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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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21/22

半歩前の灯り

夕方の手前で、室内の明かりだけが少し早く夜に寄った。


 窓の外にはまだ薄い明るさが残っている。校舎側の上階窓には、西に傾いた光が鈍く反射していた。学園の一日なら、部活動へ向かう足音と、教室を閉める音が遠くで混ざり始める頃だろう。だが特異事案処理室とくいじあんしょりしつの中では、その時間感覚だけが少し遅れていた。誰かが帰るために灯りを点けるのではなく、まだ終わっていない机のために先に明るくしている。


 灰原律はいばら・りつの机の上にも、卓上灯たくじょうとうの白い輪が落ちていた。


 読み終えたはずの記録束は、閉じても脇へ寄らない。ここへ来たばかりの頃なら、紙の束が一つ終わるたびに区切りがあるように思えたのかもしれない。だが今は違う。読み終えたものほど、横に短いメモが増え、別紙が挟まり、誰かの机へ渡る途中でまた戻ってくる。読んだことそのものは区切りにならず、次の工程へ回すための印にしかならない。


 さっきの事後検討で拾った一本の危険線きけんせんも、今はもう根守亮ねもり・りょうの端末横で、別件の照合列の隣に置かれていた。自分が机上で正しかっただけでは、誰も戻せない。読むだけでは遅い。そう形を持って突き返された感覚が、まだ喉の奥に薄く残っている。


 時谷一真ときたに・かずまは、その少し先で紙束を閉じ、付箋だけを二枚差し替えた。和泉恒介いずみ・こうすけは壁際の簡易棚から未使用の記録票を抜き、誰にともなく机の上へ足していく。根守は補正前映像の最終保存を走らせながら、別窓で設備側の簡易報告を比較していた。灰谷真はいたに・まことは、聞取票の最後の欄外に短い語を二つ書き足してからようやくペンを置く。大神慎司おおがみ・しんじは装備箱の留め具を一度閉じ、また開けた。板倉鋼司いたくら・こうじの机には戻したケースが半分だけ片づき、藤丸修司ふじまる・しゅうじ封緘袋ふうかんぶくろは処理待ちの棚へ回されたが、まだ番号札が外されていない。


 どの机も、完全には片づいていない。

 完全に片づいていないことが、この部屋では今日がまだ終わっていない印になる。


 律は自分のノートへ、時谷に言われた一行をもう一度書き写した。


 ――記録の上で正しかっただけでは、誰も戻せない。


 書き終えてから、指先にほんの少しだけ力が入る。

 悔しさは消えていない。けれど、それをまっすぐ前へ出す場所ではないことも、もう少し分かっている。見えたことを誇るのではなく、どこへ渡せば仕事になるかを考える。そのやり方に慣れ始めていること自体が、妙に重かった。


 「灰原」


 和泉が声をかける。


 「はい」

 「一回、席の上だけ整理しといてください」

 律は反射的に自分の机を見る。「どこまでですか」

 「全部じゃなくていいです。今日ここで閉じるものと、明日に残すものだけ分ける」

 「……はい」

 「あと、閉じないものは閉じないままでいいです」


 そう言って和泉は、軽く笑いそうになり、笑いきらなかった。


 「ここ、無理に綺麗にすると余計見えなくなるので」


 律は頷き、机の上の紙を三つに分け始めた。

 今日閉じるもの。保存待ち。明日また触るもの。

 区切りは曖昧だ。だが曖昧なまま置く欄が、最初から用意されているのがこの部署らしかった。学園の机なら、終わったノートは閉じ、教科書は鞄へ入れて帰る。ここでは、終わったように見える記録ほど「まだ残す」に入ることが多い。


 補正前映像の照合表を一束。

 南連絡路の事後検討を一束。

 設備側へ返す簡易説明の下書きを一束。

 そこまで分けたところで、時谷の机から紙を軽く叩く音がした。


 「和泉さん」

 「はい」

 「南連絡路の件、灰原の一本は再発防止の附記で残します」

 「現場側の引き継ぎには」

 「まだ直接は入れない」

 「そうですね」


 和泉はそれをすぐに受けた。だが、そこで終わらず一拍遅れて付け足す。


 「ただ、次に似た場が来たら、最初の見方は変えるべきです」

 時谷は視線を上げないまま言う。

 「変えるべきですね」

 「読む方で拾えた、で終わらせるには惜しい」

 「分かっています」


 そのやり取りは、提案でも相談でもなかった。

 決定に近づいているのに、まだ決定の形を取らない話し方だった。

 律は紙を持つ手を少しだけ止める。


 惜しい。

 その言葉に、自分の観測が初めて「役に立った」ではなく、「後ろからでは遅いかもしれないもの」として扱われた感じがあった。持ち上げられているわけではない。むしろ逆で、机上で正しかっただけでは足りないという不足の印として見られている。そのことが、奇妙に現実的で、少しだけ息を詰まらせる。


 内線が鳴ったのは、その時だった。


 誰も驚かない。大神が一番近い受話器を取り、「はい、特処」と短く名乗る。二言、三言聞いてから、表情を変えずに時谷を見る。


 「外部線」


 それだけで、誰のことか大体分かる空気だった。


 和泉が小さく言う。

 「今日はもう来ないかと思った」

 根守が端末を閉じずに返す。

 「来ない日に慣れた方が危ないでしょう」

 灰谷は聞取票を半分だけ閉じたまま、机の端へ寄せる。

 「今度は何ですかね」

 大神は受話器を押さえたまま言った。

 「本人いわく、置きっぱなしにするには嫌な資料だそうです」

 和泉が乾いた笑いを一つ漏らす。

 「それ、だいたい嫌な資料ですよね」


 受話器が置かれるより少し早く、扉が叩かれた。


 今度は二回。

 前までより、ほんのわずかに律儀なノックだった。


 「失礼します。時間外に片足かけそうなので、今のうちに」


 入ってきたのは鷲尾恒星わしお・こうせいだった。

 相変わらず軽い顔をしている。だが、その軽さの下に何かを隠しているのが、今の律には前より少し分かる。紙袋でも封筒でもなく、今日は薄い黒ファイルを一冊だけ持っていた。厚みはほとんどない。にもかかわらず、それが室内へ入った瞬間、部屋の空気がほんの少し細くなる。


 珍客ではない。

 だが、歓迎される来客でもない。

 よく来る外部線の人。

 それが、もうこの部屋での鷲尾の位置として定着していた。


 「今度は一件だけです」


 鷲尾は自分で空いた机端を見つけ、そこへファイルを置いた。


 「置いて帰るだけにしようと思ったんですが、さすがに雑すぎるので一言だけ」

 和泉が言う。

 「一言で済むなら助かります」

 「済まない時に先にそう言っとくと、ちょっとだけ許されるかなと思って」

 「許されません」

 根守が即答する。

 鷲尾は困ったように肩をすくめた。「ですよね」


 時谷がファイルへ手を伸ばす。

 「内容は」

 「照会寄りの引き渡しです。表の整理へ落とせるかどうか、まだ薄い。ただ、机上だけで抱えるには少し嫌な線が一本ある」


 律の指先がわずかに止まる。

 一本。

 その語が、今日ずっと胸の内側に残っていたものと重なる。


 時谷はファイルを開く。

 一枚目は簡易概要。

 学園西側の古い資料保管室周辺で、短時間の位置違い報告が三件。設備異常として処理済み。ただし、同日中に別経路から類似の照会あり。人的被害なし。現場保存は最低限。第零対応班だいぜろたいおうはん側仮固定済み。

 そこまで読んだところで、時谷の指が一度止まる。


 「また、そちらで固定まで入れている」

 鷲尾は軽く返す。

 「止めないと嫌な増え方をしたので」

 「その判断線は」

 「今日のところは薄く」

 灰谷が小さく息を吐く。

 「薄いのに、来る」

 「来ます」

 鷲尾はそこを否定しない。「来ないで後から文句を言われるよりは、早めに嫌がられる方がマシなので」


 律は、その会話の半分しか分からない。だが、残り半分が分からないままでも、三つの違和感だけは前より鮮明だった。


 来すぎる。

 事情を知りすぎている。

 説明が足りない。


 そして今、その足りなさのまま置かれたファイルが、自分の席に近い位置で開かれようとしている。


 時谷は二枚目をめくった。

 そこには簡易見取り図と、断片的な報告文が三つ並んでいる。

 同じ保管室周辺で、違う時間、違う人間が「棚の位置が一段ずれて見えた」「戻ったと思ったら手前の通路にいた」「短いのに妙に深い」と記している。どれも大事にはされていない。だからこそ気になる。大事にされないまま処理されそうな違和感ほど、後で面倒になると、この数日で律にも少し分かっていた。


 和泉が時谷の横から覗き込む。

 「机上だけで読むには、気持ち悪いですね」

 「そうですね」

 時谷の返答は短い。

 「しかも保存が薄い」

 根守が言う。

 「写真も少ないし、時刻も粗い」

 鷲尾はそこで言い訳するように手を上げた。

 「だから今のうちに、です」

 灰谷が返す。

 「だから毎回言うんですよ。だから今のうちに、で置くのやめてって」

 「でも今のうちなんですよ」

 その言い方だけ、一瞬だけ軽さが落ちた。


 律はそこに目を止める。

 鷲尾が本当に軽い人間ではないことは、もう分かり始めている。軽く見せる。軽く入る。だが、判断の境目に触れる時だけ、別の固さが少し見える。


 時谷は概要を閉じず、律の方を見る。

 「灰原」

 「はい」

 「今日はここまでは読まなくていいです」

 その言葉に、ほんのわずかに肩から力が抜けかける。だが、次に続いたのは別の重さだった。

 「ただ、席には置きます」

 律は顔を上げた。

 時谷はそのまま言う。

 「今すぐ処理させるわけではない。ただ、明日触る可能性が高い」

 和泉が横から補う。

 「机上だけで片づけられるか、ちょっと怪しい方の資料です」


 怪しい。

 その言い方は曖昧だ。だが、この部署では曖昧さを曖昧なまま置く時ほど、本当に嫌なものが多い。


 鷲尾は律の反応を見ていたらしい。

 「怖がらせるつもりはないんですけどね」

 「だったら言い方を選んでください」

 和泉が返す。

 「選んでますよ」

 鷲尾は軽く笑う。「これでも」

 「それで足りてないから言ってるんです」


 その応酬は、もう律にとって初めてのものではなかった。

 だからこそ、慣れの中にある違和感の方が、今日はよく見える。

 鷲尾は来るたび、必要なものを持ってくる。必要だが薄い。足りないが無視できない。そういう資料ばかりを置いていく。


 時谷は黒ファイルから三枚だけ抜き、残りを閉じた。

 「今日は概要だけ共有。詳細は保留」

 根守が問う。

 「補正前の原記録は」

 鷲尾が答える。

 「上で止まってます」

 「上、ね」

 和泉が呟く。

 そこへ鷲尾は軽く返す。

 「便利でしょう」

 「便利すぎるんですよ」

 灰谷が言う。

 板倉も壁際から一言だけ落とす。

 「現場に出すには薄い」

 藤丸が続ける。

 「でも机上に置くには嫌だ」


 その二つが同時に成立する案件。

 律は胸の奥で、その言い方に引っかかる。

 机上に置くには嫌だ。

 それはつまり、読んで整理するだけでは遅れるかもしれない種類の嫌さということだ。


 鷲尾はそれ以上長居しなかった。

 今日は三度目だからか、いつもより少しだけ早く引く。


 「じゃあ、また」


 そう言いかけて、一拍遅れて言い直した。


 「いや、また来ない方がいいんでしょうけど」

 根守がすぐ返す。

 「来るんでしょう」

 「可能性は高いです」

 鷲尾は苦笑する。

 和泉が机に指を置いたまま言う。

 「その“高いです”が高すぎるんですよね」


 鷲尾は返事をせず、軽く手を上げて出ていった。


 扉が閉まる。

 そのあとすぐ、室内は元の静けさへ戻った。

 だが、完全には同じ静けさではない。机の上に新しい薄さが置かれたぶんだけ、空気の奥に別の線が通った感じがあった。


 和泉が先に口を開く。

 「来すぎるなあ」

 根守は端末へ視線を落としたまま答える。

 「しかも毎回、嫌な薄さで来る」

 灰谷が言う。

 「説明しないで済むところまでしか出さないんですよね」

 板倉が短く返す。

 「現場はそれで困る」

 藤丸も淡く続ける。

 「記録も困る」

 時谷は黒ファイルを閉じたまま、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙の方が、律には大きかった。

 誰も鷲尾を拒んでいない。必要だから受け取る。来ることも止めない。だが、来るたびに何か一段外の判断が運び込まれ、室内の日常の下に別の処理線があることだけが、またはっきりする。


 しばらくして、時谷がようやく言った。

 「灰原」

 「はい」

 「席、見てください」


 律は自分の机へ視線を向ける。


 そこには、さっき自分で三つに分けた紙束の横に、新しい二つの資料が置かれていた。

 一つは次に読むべき通常の記録束。白い付箋に『午前分、設備線』。

 もう一つは、今鷲尾が持ち込んだ黒ファイルから抜かれたらしい薄い資料。付箋はなく、クリップで留められているだけだ。表紙には案件名もなく、『保管室周辺・別線照会』とだけ手書きである。


 次に読む記録だけではない。

 机上だけでは処理しにくい案件の資料が、最初からそこへ混じっている。


 律は立ち上がり、その二つを見下ろした。


 和泉が少し離れたところから言う。

 「白い方は明日でいいです」

 黒い方については、そこで言葉を切る。

 時谷が続ける。

 「黒い方は、読むだけで済むかまだ分かりません」


 その言い方に、律の喉が乾く。

 時谷はさらに何かを言いかけて、やめた。

 和泉も同じだった。視線だけが一瞬、時谷と噛み合い、すぐ外れる。

 二人とも、まだ言い切らない。

 だが見ている方向だけは、もう少しずつ揃っている。


 読みだけでは届かない。

 後からでは遅い場がある。

 机上に置くには嫌な薄さが来ている。

 その全部が、今は言葉になり切らないまま、律の席の上へ形だけ置かれていた。


 「持ち帰って読ませるわけじゃないですからね」

 和泉が軽く言う。

 「そこまでブラックではないです」

 冗談めかしているが、冗談になり切らない。

 「ただ、明日ここで触る可能性が高い」

 律は小さく頷く。

 「……はい」

 「あと」

 和泉はそこで少しだけ視線をずらした。

 「今のうちに言っとくと、座って読むだけの案件じゃないかもしれません」


 その一言で、胸の奥がわずかに沈んだ。

 まだ決まっていない。同行とも、出動とも言っていない。

 なのに、その可能性だけは、もう席の上に置かれている。


 その時、外の廊下を走る足音が一度だけ遠く抜けた。

 学園側の棟なら、部活終わりのざわめきに紛れて消える音だろう。ここでは、その若い足音だけが妙に場違いに聞こえる。自分も本来はそちら側の時間に属していたはずなのに、今はその音を、窓の向こうから聞こえる別の生活みたいに受け取っている。

 机の上の紙へ視線を戻した途端、その感覚はさらに強くなった。

 学園の時間から離れているのではない。

 この部屋の時間へ、身体の方が少しずつ合い始めてしまっている。


 根守が端末を閉じる音がした。

 灰谷は聞取票を束ね、最後の控えを棚へ戻す。

 大神は予備灯の確認を終え、装備箱を今度こそ閉じた。板倉がケースを持ち上げ、藤丸が封緘棚の番号を一つずらす。日が落ちる前の静かな時間のはずなのに、誰も「今日はここまで」とは言わない。終わりに向かっているのに、次へ向かう準備の方が前へ出ている。


 律は二つの資料へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。

 机の上の灯りが、その紙の縁だけを白く浮かび上がらせる。

 自分はこの場所に、少し慣れてきたのだと思う。

 朝になれば来る。席に座る。紙を読む。呼ばれれば立ち、見えたものを言い換え、誰かの工程へ渡す。その反復に、身体は前より戸惑わなくなっている。

 だが、それは居場所ができたという意味ではない。

 完全に受け入れられたということでもない。

 通えるようになっただけだ。

 そして通えるようになったぶんだけ、次の責任へ近づいている。


 その感覚が、今夜は前よりはっきりしていた。


 和泉が自分の机の電源を落としかけて、やめた。

 時谷も紙束を閉じたまま、最後の一枚だけは外へ残している。

 二人とも帰る準備に見える動きをしているのに、実際にはまだ帰る線を切っていない。鷲尾が持ち込んだ別線の情報が、それだけ室内の空気を少し変えたのだと分かる。


 「班長」

 和泉が低く呼ぶ。

 「はい」

 「明日、午前の組み方だけ先に見ときます?」

 時谷は少しだけ考え、答えを短く切った。

 「見ます」

 「灰原は」


 そこまで言って、和泉は律の方を見た。

 時谷もつられて視線を寄こす。

 ほんの一瞬だけ、二人の判断が同じ場所へ近づいた気配がした。けれど、どちらもまだ名前にしない。

 時谷が先に外した。

 「明日の資料の並びだけで決めます」

 和泉はそれを受ける。

 「了解」

 それで終わる。

 終わるのに、終わっていない。


 帰るための動きは、部屋のあちこちで少しずつ始まっていた。

 だが、消える明かりより残る明かりの方が多い。根守の端末脇の小灯は記録保存が終わるまで点いたまま、大神の棚上灯は予備装備の充電確認が終わるまで落ちない。藤丸の封緘棚にも、番号札を読み違えないための細い灯りが残っている。誰かが席を立っても、その人の仕事だけは机の上に少し遅れて残る。戻った人間の熱と、これから出るかもしれない準備の冷たさが、同じ白い明かりの下で並んでいた。


 律は鞄へ今日閉じた紙だけを入れ、閉じなかった紙は机へ残した。

 その仕分けにも、もう迷いが少ない。

 持ち帰らない。

 ここに置く。

 明日またこの席へ戻って触る。

 その順番が自然になっていることに、少し遅れて気づく。

 前なら、机の上に残るものは置き忘れに近く見えた。今は違う。ここに残すこと自体が、この部署の継続の形だと分かる。


 窓の外では、学園の渡り廊下の照明が順番に点き始めていた。

 その灯りは下校のための灯りだ。

 けれど、特処室の灯りは帰るためのものではない。

 記録の続きがどこにあるか見失わないための灯りで、戻しきれていない案件と、まだ言い切られない判断の位置を間違えないための灯りだった。

 同じ明るさでも、意味が違う。

 その違いをもう自分は知ってしまっている。


 時谷が最後の一枚を白い記録束ではなく、黒い薄資料の下へ差し込んだのを、律は見た。

 順番が変わったのだと思う。

 まだ言葉にはされない。けれど、どちらを先に手に取るかの判断だけが、もう静かに動いている。

 和泉もそれを見ていたはずなのに、何も言わなかった。

 何も言わないまま、同じ方向の沈黙だけが残る。


 その沈黙の中に、自分の席も含まれている。

 それが、今夜いちばん重かった。


 律はそのやり取りの意味を、まだ完全には掴みきれない。だが掴みきれないままでも分かることがある。

 次は座って読むだけでは済まないかもしれない。

 そして、その判断はもう、遠い未来の話ではなくなっている。


 窓の外の光がさらに薄くなる。

 室内の灯りは逆に、机の上をはっきり照らした。

 白い記録束。黒い薄資料。閉じ切らない紙。消されない卓上灯。今日片づかなかったものと、明日触るべきものと、そのどちらにもまだ属しきらない一冊。

 それら全部が、律の席の上に並んでいる。


 席はある。

 通えるようにもなった。

 だが、その席は見学者のためのものではもうないのだと、灯りの当たり方だけで分かった。


 律は息を整え、白い方の記録束ではなく、黒い薄資料の表紙を指先で一度だけ押さえた。

 冷たい。

 紙の温度ではなく、まだ机上の外へ半分足をかけた案件の温度のように思えた。


 鷲尾の来訪は、今日も不穏のまま終わらない。

 来すぎる。知りすぎている。説明は足りない。

 その三つの違和感を置いていくたびに、特処室の日常の下に、別の圧力線だけが細く走り続ける。


 そして自分も、その圧の外にはもう立っていない。


 「灰原」

 和泉が最後に呼ぶ。

 「はい」

 「明日も来ますよ」

 確認ではない。

 律は短く答える。

 「はい」

 和泉はそれだけで十分らしく、少しだけ顎を引いた。

 「じゃあ、今日はそこまでで」


 今日は。

 その言い方に、明日の先がもう続いている。


 律は椅子を引きかけて、もう一度だけ机の上を見た。

 半歩だけ前へ出たような気がする。

 だが前へ出た分だけ、安全な後ろへ戻る距離も少し伸びている。

 この場所に慣れてきたからこそ、その半歩がどれだけ仕事に近いかも、前より分かってしまう。


 灯りはまだ消えない。

 希望のためではなく、未処理の線と、次に触るべき紙と、言い切られなかった判断の間を照らし続けるための灯りだ。


 律はその明かりの内側で、席の横に立ったまま、少しだけ息を止めた。


 次は、座って読むだけでは済まない。


 そう思っても、部屋の中ではまだ誰かの紙をめくる音がしていた。

 机の上に残った資料も、消されない灯りも、今日がまだきれいには閉じていないことだけを静かに示していた。



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