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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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18/22

片づかない平常

昼の時刻を知らせる音は、廊下の向こうではっきり鳴ったのに、特異事案処理室とくいじあんしょりしつの中へ入った頃には、もうただの区切りにしか聞こえなかった。


 鷲尾恒星わしお・こうせいが二度目の追加資料を置いていってから、室内はむしろ少しだけ忙しくなっていた。紙が増えたぶん手が止まるのではなく、分ける先が増える。時谷一真ときたに・かずまは照会票と補正前写真を机の上で三つに割り、根守亮ねもり・りょうは受け取った画像を時刻順に並べながら、映像ログの欄へ新しい印を足していた。灰谷真はいたに・まことは聞取票の端を折り返し、設備側へ回す順番を書き直している。大神慎司おおがみ・しんじは追加分の簡易図を見たあと、すでに別件用に開いていた装備箱の中身まで一度並べ直していた。


 休憩時間、という空気にはならない。


 ただ、誰かが「昼だな」と言う代わりに、和泉恒介いずみ・こうすけが自分の机の引き出しを閉め、立ち上がった。

 「灰原」

 呼ばれてりつが顔を上げると、和泉は財布だけ持っていた。

 「食べますよね」

 問いの形をしているのに、確認ではない声音だった。

 「……はい」

 「はい、じゃなくて、食べる」

 和泉はそう言って扉へ向かいかけ、それから時谷の机を見た。

 「班長、何か要ります」

 「固形なら何でも」

 「雑ですね」

 「選ぶ時間が惜しい」

 「根守さんは」

 「コーヒー」

 「以上?」

 「以上」

 「灰谷さん」

 「温かいもの」

 「ざっくりしてるなあ」

 「冷たいと喋る気が死ぬので」

 和泉は肩をすくめ、大神の方を見る。

 「大神さん」

 「戻ってからでいいです。先にこの封緘札ふうかんふだだけ切ります」

 「じゃあ後で何か持ってきます」

 最後に、部屋の奥を一度だけ見た。

 板倉鋼司いたくら・こうじの机は空で、藤丸修司ふじまる・しゅうじの椅子には誰も座っていない。梅垣大悟うめがき・だいごの席も、薄い資料束と消えていない卓上灯たくじょうとうだけが残っている。

 和泉はその空席群へ向かって「戻ってるなら自分でどうぞ」と言い捨てるように呟き、そのまま出ていった。


 律はその後ろ姿を見送り、また机へ視線を落とす。


 昼になったから止まるのではなく、止まらない仕事の途中で、食事だけ差し込まれる。

 さっきまでその机にいた人間が、次の十分には別の場所にいてもおかしくない。

 空いている席も、ただ留守なのではなく、戻ってきていない途中か、これからまた使われる途中に見えた。


 根守が画面を見たまま言う。

 「灰原」

 「はい」

 「写真四枚目、左端の影、同じ位置で止まってるように見えますか」

 律は立ち上がって端末の横へ寄る。画面の左隅、壁の継ぎ目に沿った細い影。二枚目と三枚目では少し流れ、四枚目でだけ不自然に揃っている。

 「……完全に同じじゃないです」

 「どっち」

 「止まったというより、戻った感じがします」

 「根拠」

 「三枚目で一度薄く外れてるのに、四枚目で元の線に近づいてる。固定されたなら、そのまま詰まるはずです」

 根守が一度だけ眉を上げる。

 「見え方としては」

 「はい」

 「じゃあその言い方で残してください。“停止”じゃなくて“復帰寄り”」

 律は頷き、自分の席へ戻る。見えたことを、そのまま書いてはいけない。言い換えなければ記録にならない。ここ数日で、そういう手順だけは少し分かり始めていた。


 だが、分かり始めたという感覚にも、妙な重さがある。


 学園にいた頃は、昼休みには昼休みの輪郭があった。訓練の前、訓練のあと、授業の合間。時間が区切られていること自体は変わらないのに、ここでは区切りが人を休ませるために使われていない。案件を次の処理へ回すため、空腹で手が鈍らないようにするため、戻ってきた人間が次の言葉を出せるようにするための区切りだ。


 和泉が戻ってきたのは十分ほど後だった。片手にコンビニの袋、もう片手に紙コップを四つ挟んでいる。

 「落とさないでくださいよ」

 灰谷が言う。

 「落としたら今日一日、僕の失点にされるんで大丈夫です」

 「その言い方だと、普段なら落とすみたいに聞こえます」

 「落としたことはないです」

 「言い切る人ほど危ないんですよね」

 和泉は返事をせず、買ってきたものを机ごとに置いていった。時谷には片手で食べられるバーと紙パックの飲料。根守にはブラックコーヒーと小さなサンドイッチ。灰谷には湯気の残るスープとおにぎり。律の机には包装を破りやすいパン二つと、野菜ジュース。

 「食べながら見られるやつにしました」

 和泉がそう言う。

 律は礼を言いかけて、少し遅れた。

 「……ありがとうございます」

 「どういたしまして。あと、食べながら見ていいですけど、こぼしたら自分で拭いてください」

 「はい」

 「そこは即答なんだ」

 和泉は笑いそうになって、笑いきらなかった。


 食事が始まっても、部屋は静かにはならない。

 紙の擦れる音。キーボードを打つ音。スープの蓋を開く短い音。誰かの喉が一度だけ鳴る音。灰谷がどこかへ短く電話を入れる声。「はい、今の言い方だと残らないので、時間だけもう一度ください」「違います、責めてるわけじゃなくて、順番だけ必要なんです」


 律はパンを一口かじりながら、自分の前のメモへ視線を戻す。

 補正前写真の影。仮固定の打点位置。証言側の空白。設備報告の語尾の揺れ。鷲尾が持ち込んだ資料は薄かったのに、そこから派生した確認項目は机の上で増え続けている。紙を減らすための仕事が、最初は必ず紙を増やす。片づけるために、いったん散らす必要がある。特処室の日常は、その繰り返しで回っているのかもしれないと律は思う。


 扉が開いたのは、その最中だった。


 先に入ってきたのは板倉だった。大きめの硬質ケースを片手で持ち、反対の肩には細かな粉が残っている。服そのものは乱れていないのに、戻ってきたばかりだと分かる空気がついていた。後ろから入ってきた藤丸は、透明封緘袋ふうかんぶくろを二つ持っている。袋の中には焦げた金具のようなものと、ひびの入った薄い札が見えた。


 和泉が一瞬だけ二人を見る。

 「昼」

 板倉はケースを足元へ置きながら答える。

 「後でいい」

 「冷めますよ」

 「今はまだ戻りきってない」

 言い方はぶっきらぼうなのに、その意味ははっきりしていた。

 食べる前に、置く場所と引き継ぎを先に済ませる。身体が帰ってきても、仕事がまだ外に引っかかっている。


 藤丸は袋を机に置かず、そのまま大神の側まで行った。

 「封緘資材、追加使った」

 「どの番手です」

 「三番と五番」

 大神はすぐに引き出しから控え票を出す。

 「対象は」

 「端末の焦げ片と補助札。まだ開けない方がいい」

 「温度は」

 「落ちてる。ただ、圧が残ってる」

 会話は短い。だが必要な項目だけは欠けない。律はそのやり取りを聞きながら、学園の訓練後報告とは違うと思う。誰が頑張ったか、どこで危なかったかを先に言うのではない。まず残すべきものと止めるべきものの扱いが先に来る。


 時谷がそこで顔を上げた。

 「板倉さん、怪我は」

 「ない」

 「藤丸さん」

 「なし」

 「現場側の安定」

 藤丸が少しだけ考える。

 「今は持つ。ただし、次の波形次第」

 板倉が続ける。

 「人は戻した。物は一部置いてきた」

 「置いた理由」

 「抱えて戻すと別の圧が立つ」

 その一言で、時谷は頷いた。それ以上は聞かない。

 正しいかどうかを今ここで裁くのではなく、次の工程へ落とすために必要なだけを受け取る聞き方だった。


 律はパンを机に置いた。

 戻ってきた者と、まだ戻りきっていない者の差が、服の汚れよりも声の位置に出ている気がした。板倉も藤丸も部屋へ帰ってきている。だが、明かりの当たり方が室内の人間と少し違う。外の反射をまだ身体につけたまま、机上の手順の中へ戻されている途中に見える。


 その少し後、部屋の奥で一度だけ別の扉の音がした。


 廊下側ではない、資料棚の陰に半分隠れた内扉だ。律はまだそこがどこへつながっているのか正確には知らない。倉庫なのか、隣の小会議室なのか、さらに別の処理室なのかも曖昧なままだった。ただ、その扉を使う人間が限られていることだけは分かる。


 出てきたのは梅垣だった。


 コートは着ておらず、シャツの袖口にだけ外気の湿り気が残っている。濡れているというほどではないのに、室内の乾いた紙の匂いと混じると、さっきまで別の場所にいたことがはっきり分かる。梅垣は誰の昼食にも、机の散らかりにも目を止めず、まっすぐ板倉の足元のケースを見た。

 「戻した方は」

 板倉が答える。

 「全部」

 「置いた方は」

 「一部」

 「理由」

 「抱えると崩れる」

 梅垣は短く頷いた。それで確認は終わりらしい。藤丸の机の端に置かれた封緘袋へ視線を流し、今度は大神へ向く。

 「退路」

 「組み直しました」

 「何分」

 「最短七分、押して十」

 「十は遅い」

 「だから車両位置を変えます」

 梅垣はそれにも頷くだけだった。賛成とも不満とも言わない。だが、その短いやり取りだけで、部屋の空気が一段締まる。誰かを叱ったわけでもないのに、ここで扱っている仕事がまだ机の上だけには閉じていないことが、改めて見える。


 律は無意識に姿勢を正していた。


 梅垣はそのまま時谷の机へ歩き、一枚だけ差し出された要約票に目を落とした。読む時間は長くない。だが、紙の上を滑る視線は妙に静かで、必要なところ以外をまるごと切り落としているように見えた。

 「次に同じ戻り方をしたら」

 時谷が視線を上げる。

 「はい」

 「後ろで読むより、前で見た方が早い」

 それだけ言って、梅垣は紙を置き直した。

 言葉は短いのに、律の胸の奥へまっすぐ落ちる。


 前で見た方が早い。


 まだ判断でも決定でもない。ただの現場感覚としての一言に過ぎないのかもしれない。だが、机上の記録を追うだけでは間に合わなくなる線が、すでにこの部屋の中では会話に上がり始めている。

 時谷はそれにすぐ答えなかった。ただ要約票の端を指で揃え、言葉だけを残すように「保留で」と言った。

 梅垣もそれ以上は言わない。そのまま内扉の方へ戻りかけ、途中で律の机の灯りに一度だけ目を止めた。


 視線が合ったわけではない。

 見られたとも言い切れない。

 それでも律は、自分がこの部屋の飾りではなく、もう机の配置の一つとして数えられ始めているのだと、妙に具体的に感じた。


 梅垣が扉の向こうへ消えると、室内の張りは少しだけ解けた。だが、和やかには戻らない。張りが下がっても、仕事の線は切れない。


 大神が棚上の予備灯を一つ点け、すぐに消した。

 点検だったらしい。白い光が数秒だけ装備棚を洗い、封止テープの縁と記録タグの穴を鋭く浮かび上がらせる。

 「予備灯、三番が少し鈍いです」

 誰にというより部屋へ向けて言う。

 和泉が振り返る。

 「交換します?」

 「次の回し先次第です。近距離なら持ちます」

 板倉が水を飲み終えた紙コップを潰しながら言う。

 「遠いなら俺が持つ」

 大神は首を横に振る。

 「持てるかどうかで決めると、後ろが乱れます」

 板倉は何も言い返さなかった。代わりに潰した紙コップをきちんと畳み、ゴミ箱へ入れる。

 それを見て律は、ここでは無造作に見える人間ほど、必要な線だけは踏み外さないのかもしれないと思った。


 昼を過ぎた室内では、食べ終えた包装だけが片づいて、紙そのものは減らない。

 むしろ増える。灰谷の聞取要約が一枚、根守の照合表が二枚、大神の退路差替えが一枚、時谷の工程メモがさらに一枚。藤丸の封緘袋には新しい番号札が付き、板倉のケースの上には回収品の仮票が置かれる。片づけるほど物が増える。処理するほど、残すべきものが前へ出る。


 律はそれを見ながら、学園で思っていた「事件」と、ここで扱われている「案件」は少し違うのだと、また一つ理解する。

 事件は起きた瞬間が目立つ。

 けれど案件は、起きた後にも長く尾を引く。誰が見たか、何を止めたか、どこまで残したか、何を制度へ返せる形にしたか。その全部が終わるまで、部屋の明かりは消えない。


 だからこの場所の平常は、何も起きていない時間ではない。

 起きたものの尻尾を、手放さずに持ち替え続ける時間なのだ。


 律は新しい清書用紙の端を押さえる。

 紙の白さより、卓上灯の輪の方が先に目へ入る。

 自分ももう、その輪の外から見ているだけではない。見えたものを渡すために机へ戻り、次の確認のために席を立ち、また同じ灯りの下へ帰ってくる。その反復が、少しずつ身体に馴染み始めている。


 馴染むほど、後戻りしにくい。


 その感覚だけが、昼の残り香みたいに喉の奥へ薄く残った。


 その逆に、これから出る側の明かりもあった。


 大神は封緘札の控えを書き終えると、部屋の端の装備棚を開けた。ケース、予備端末、携帯灯、封止テープ、薄い記録タグ。道具そのものは派手ではない。だが、並べる手つきに無駄がない。使うためではなく、使わずに済む順番まで込みで整えているように見える。

 和泉がその横へ寄る。

 「次、僕も出ます?」

 大神はすぐ答えない。簡易図と手元の一覧を見比べ、一本だけペンで印を付けた。

 「まだ待機でいいです。ただ、退路車両の位置だけ入れ替えます」

 「了解」

 「灰谷さんの聞取が長引いた場合、設備側へ先に板倉さんを戻す形に変えます」

 板倉は水を一口飲んでから言う。

 「どっちでも」

 「どっちでも、では困ります」

 大神の言い方は静かだが、言葉ははっきりしている。

 「戻るなら戻る、待つなら待つ。そこを曖昧にすると、後ろが全部ずれます」

 板倉は少しだけ目を伏せ、「待つ」と短く言った。


 律はそこに、特処室の日常の別の顔を見る。

 事件が起きた時だけ緊張しているのではない。起きた後に何を残すか。次にどこがずれるか。誰をいつ動かすか。その全部を平時から持ったまま、この部屋は回っている。


 昼食を取っている最中でも、戻ってきた人間の靴底には現場の砂が残り、これから出る人間の机にはまだ署名されていない確認票が置かれている。片づいていないのは単に忙しいからではなく、片づけきった形にしてしまうと次の異常へつながる尾が見えなくなるのかもしれなかった。


 「灰原」

 時谷に呼ばれ、律は姿勢を正す。

 「はい」

 「この写真列、設備報告と証言のどちらにも乗っていない戻り方をしてると言いましたね」

 「はい」

 「言葉を一段落としてください」

 「……一段」

 「危険だ、異常だ、でなく、記録として通る位置に」

 律は口の中で言い直す。

 止まっている、では強すぎる。戻っている、でも曖昧すぎる。

 「反復、ですか」

 時谷は続きを待つ。

 「同一点への固定ではなく、同系位置への反復復帰がある、なら」

 根守が横から言う。

 「その方が残せます」

 時谷も頷く。

 「ではそれで。灰谷さん、聞取側に渡す時は“戻った”ではなく“同じ位置を選び直している”に寄せてください」

 「分かりました」

 灰谷は即答し、聞取票の欄へ書き足す。


 律は自分のノートへ視線を落とす。

 見えたものを、そのまま言わない。

 少し落とし、少し削り、誰かの工程へ渡る形へ変える。

 ここへ来たばかりの頃は、それが見えたものを鈍らせる作業に思えた。だが今は逆だと思い始めている。鈍らせるのではなく、持たせるのだ。場に残り、他人が動ける形にするために。


 灰谷の電話が終わる。

 「……はい。ではその言い方で残します。大丈夫です、責任の話はこっちでしますから」

 受話器を置いたあと、彼は小さく息を吐いた。疲れているというより、まだ会話の向こう側を切れていない顔だった。

 和泉が紙コップを一つ机の端へ滑らせる。

 「温かいうちにどうぞ」

 「ありがとう」

 灰谷は受け取るが、すぐには飲まない。

 律はそれを見て、戻ってきた人間が必ずしも外から帰ってくるとは限らないのだと分かる。電話の向こうから戻りきれないまま、机に座っている人間もいる。


 部屋の奥で、つけっぱなしだった卓上灯が白く紙を照らしていた。昼の光はまだ窓の外にあるのに、資料を読むための灯りは消されない。根守の端末の横にも、大神の装備棚の上にも、板倉が置いたケースの近くにも、小さな明かりがそれぞれ残っている。陽があるから要らないはずの灯りではない。違う位置の仕事を、それぞれの手元で続けるための明かりだった。


 律は自分の机の上を見る。

 パンの袋。書きかけのメモ。補正前写真。時刻欄の空いた確認票。まだ閉じていないノート。どれも中途半端に見える。けれど、この部屋で中途半端に置かれているものは、放置ではなく継続の形なのだと少しずつ分かってきた。


 片づかないのが平常なのではない。

 平常そのものが、片づききらない異常の尻尾を持ったまま続いている。


 そう気づいた瞬間、律は胸の内側が少しだけ重くなるのを覚えた。


 前進しているのだと思う。

 記録の残し方が分かるようになり、誰の言葉がどの工程へつながるかも、少しずつ見えてきた。学園の外の仕事の時間に身体が合い始めている。それ自体は、たぶん悪いことではない。


 なのに、その慣れには戻りにくさが混ざっていた。


 学園へ帰れば昼休みは昼休みとして流れていく。授業のベルが鳴り、訓練の時間が来て、終われば一度区切れる。ここでは違う。昼も途中、帰還も途中、説明も途中、封緘も途中、準備も途中のまま、全部が次の工程へつながっている。終わらないのではなく、終わらせてはいけないものが多すぎるのだ。


 和泉が空になった袋を集めながら、律の机を見る。

 「食べ切りました?」

 「はい」

 「偉い」

 「子供扱いですか」

 「違います。食べるの忘れる人が多いので」

 そう言った視線の先に、時谷の未開封のバーがまだ置かれていた。根守のコーヒーは半分残ったまま冷めかけている。灰谷のスープはようやく手がつけられたところで、大神の分に至ってはまだ買われてもいない。

 和泉はそれを見て、特に何も言わない。ただバーの包装を勝手に半分だけ破り、時谷の手元へ押しやった。

 「食べながらでいいので」

 時谷は一瞬だけ眉を寄せたが、拒まずに受け取った。


 そのやり取りも、律には優しさより運用に見えた。

 倒れないために食べる。次に動けるように温かいものを置く。会話になりきらない短いやり取りの中に、職場の継続だけが残る。


 夕方にはまだ早いはずなのに、窓の外の光は少し傾き始めていた。室内の灯りは逆に増える。端末の画面、卓上灯、棚上の確認灯、複合機の小さな緑。誰かが帰ってきて、誰かがまた出るたび、その明かりだけが変わらず残る。


 板倉はようやく腰を下ろしたが、ケースの留め具にはまだ手を添えたままだった。藤丸は封緘袋を一つ別の箱へ移し、もう一つは自分の机の端に残している。灰谷は証言の要約を短く切り詰め、根守は写真列の番号を振り直し、大神は新しい退路図を印刷する。時谷はそれらを見ながら、別紙へ次の工程だけを書き出していく。


 律も自分のメモを清書用紙へ移し始めた。


 ここへ通うことが、もう特別なことではなくなりかけている。

 朝になれば来て、席に座り、記録を読み、呼ばれれば立ち、見えたものを言い換え、誰かの工程に渡す。そういう反復の中へ、自分の身体が少しずつ入っている。


 居場所になったとは思わない。

 まだそう言えるほど軽くはない。

 だが、明かりの外から覗いているだけでもなくなっていた。


 灯りのある部屋の内側で、片づききらない資料と、戻りきっていない声と、これから出る者の装備の間に、自分の机がある。


 律はその事実を、いまさらのように受け取る。


 机上の観測だけでは、たぶんそのうち足りなくなる。

 まだ誰もそれを言い切ってはいない。時谷も、和泉も、ここではまだ口にしていない。

 けれど、片づかない平常の中で、自分の席だけがいつまでも安全な見学席でいられる気は、もう少しずつ薄れていた。


 律は手元の灯りを少しだけ寄せ、紙の端へ落ちる影を見た。


 昼はとうに過ぎている。

 それでもこの部屋の明かりは、休むためではなく、次へ渡すために点き続けていた。


 外ではまだ夕方にも届いていないはずなのに、室内だけが少し先の時間に入っているようだった。

 窓からの光は斜めに薄くなっていくのに、机の上の灯りはむしろ仕事の輪郭をはっきりさせる。昼食の名残も、戻ってきた靴の汚れも、出る前の確認票も、どれ一つきれいには終わらないまま、それでも次へ渡す形だけは整えられていく。


 律はペン先を紙へ戻した。

 ここでは、片づかないことが未熟さではない。

 片づけきれないものを抱えたまま、平常を続ける技術そのものが、この部署の仕事なのだと、ようやく少しだけ実感できた。




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