変えたのだろうと思わせる間があった。


 「先生が呼んでる。職員室じゃなくて、訓練棟の小会議室」

 「今?」

 「今。……紙、見た?」

 「見た」

 黒瀬は一瞬だけ掲示板へ視線をやった。

 「そう」


 そこで終わる。何か足す気配はあったのに、言葉になる手前で止めたような終わり方だった。


 律はうなずく。

 「行く」

 「うん」


 黒瀬は道を譲った。その時の動きが妙に丁寧で、律はかえって居心地が悪くなる。ぶつからないための距離ではない。今の状況に雑に触れないための距離だ。


 掲示板の前を抜ける間にも、何人かと目が合った。すぐ逸らされるものもあるし、逆に不自然なくらい正面から来るものもある。知らない後輩ほど反応は単純で、知っている相手ほど視線の置き場に迷っていた。


 訓練棟の小会議室には、霧島冴子きりしま・さえこではなく、事務担当の教員と学園外の職員がいた。机の上にはまた封筒がある。前に見たものより薄いが、薄いから軽いとも限らないと思える程度には、もう書類の重さに慣れ始めていた。


 「座ってください、灰原君」


 律は椅子を引いて座る。向かいの担当者は、まず何かを説明するのではなく、封筒の表書きをこちらへ向けた。


 校外課程適用通知。

 外部実習に伴う出席・評価・移動管理について。


 どれも意味は分かる。分かるからこそ、普通の課外活動の案内ではないとすぐに知れる。


 「掲示には簡略表記しか出していません」

 教員が言った。

 「余計な混乱を避けるためです」

 「避けられてる感じはしませんでした」

 律がそう返すと、教員は少しだけ口元を引いた。笑ったのではなく、否定もしづらい時の動きだった。

 「だろうね。ただ、全部をあの場に書くわけにもいかない」

 「……はい」


 学園外の職員が封筒を開く。

 「内容はすでに一度説明を受けているはずですが、運用面だけ再確認します。灰原君は新学期開始後、一部授業を学園在籍のまま校外実習へ振り替えます。形式上は課外扱いですが、出席と評価は別管理です」

 「別管理」

 「通常の生徒課程とは経路が違います。記録の保管先も一部変わります」


 保管先。経路。別管理。


 前の話で言われた言葉が、紙を変えて繰り返されているだけだ。だが、訓練棟の小会議室で聞くと、妙に現実味が増す。ここは学園の中で、机も椅子も見慣れているのに、話している内容だけがもう内側の手触りではない。


 「実習先は」

 学園外の職員が一枚紙をめくる。

 「対禍霊広域対応機構たいかれいこういきたいおうきこうの関連建物内、特異事案処理室とくいじあんしょりしつ――通称、特処室とくしょしつです」

 教員はそこで、律の反応ではなく、廊下側の扉へ一瞬だけ視線をやった。

 声が漏れるのを気にしたというより、その名前を学園の会議室で口にすること自体に、まだ馴染んでいない感じだった。


 律は短くうなずく。

 「分かりました」

 「詳細業務については先方で説明します。ここでは、あくまで学園側の処理です」

 「はい」

 「始業式当日は通常登校後、式典への参加を短縮し、指定時刻で移動。以降は個別経路を使用。帰校時刻は固定しません」

 「固定しない」

 「毎日決まった時間に戻る運用ではありません」


 それは、推薦でも栄転でもない。


 普通の校外実習なら、成果や経験が前に出る。ここで前に出ているのは、移動管理と記録の分岐の方だった。説明を受ければ受けるほど、何かに選ばれたというより、どこかへ正しく収められる対象として扱われている感じが強くなる。


 「質問はありますか」


 ある。だが、それをここで訊いても答えが返らないものばかりだ。なぜ自分なのか、どこまで学園が知っているのか、特処室が本当に実習先と呼べる場所なのか。前の話で自分なりに整理したつもりでも、名前が一つ増えるたびに輪郭が別のものへ変わっていく。


 律は一度だけ喉を鳴らし、「運用上の質問は、向こうで訊いていいですか」とだけ言った。

 職員は少し間を置いてから、「内容によりますが、基本的には」と答えた。


 会議室を出る頃には、訓練棟の空気が少し変わっていた。掲示板前のざわつきが別の場所へ移り、断片だけが廊下を流れている。


 外部実習らしい。

 特処室だって。

 え、あそこって何する部署。

 推薦とかじゃないのか。

 でも、始業式当日からって早すぎない?


 誰も大声では言わない。だが聞こえないほど小さくもしない。言葉の輪郭がはっきりしないまま漂って、それぞれの受け取り方だけを増やしていく。


 階段を下りかけたところで、年下の男子生徒に呼び止められた。


 「灰原先輩」


 名前は知らない。顔だけ見覚えがある。前に訓練補助で同じ場所にいた気がする少年だった。


 「その、外部実習って」

 言いかけて、彼は一度口を閉じた。質問そのものより、どんな温度で聞けば失礼にならないかを探している顔だった。

 「すごい、んですよね」

 最後だけ語尾が上がる。確認になってしまったのは、自分でも分かっているらしい。


 律は階段の手すりに片手を置いたまま答える。

 「何がだ」

 「いや、その……選ばれるやつっていうか」

 「そういうのじゃない」

 「ですよね」


 安堵したのか、余計に困ったのか分からない返事だった。


 少年は視線を泳がせ、「でも頑張ってください」とだけ言って頭を下げた。祝っていいのか違うのか分からない時、人は最後に頑張れへ逃げる。律はそれを責める気にはなれなかった。自分でも同じ位置に立たされたら、多分そうする。


 午後の記録室は、いつもより静かだった。


 月城怜奈つきしろ・れなが棚からファイルを抜き、黒瀬が端末に何かを打ち込んでいる。二人とも作業はしているのに、部屋の中には「今は本題を後ろへ回している」という気配があった。必要な手を先に動かし、話すべきことを少し遅らせる時の空気だ。


 律が入ると、黒瀬が椅子を少し引いた。

 「そこ、座る?」

 「立ってていい」

 「そう」


 月城は手元の紙を揃え終えてからこちらを見た。

 「説明、受けたの」

 「ああ」

 「始業式当日から?」

 「らしい」

 「……そう」


 会話が、ひとつずつ床へ置かれるみたいに遅い。


 律は部屋の中央に立ったまま、机の上に置かれた自分の課程表のコピーを見た。通常授業の欄には白い空白が増えていて、その横に細く注記がある。外部実習時間、個別評価、帰校後報告。訓練名や教室番号の並びに混じると、それだけ別の種類の文字に見えた。


 「で」

 律が言う。「何か言いにくそうだな」

 黒瀬の指がキーボードの上で止まった。

 月城は少しだけ目を細める。

 「言いにくいよ」

 あっさりした口調だったが、そのまま続いた。「おめでとう、って言うには材料が足りない」

 「足りない」

 「栄転なのか、管理強化なのか、本人の適性評価なのか、危険回避なのか、その全部なのか、こっちに見えている範囲が中途半端」


 月城の言い方は整理されていた。整理されているのに、冷たくはない。ただ、祝辞より先に分類が出てくるあたりが、この人らしかった。


 黒瀬が小さく息をつく。

 「事情を知らない子たちは、外部実習って言葉だけで前向きに取ると思う」

 「知らない方が、そうなるよな」

 「うん。でも近い人ほど、そう簡単に見えない」


 律は机の端へ軽く寄りかかった。

 「見えないか」

 「見えない」


 黒瀬の返事は短い。けれど、その短さの中に、見えているものを細かく並べない遠慮が入っていた。


 学園の中で起きた誘拐。救出。学園外の紙。始業式当日からの別管理。対禍霊広域対応機構の建物。特処室。


 近い者ほど、それらを一つの線として見てしまう。見てしまうから、推薦おめでとう、経験になるね、頑張って、といった順当な言葉を、そのまま出せない。


 「月城さんたちは、何て聞かされてるんだ」

 律が訊くと、月城は少しだけ視線を外した。

 「学園側として必要な範囲だけ」

 「それで?」

 「十分多いとは言えない。でも、少ないとも言い切れない」

 曖昧な答え方だった。はぐらかしたのではなく、それ以上具体化すると線を越えるのだと分かっている声だった。

 「少なくとも、普通の進路処理ではない」

 「……だろうな」


 黒瀬が端末を閉じる。

 「特処室って名前も、余計に良くないし」

 「良くないって何だよ」

 「聞こえが」

 「聞こえ」

 「推薦先とか研究先とか実習先って言われた時の響きじゃない。処理室って、どうしても」


 そこで止まる。処理、という語に含まれる硬さを、誰も言い換えられなかった。


 律は苦笑するような息を漏らした。

 「まあ、分かる」

 「しかも鷲尾さんが絡んでる」

 黒瀬は言ってから、少し遅れて「表向き」と付け足した。「表向きの所属だけでも、十分変」

 「監査官だろ」

 「監査官が始業式当日から生徒一人引き取る運用を、学園生がすんなり『すごいですね』で受け取れると思う?」

 「思わない」

 「でしょ」


 月城がファイルの角を指で揃える。

 「祝えないって、別に否定してるわけじゃないの」

 「分かってる」

 「むしろ、前に進んでるんだとは思う」

 そこで彼女は一度言葉を切った。「ただ、その前進が、学園の内側で用意されていた道に見えない」

 「外から押し込まれた感じがする?」

 「押し込まれた、だけでもないのが厄介」


 それも、よく分かる言い方だった。


 律自身、この配置を囲い込みとしか見ていないわけではない。前の話で霧島に言われたとおり、戻る条件を一本だけ残したまま外へ出す、という意味があるのも分かる。自分の能力にはまだ先があり、今の学園の中だけでは届かない部分があるのだろうという感触もある。


 だから単純に嫌とも言えない。

 嫌とだけ言えないものを、他人が祝うのはもっと難しい。


 記録室の扉が半分開いて、後輩の女子が書類を届けに来た。月城が受け取り、簡単な確認だけして返す。その間、女子生徒の視線が二度ほど律の方へ来て、来るたびにわずかに角度を変えた。


 知っている。けれど、どう呼べばいいか決めきれない視線だった。


 「灰原先輩」

 帰り際、彼女は扉のところで立ち止まった。「その……おめでとうございます、で合ってますか」

 部屋の空気が一瞬だけ止まる。


 律は少しだけ考えてから、「合ってなくても、間違いってほどじゃない」と答えた。

 女子生徒は困ったように笑った。

 「難しいですね」

 「そうだな」

 「でも、よかったです」

 彼女は自分で言いながら、その「よかった」が何にかかっているのか、うまく定まっていない顔をしていた。「戻ってきて、あと……その」

 続きが出ず、最後に小さく会釈して扉を閉めた。


 ぱたん、と軽い音がしてから、黒瀬が呟く。

 「みんな、ああなる」

 「知ってる子ほど?」

 「たぶん」


 月城が視線だけで同意した。


 律は机の上の紙を見下ろした。外部実習。個別評価。校外課程。どれも間違っていない。間違っていないのに、それらを普通の進路の語で包もうとすると、どこかに皺が寄る。


 「俺、そんなに変なところ行くように見えるか」

 軽く言ったつもりだったが、声は思ったより乾いていた。


 黒瀬が即答する。

 「見える」

 「即答だな」

 「だって変だよ。特処室って名前だけ聞かされて、学園の通常課程から外して、始業式当日から別経路で、戻る時間も固定しない。これで『期待のインターンです』って顔はできない」

 「……期待は、されてるのかもよ」

 「管理もされてる」

 「それもそう」


 月城は少しだけ首を傾けた。

 「灰原さん自身は、どう受け取ってるの」

 律は答えを急がなかった。


 どう受け取るかは、たぶんもう前の話で決めている。管理されるだけの対象で終わるつもりはない。踏み込むべき入口として受け止める。そう整理した。だが、それをそのまま口にすると、急に自分だけ前向きな人間みたいに聞こえてしまう気がした。


 「半分は、必要な処理だと思ってる」

 結局、そう言った。

 「半分」

 「もう半分は、まだ分からない」

 月城が静かに頷く。

 「それなら、こっちも同じ」

 「同じか」

 「必要なんだろうとは思う。でも、素直に綺麗な話には見えない」


 言葉は穏やかなのに、その穏やかさがかえってはっきりしていた。


 祝われない前進。

 前に進んでいないわけではない。だが、その形があまりにも学園の内側の言葉から外れている。だから近い人間ほど、正しい祝辞を組み立てられない。


 「そういえば」

 黒瀬が言った。「始業式の日、移動は一人?」

 「今のところは」

 「迎え」

 「あるらしい」

 「鷲尾さん?」

 「たぶん」

 黒瀬は眉を寄せた。「それを見た生徒の反応、想像したくない」

 「俺も」


 月城が書類を二枚抜き出してこちらへ寄せる。

 「通行証の仮申請、先に通しておいた方がいいって言われた。あと帰校後の記録提出の書式。形式だけでも知っておいた方が楽」

 「ありがとう」

 「……別に、そういう意味じゃなくて」

 「分かってる」

 律が受け取ると、月城はほんの少しだけ口を閉じた。礼を言われたのが嫌だったのではない。礼を言う場面になってしまったこと自体が、どこかずれているのだ。


 近しい者ほど、祝辞の代わりに実務を渡してくる。

 それは冷たさではなく、多分いま唯一まともに差し出せるものだった。


 夕方になると、噂は一段薄くなった代わりに、視線の方が残った。


 食堂へ行けば、席を立つタイミングが半拍遅れる相手がいる。購買の前では、顔見知りの先輩が「話は聞いた」と言ってから、その先を選びきれずにパンの袋へ視線を落とす。訓練場脇の渡り廊下では、普段なら軽口を飛ばしてくる同級生が、今日はやたらと「おつかれ」とだけ言ってすれ違う。


 あからさまな腫れ物扱いではない。

 むしろ、雑に扱わないようにしてくれているのだと分かるぶんだけ、妙に息が詰まる。


 祝うでもなく、避けるでもなく、丁寧に一歩引かれる。


 その距離の取り方が、一日じゅう続いた。


 日の傾いた訓練棟の自販機前で、律はようやく一人になれた。缶の冷たさを手のひらで転がしながら、壁にもたれる。自分の名前がいつもの欄から外れた掲示を見てから、まだ半日も経っていないのに、学園の中の動線がもう少しずつ違って見える。


 同じ廊下を歩いている。

 同じ制服を着ている。

 同じ建物にいる。


 それでも、始業式当日から自分だけ最初に向かう先が違う。その事実が一度掲示板に書かれてしまうと、もう学園の中で普通に混じりきるのは難しい。


 「隠れるの、下手だね」


 顔を上げると、少し離れた位置に月城が立っていた。いつからいたのか分からない。飲み物は持っていない。


 「隠れてない」

 「そう」


 月城は自販機の横まで来て、壁には寄りかからず立った。近づきすぎない距離だった。

 「一つだけ」

 「何」

 「私は、祝えないけど、止めたいとも思ってない」

 律は缶を持ったまま彼女を見る。

 「ずるい言い方だな」

 「そうだね」

 月城は否定しなかった。「でも今のところ、それが一番近い」

 「……分かった」


 それで十分だった。十分というより、それ以上を求めるのが間違っている気がした。


 月城は少し迷ってから、続けた。

 「灰原さん」

 「ん」

 「特処室って名前、学園の中だとどうしても重く聞こえる」

 「うん」

 「だから、誰かが変な顔をしても、あまり気にしないで」

 「気にしないのは無理だろ」

 「無理なら、全部受け取らなくていい」


 言い終えると、彼女はそれ以上は踏み込まなかった。慰めるでも、励ますでもなく、ただ言葉を置いて引く。その引き方が今日一日ずっと続いていた距離感と同じで、律は少しだけ笑いそうになった。


 「月城さん」

 「何」

 「やっぱり、おめでとうは言いにくい?」

 月城はほんの少しだけ考えた。

 「言えなくはない」

 「言えなくはない」

 「でも、それを先に置くと、何かを見落とす気がする」

 「何を」

 「あなたが、戻ってきた生徒のままではいられないってこと」


 自販機の低い駆動音だけが、短く二人の間を埋めた。


 律は視線を落とし、缶のプルタブに指をかけたまま開けなかった。炭酸の気配が内側に閉じ込められている。自分の喉の奥も、たぶん似たようなものだった。


 「それ、今日一番分かりやすいな」

 「そう」

 「だから祝えない?」

 「たぶん」


 そこまで言ったところで、渡り廊下の向こうから黒瀬が小走りで来た。二人を見るなり速度を落とし、いつもの歩幅に戻す。その切り替えも今日らしい。


 「探した」

 黒瀬は律に一枚の紙を差し出した。「仮通行証、発行された」

 受け取ると、薄い樹脂カードに学園内用とは違う色の帯が入っていた。所属欄は空白ではなく、外部実習対象者とだけ印字されている。組織名はまだ入っていないのに、それでも十分に別物だった。

 「早いな」

 「処理だけは」

 黒瀬はそこで言葉を切った。「……早い」

 最後の二文字だけ、少し棘があった。


 月城がカードを見て、目を伏せる。

 「それ、学園の首から下げる色じゃないね」

 「そうみたいだな」


 黒瀬は腕を組みかけてやめた。

 「ねえ、灰原」

 「何」

 「これ、たぶん明日にはもっと広まる」

 「だろうな」

 「だから先に言っとくけど、私は聞かれても細かく答えない」

 「助かる」

 「助かるとかじゃなくて、答えられないし」

 「分かってる」

 「あと、適当なおめでとうを代わりに言う気もない」

 「それも分かってる」


 黒瀬は不満そうに息をついた。

 「分かってる、ばっかり」

 「今日一日でだいたい分かった」

 「じゃあいいけど」


 いいけど、と言いながら、全然よくなさそうな顔だった。心配というほど露骨ではない。納得していない、でも止める権利もない、という不機嫌に近い表情だ。


 律は仮通行証を指先で挟んだまま、二人を見た。

 「そんなに変な顔されると、こっちが本格的にやばいところ行くみたいじゃん」

 月城が先に逸らした視線の先で、黒瀬が答える。

 「やばくないとは、まだ誰も言ってない」

 「言ってくれよ」

 「言える材料がない」

 「月城さんも?」

 「ない」


 見事なくらい揃った返答で、律は今度こそ少しだけ笑った。笑える話ではないのに、ここまで揃うとかえって乾いた笑いが出る。


 「じゃあ、せめて」

 黒瀬が言う。「無事でいて」

 それは頑張れでもおめでとうでもなかった。

 月城も小さく頷く。

 「それなら言える」


 無事でいて。


 それは進路への祝辞ではなく、管理線の向こうへ押し出される相手への言葉だった。学園の内側から投げられる、ぎりぎり私的な一言。軽くないし、華やかでもない。でも多分、いまの自分に向けられる言葉としては、一番まっすぐだった。


 律は仮通行証を制服の胸ポケットへしまう。

 硬い角が布越しに当たった。


 学園に残る。

 学園から外れる。

 そのどちらでもない位置へ、自分はもう移され始めている。


 それを今日は何度も、掲示板の一行や、人の視線や、言い切れない祝辞の形で見せられた。


 「分かった」

 律は言った。「それは受け取る」

 黒瀬の肩から少しだけ力が抜ける。

 月城は「そう」とだけ返した。


 窓の外では、夕方の光が訓練棟のガラスを斜めに切っていた。帰る生徒たちの流れが下へ伸びていく。いつもの時間、いつもの動線、いつもの学園。そこへ自分も混ざって歩けるのに、始業式当日から最初の数歩だけは、もう別の方向になる。


 祝われない進路、という言い方が頭に浮かんで、律はすぐには捨てなかった。


 祝われないから間違いなのではない。

 祝われないままでも、進むしかない線がある。


 その線の先に何があるかはまだ分からない。囲われるのか、使われるのか、育てられるのか、その全部なのか。けれど少なくとも、学園の中だけで収まる日常へそのまま戻る道ではないことだけは、もう疑いようがなかった。


 「行くか」

 律が言うと、黒瀬が「どこに」と返す。

 「今日は普通に帰る」

 それから少しだけ間を置いた。「今のうちは」

 月城が小さく目を細める。黒瀬は何も言わなかった。


 三人で渡り廊下の方へ歩き出す。並ぶでもなく、離れすぎるでもない距離だった。誰も進路の話を続けない。代わりに、階段の段差、すれ違う生徒、窓の外の色、そういうすぐ近くのものだけを見て歩く。


 それが気遣いなのか、保留なのか、まだ決めなくていいという合図なのかは分からない。


 ただ、祝えないからといって、ここで切れるわけでもないのだと、その歩幅だけで分かった。


 訓練棟の出口を抜ける直前、律は一度だけ胸ポケットに触れた。仮通行証の硬さは、まだそこにある。


 外へ向かう資格証のようにも、管理番号の札のようにも感じる感触だった。


 どちらか一つに決められないまま、律は校舎へ戻る流れにひとまず足を乗せた。始業式の日までは、まだ少しだけ時間がある。その少しの間に、学園の中の人たちは多分もう少し上手に視線を逸らすようになるし、自分ももう少し上手に受け流すようになる。


 それでも、祝われない前進であることだけは、たぶん最後まで変わらない。


 変わらないまま、自分の足で行くしかないのだと、胸の内側に硬く残ったカードが静かに教えていた。



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