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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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12/22

次に座る席

翌朝、灰原律はいばら・りつは、昨日と同じ建物の前で一度だけ足を止めた。


 止まったところで、行かない理由にはならなかった。昨日の帰り際、自分の席に置かれていた記録束と、次回同席の時刻だけで十分だった。来いとは強く言われていない。だが、来る前提で紙が残されていた以上、行かなければ説明が要る。その順番がもう、学園へ遅刻する言い訳を考える順番より先に来ている。


 朝の空気はまだ冷たかったが、建物の自動扉が開いた瞬間、内側から流れてくるのは外気より乾いた、温度だけを仕事用に揃えた空気だった。受付の前を通ると、昨日は視線で測ってきた警備員が、今日は名前を聞かなかった。端末を見て、短く頷くだけで通した。


 来訪者として確認されたのではなく、予定に入っている人間として処理されたのだ、と律は遅れて気づいた。


 首の後ろがわずかに硬くなる。渡された仮証票には、昨日と同じく「同席者」の表示がある。だが、昨日は貸し出された札に見えたそれが、今日は戻すべきものというより、朝になれば受け取り、夕方になれば返すものとして順番の中へ置かれていた。


 廊下の先では、まだ本格的な人の波ができる前の時間らしい静けさが続いていた。壁の灯りは一つも落ちていない。窓の外は朝の薄さを残しているのに、内側の明かりは最初から夜を想定しているように均質で、時刻の感覚を削っていく。昨日は和泉に連れられて通っただけの距離を、今日は一人で歩いた。そのこと自体は些細な違いのはずなのに、曲がる場所を知っているせいで、かえって戻りにくかった。


 特異事案処理室とくいじあんしょりしつの前まで来たとき、扉は半分だけ開いていた。人を迎えるための開き方ではなく、出入りと声の通りを優先したまま、誰かが閉め切る必要を感じなかった幅だった。


 中から紙をめくる音がしていた。低く抑えた会話が二つ、別の位置で重なっている。金具の噛む音。机の引き出しが浅く閉まる音。戦う場所に入る前の緊張ではなく、もうすでに始まっている場所へ遅れず入るときの音だった。


 律が軽く扉を叩く前に、和泉恒介いずみ・こうすけが中からこちらを見た。


 「おはよう、灰原。入っていいよ」


 声音は昨日と同じだった。肩の力が抜けていて、重さを前に出さない。だが、そこで一拍待って相手の様子を見る余白が、今日はなかった。言い終わる前に手元の紙へ視線を戻している。歓迎でも案内でもなく、遅延のない確認だった。


 律は室内へ足を入れる。


 昨日と同じ部屋のはずなのに、朝の机の並びは別の場所のように見えた。昨日は自分がそこへ入る側だったから、どの席が誰のものかを外から眺めていた。今日は最初に目に入ったのが、自分の席だった。


 部屋の奥へ行きすぎない、だが出入口に近すぎもしない位置。昨日、自分が記録を読まされた机と同じところに、薄い灰色の記録束が二つ、揃った向きで置かれていた。その上に黄色の付箋が一枚。端に短く、午前分、とだけ書かれている。横には黒いボールペン、未使用のメモパッド、資料の角を押さえるための小さな金属クリップ。誰かの私物らしいものは一つもない。だが、空席ではなかった。


 椅子は机の真下へきれいに収められていて、背もたれの角度まで癖がなかった。来る人間を待つ椅子ではなく、来た人間がそのまま引いて座ることを前提に整えられている。


 歓迎の形ではない、と律は思う。


 歓迎なら、もう少しだけ余白がある。言葉がある。説明がある。ここに置かれているのは、余白ではなく手順だった。


 「そこ、昨日の続きね」


 和泉が言った。机の端へ別の封筒を滑らせながら、歩いてくることはしない。


 「昨日読んだ分の後ろに、処理後の追記が入ってる。午前はそれ見て、気になったとこに印つけといて。十時から短い同席入るから、その前に一回切る」


 律は席へ近づきながら頷いた。「……分かりました」


 「分かんなくても大丈夫。分かんない場所がどこか分かれば、それで進むから」


 軽い言い方だった。慰めのようにも聞こえる。だが、実際に渡されているのは気休めではなく作業の基準だと、言い終わりの速さで分かった。


 和泉はすでに別の机へ戻っていた。壁際では大神慎司おおがみ・しんじがケースを開き、装備というより持ち出し物の点検に近い手つきで中身を並べ替えている。机上の端末を挟んで、時谷一真ときたに・かずまが紙の束を二つに分け、その横で根守亮ねもり・りょうが映像ログらしい画面を無音で送り返していた。奥では灰谷真はいたに・まことがコップの水を半分だけ飲み、まだ誰も座っていない面談用の椅子へ視線をやっている。室内にいる全員が別々のことをしているのに、遅れている感じがしない。始業の合図がまだ鳴っていないだけで、始まってはいる。その始まりに、自分の席だけが最初から含まれていた。


 律は椅子を引いた。


 脚が床を擦る音が、思ったより小さかった。滑りが整えられている。音で存在を知らせる余地まで削られている気がして、座る前に一度、指先へ力が入る。机の上に手を置くと、天板は夜の冷たさをまだ少し残していた。その冷えが、今から自分が体温を渡すぶんだけ使われるもののように感じられた。


 座る。


 それだけの動作で、部屋の見え方が変わる。立っていたときより、他人の手元が見えにくくなり、代わりに自分の机の上のものが中心へ来る。読めと言われた記録束。午前分と書かれた付箋。未使用のメモパッド。椅子に身体を預けた途端、ここは見学者の位置ではなく、処理の途中に置かれた作業席になった。


 窓際の時計を見る。学園の一限が始まるより少し前だった。


 この時刻なら、教室ではまだざわめきが残っているはずだと思う。出席の返事。椅子の引かれる音。担任の声。黒板に今日の日付が書かれる音。頭の中でそれらを並べてみても、この部屋の蛍光灯の白さが先に残った。比べられるうちは、まだ遠ざかり切っていないのかもしれない。だが比べる必要がある時点で、もう同じ場所にはいない。


 記録束の一枚目を開く。


 昨日読んだものと同じ案件名が、より細かい追記つきで頭に並んでいた。処理完了。帰還確認。再発防止のための封鎖点検予定。関係者聞き取りの補足。簡単な単語だけなら分かる。だが、読み進めるほど、終わった案件の紙ではなく、終わらせたあとにようやく本体へ触れ始める紙だと分かってくる。


 現場記録には、昨日の段階で読んだ報告より短い文が増えていた。誰がどこで入ったか。退避誘導の順。封鎖完了時刻。持ち帰り物の一覧。回収対象に含めなかったもの。採用しなかった判断の理由。どれも結果を書いているようで、結果だけではなかった。この部署では、起きたことを残すだけでなく、起きたあとに何を制度へ戻せる形にしたかまでが一件の記録になるらしい。


 律は視線を止める。


 回収対象外。現場保存優先のため、接触せず。


 短い一行の中に、置いてきたものの重さがまったく書かれていない。だから軽いのではない。ここでは、重さをそのまま書くのではなく、次に再現できる形へ圧縮するのだと分かる。そうしなければ、次に同じ場が来たとき、誰も戻せない。


 「そこ、昨日の見立てと比べていいよ」


 和泉の声が飛んできた。こちらを向かないままの言い方だった。


 「変わってるとこだけ拾ってもいいし、変わってないとこでもいい。どっちでも、理由が見えれば」


 律は返事の代わりに、昨日つけた小さな印の位置を思い出す。危険の出方が、報告書になると薄くなる場所。逆に、現場では目立たなかったのに、後から読むと不自然に硬い語が並んでいる場所。あの時点では、どちらもただ気になるだけだった。今は、その気になり方の種類を切り分けろと言われている。


 ページをめくる指先が少し乾く。


 違和感がある。けれど、その違和感を危険と同じ強さで扱っていいのかは分からない。危険線きけんせんが出るときのような切迫はない。ただ、ここで使われている言葉の硬さと抜けが、均一ではなかった。全体を整えた人間と、整えきれなかった人間が混じっている感じがする。現場の揺れが残っている、というより、揺れを残すべき場所と消すべき場所の判断が最初から入っている。


 律はメモパッドの一枚目へ、短く書く。


 ・封鎖完了時刻の前後だけ報告語が整いすぎる

 ・接触せず、の理由が現場判断か後処理判断か分かりにくい

 ・帰還確認後の追記が最も具体的


 書いてから、これは感想に近いのではないかと思った。だが、破り捨てる前に根守がこちらを見た。


 「感想でもいいよ。最初は」


 静かな声だった。いつから見ていたのか分からない。


 律は顔を上げる。「……曖昧でも、ですか」


 「曖昧な場所がどこか、は消えないから」


 根守は画面へ視線を戻した。「むしろ、最初から綺麗に言えるなら、その方を疑う」


 それだけ言って終わる。説明は続かない。正しさを与えるでもなく、励ますでもない。ただ、ここで求められているのが完成した判断ではなく、判断が揺れた場所を残すことだと分かる。


 律はもう一度、記録へ目を落とした。


 室内の音が少しずつ身体へ馴染んでくる。紙のこすれる音。端末の軽い通知音。ケースの留め具を閉じる金属音。誰かが歩く靴音が近づき、途中で進路を変える。どれも大きくないのに、途切れない。昨日は一つひとつの音に身体が反応していた。今日は、それぞれが別の作業の継続だと分かり始めている。分かるほど、ここへ来ることが特別ではなくなっていく。そのことが、安心ではなく、妙に薄い怖さになった。


 室内の時計が一つ進む。


 大神がケースを閉じ、持ち出し票を時谷の机に置いた。時谷はそこへ目を落とし、別の資料へ赤い付箋を挟み、和泉へ何か短く告げる。和泉は頷いて、律の机の横を通り過ぎざま、一枚の紙を追加で置いた。新しい案件ではなく、午前十時の同席対象と書かれた簡単な指示票だった。担当名、席位置、記録種別。必要な語しかない。


 「あと二十分くらい」


 和泉は歩きながら言う。「そこまでで区切れそう?」


 律は紙と記録束を見比べる。「……はい。たぶん」


 「たぶんで十分。読んでて、止まる場所あったら印だけつけといて」


 和泉はそこで初めて少しだけ笑った。「どうせ最初は、止まる方が仕事になるから」


 昨日と同じ調子のようでいて、言葉の置き方はやはり違っていた。様子を見るための会話ではない。止まることまで工程に入れた言い方だ。


 律は小さく息を吐く。喉の奥の乾きが少しだけ下がる。


 記録をさらに読み進めると、現場担当者の簡易所感の欄に、短い一文があった。


 ――対象は戻した。だが、戻ったあとに何をどう説明するかは別件。


 律はそこでページを押さえた。


 昨日からずっと部屋の中にあった感覚の正体が、それに近い気がした。ここでは、戻すことだけでは終わらない。戻したあと、残るものをどう扱うか。誰の記録へ、どの言葉で、どの順に返すか。そのために、現場の後ろ側にこれだけ人がいる。和泉が「戻せたか」と「終わったか」を分けていた意味も、少しだけ手触りになった。


 そして、自分がここへ来ている理由も、戦うためではなく、その分け方を覚えるためなのだと分かり始める。


 分かり始めた、ということ自体が重かった。


 危険を見ることは、自分の側の出来事だった。見える、見えない、間に合う、間に合わない。だが、ここで求められているのは、見えたものを自分の内側で終わらせないことだ。誰が読んでも次に動ける形へ残すこと。あるいは、残せないなら残せないと判断できること。見えたかどうかの前に、仕事になるかどうかが置かれている。


 律はメモへ追記した。


 ・戻した後の説明先まで含めて一件

 ・現場の正しさと記録の正しさは同じではない

 ・終わった報告ほど終わっていない


 字を書きながら、ほんのわずかに指先の震えが減っているのに気づく。慣れではない。まだ足りないものの形が少しだけ見えたからだ。けれど、それで楽になるわけではなかった。足りない形が見えるということは、埋めなければならない形も見えるということだ。


 「灰原」


 時谷の声がした。


 反射的に背筋が伸びる。「はい」


 「十時の同席、記録読むだけでいい。話すのは必要な時だけでいいが、分からなかった点は終わったあとに三つまでに絞って出して」


 律は瞬きを一つ挟む。三つ、という数字が先に引っかかった。


 「多いと、どこで止まったかがぼやける」


 時谷は手元の紙から目を上げずに言った。「少なすぎるなら、それは読めてない可能性がある」


 「……分かりました」


 「分かった、で進めていい。正解を先に作らなくていい」


 そこまで言って、時谷は別の資料へ視線を移した。終わりの合図もない。律の返事が必要最小限の位置へ収まったことだけ確認して、もう次へ行っている。


 やはり歓迎ではない、と律はもう一度思う。


 だが、拒まれてもいない。


 拒否や受容の前に、運用の枠がある。その枠の中へ自分がもう置かれている。だから、来た理由を説明する必要がない。席があり、読むものがあり、時間が切られ、終わったあとに出す言葉の数まで先に決まっている。自由がないのではない。自由に戸惑う余地から順に削られている。


 部屋の奥の照明が一瞬だけ弱く唸り、すぐに元の明るさへ戻った。誰も顔を上げない。その程度の揺れは揺れに入らないのだろう。律だけが少し遅れて天井を見て、すぐ視線を戻した。


 自分の机の上の紙は、最初に見たときよりもう、ただ置かれているものには見えなかった。午前分の記録。十時の同席票。空のメモパッド。どれも、自分がここへ来ることを前提に、昨日の終わりから朝のうちに連続して並んだものだ。


 和泉に顎で示されたのは、部屋の隅に仕切りで切られた小さな面談スペースだった。完全な別室ではない。音を遮り切らず、だが外へ漏れすぎもしない半端な囲いで、話された内容がこの部署の中へ回収される前提だけが見える。


 机は向かい合わせに二脚、横へ一脚。正面の二つが話す者の席で、横の一つは、同席者が口を挟まず記録の流れだけを受け取るための位置に見えた。昨日までなら、それを見ただけで自分が座る理由を探したかもしれない。今日は和泉が何も言わずその横の椅子を軽く引いた時点で、そこが自分の席だと分かった。


 「灰原、ここ」


 それだけだった。


 律は座る。机の中央には案件票が一枚、端には水の入っていない紙コップ、使用済みのティッシュを捨てるためらしい小さな箱。相手を安心させるための場というより、崩れた話を崩れたまま受け取っても机の上が乱れないように整えられている。


 少しして、灰谷が一人の中年男を連れてきた。作業服の襟がよれていて、右手の指先に薄い包帯が巻かれている。被害者本人ではなく、現場にいた設備管理の担当者らしいと、案件票の冒頭で分かった。男は律を見ると一瞬だけ眉を寄せたが、灰谷は説明を長くしなかった。


 「昨日の件の確認です。こっちは記録同席。気にしなくて大丈夫」


 気にしなくて大丈夫、という言い方の雑さのわりに、男はそれ以上こちらを見なかった。説明を受け入れたというより、この部署ではそういうものなのだと早く諦めた顔に近い。律は自分の膝の上でペンを持ち直す。


 灰谷の声は、普段よりさらに抑えられていた。問いは短い。だが、短いまま相手に逃げ場を残さない。


 「最初に音がしたのは、扉が開く前ですか、後ですか」

 「……後、だと思います」

 「思う、でいいです。見た順で言ってください」


 男は視線を泳がせ、喉を鳴らした。「いや、見たというか、最初は音で」

 「じゃあ音からでいいです」


 その会話を聞きながら、律は昨日読んだ記録にあった文を思い出していた。最初に異音を確認、現場責任者が点検対象へ接近。その一行の下に、今は別の言葉が潜っている。最初は音だった。だがその音を、男は最初の報告で書かなかったのかもしれない。あるいは、書いても別の誰かが消したのかもしれない。怖かったからか、順番を間違えたからか、責任が自分へ寄るのを避けたからか。理由はまだ分からない。ただ、人間が話すだけで記録の起点がずれることは、目の前でよく分かった。


 灰谷は責めない。慰めもしない。男が言い淀むたび、曖昧さを削るのではなく、曖昧なまま置いてよい場所と、置いてはいけない場所だけを分けていく。


 「見てないものは、見てないで大丈夫です」

 「分からないなら、分からないで止めます」

 「ただ、順番だけは崩さないでください」


 三つめの言葉で、律は小さく息を止めた。


 順番だけは崩さない。


 危険を見る時にも、同じことが起きる。何が危ないかと、何が先だったかは別だ。先を間違えると、危険の意味までずれる。自分は今まで、危険の強さの方へ先に目が行きがちだった。だがここでは、強さより順番が先に記録へ入る。順番が崩れれば、どれだけ正しい危険を拾っても、後から仕事として使えなくなる。


 律は無意識に、メモの端へ短く書いた。


 ・音→確認→接近

 ・最初の報告で音が落ちた可能性

 ・責任回避と恐怖で順番が入れ替わる


 男の話は十五分もかからず終わった。終わったというより、今日はここまでで切られた、という感じだった。灰谷が確認事項を二つだけ残し、次回の連絡先を告げる。男が去ると、面談スペースの空気は急に薄くなった。さっきまでそこにあった湿った逡巡だけが、机の角へ残ったように見える。


 灰谷は椅子に座ったまま、律のメモへ視線を落とした。「三つ、何にした」


 律は紙を見返す。時谷に言われた数字が頭の中で揃う。「最初の音が、記録の起点から落ちるかもしれないことと。怖さとか責任の置き方で、本人の中の順番が入れ替わることと……」


 そこで一度詰まり、最後の一つを言葉にする。「危険の強さより、ここでは先に順番を固定しないと、後で全部ずれることです」


 灰谷はすぐには頷かなかった。正面の席を指で一度だけ叩き、それから立ち上がる。


 「悪くない」


 短い評価だった。褒めたのではなく、次へ流せる程度には形になっていると確認しただけの声。


 和泉が外から半分だけ顔を出す。「終わった?」

 「終わり。灰原の三つも出た」

 「へえ」


 和泉は面談スペースの机をちらりと見たあと、律へ視線を寄こした。「じゃ、席戻って。その三つ、昼前に一回まとめようか」


 戻る席がある、という言い方だった。


 律は立ち上がり、もとの机へ戻る。離れていた時間は短いのに、自分の椅子の前には新しい薄冊子が一部だけ追加されていた。午前の同席メモと、午後の確認予定。誰が置いたのかは分からない。分からないまま、自分がそこへ戻ってくる前提で紙だけが増えている。


 椅子を引く前に、律は一瞬だけ机を見下ろした。


 同席が終わったから席がなくなるのではない。ひとつ席を立てば、次に座る席が同じ机の上で用意されている。面談の横席。記録を読む机。昼前のまとめ。名前の違う作業が並んでいるだけで、全部が同じ流れの中にある。


 その流れへ、自分は昨日より深く足を入れていた。


 昨日は借りた席だった。


 今日ここにあるのは、借りたまま返されなかった席ではない。次に座る者のために、何も始まっていないうちから準備されていた席だった。


 その「次」が、自分なのだと分かった瞬間、胸の奥で薄く何かが沈んだ。


 嬉しさではない。誇らしさでもない。もう一度来なければならない場所ができた、というだけでは足りない重さだった。学園へ通う朝と、ここへ来る朝が、しばらく並行して続くのだとしても、同じ重さでは並ばない。どちらかに身体が先に慣れれば、そのぶんもう一方は前のままではいられなくなる。


 和泉が室内の時計を見て、面談用の机の位置を少しだけ整えた。灰谷がコップを置く。根守が映像を止める。大神が持ち出し票を一枚差し替える。誰も大きな声を出さないまま、十時に向けて部屋の向きが静かに変わっていく。


 律は記録束を閉じ、付箋を挟む位置を決めた。三つまで。言葉を絞る。そのために、引っかかった場所を選ぶ。


 自分の席の端へ置かれた指先に、机の冷たさはもう残っていなかった。代わりに、室温に馴染んだ平らな硬さだけがある。座っていた時間はまだ長くない。それでも、立ち上がれば椅子の角度がわずかに変わり、自分が触れた形だけが残るだろうと思った。


 部屋の中には相変わらず、消し忘れではない灯りが点いている。


 異常の名残を読むための灯り。戻したあとの言葉を選ぶための灯り。次に誰をどこへ座らせるかまで、夜のうちに決めておくための灯り。


 律は息を整え、指示票を持って立ち上がった。


 呼ばれたから動くのではない。もう、その順番の中に入っているから動く。


 それが分かった朝だった。




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