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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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10/22

遠い朝

自動扉が開いた瞬間、外の朝の冷たさと切り離された空気が頬に触れた。


 対禍霊広域対応機構たいかれいこういきたいおうきこう東棟のロビーは、まだ始業直後の匂いがしていた。清掃の薬剤が薄く残り、受付卓の周りだけがもう先に整っている。床は磨かれていて、窓から入る朝の光を鈍く返した。学園の玄関ホールみたいに掲示物が目に入ることはない。行き先表示は小さく、壁の色とほとんど変わらない。来訪者受付、関係者通路、東エレベーター。必要なことだけが、見つけようとした時にだけ見つかる場所だった。


 律は自動扉の内側で一度だけ立ち止まり、胸ポケットの仮通行証を指先で確かめた。それから受付卓へ向かう。


 制服姿の自分だけが、ロビーの中で少しだけ浮いていた。浮いている、といっても視線を集めるほどではない。出勤途中らしいスーツ姿の男女が数人、自動改札みたいな認証ゲートを抜けて奥へ消えていく。その流れの中に混ざれないだけだ。学園の中なら、始業式の日に制服でいることは何でもない。ここでは、制服であること自体が「来る場所を少しだけ間違えて見える」感じを作っていた。


 受付にいた女性が顔を上げる。

 「おはようございます」

 「おはようございます」

 声を返した自分が、ここではまだ場違いな音をしている気がした。

 「初回受付ですか」

 「はい。外部実習の」

 その言い方を口にした瞬間、胸の奥で何かが一段深く落ちる。昨日まで紙の上でだけ読んでいた言葉を、自分の口でここに置いたからだった。

 女性は表情を変えずにうなずき、卓上の端末を確認する。

 「お名前を」

 「灰原律はいばら・りつです」

 「確認します。学生証と仮通行証をお願いします」


 ポケットから二枚のカードを出す。学園の学生証と、灰色の仮通行証。どちらも同じくらいの厚みなのに、受付卓の上へ並べた瞬間、別の世界に属するものみたいに見えた。


 女性は学生証の名前を一度見てから、仮通行証を機械へかざす。短い電子音が鳴る。

 「本日、九時十分まで東棟二階の受付待機室をご利用ください。その後、担当側で引き継ぎます」

 「はい」

 「こちらに署名をお願いします」


 差し出された来訪者記録票に目を落とす。日付、氏名、所属、来訪先、同行者の有無。そこまでは単純だった。だが、所属欄の下に「在籍先」と「受け入れ先」が分かれている。学校の入館簿では見ない分け方だ。律は一瞬だけペンを止め、結局、在籍先に御影魔導学園、受け入れ先に外部実習受付と書いた。


 その二つの欄を自分の字で埋めると、ようやくはっきりする。

 今日は学園を休んでいるわけではない。

 学園に所属したまま、別の建物へ来ている。


 「ありがとうございます」

 女性は記録票を受け取り、小さな来訪者札を差し出した。「待機室ではこの番号でお呼びします」

 札には三桁の数字だけが印字されていた。歓迎も挨拶もない。ただ順番のためだけの番号だ。

 「エレベーターはあちらです」


 言われた方向へ歩き出し、律は一度だけ振り返った。自動扉の向こうでは、朝の街がまだ薄い色のまま動いている。そこをもう一歩進めば、学園の正門へ向かう流れに合流することも理屈の上ではできる。だが現実には、もう受付票へ名前を書いた。学生証と仮通行証を並べ、受け入れ先の欄を埋めた。今さら外へ戻っても、それは「始業式へ行く」ではなく「ここから逃げる」に近い形になるのだろうと思った。


 エレベーターの中は静かだった。鏡張りの壁に、制服姿の自分と、その後ろに立つスーツ姿の男が並んで映る。男は律を見ない。見ないまま、二階で降りていく律のために扉が閉まるのを待ってくれる。その無言の配慮が、学園の大人たちの気遣いとは違う質感をしていた。腫れ物扱いではなく、来訪者処理の一部として丁寧にされている感じだ。


 二階の待機室は、小さな会議室みたいな部屋だった。窓は広いが開かない。長机が壁際へ寄せられ、椅子が四脚、給水機が一台。掲示板も時計もあるのに、そこに貼られているのは避難経路図と利用上の注意だけだ。学園の待合室なら、行事予定や委員会のお知らせや、誰かが貼り替え忘れた部活動の紙が残っている。ここには余計なものがない。人が過ごすための部屋というより、人を一時的に止めておくための部屋に近かった。


 律は窓際の椅子に座り、封筒を膝の上へ置いた。


 待機室の窓からは、庁舎街の通りが見えた。下を歩く人たちはみな足早で、立ち止まる者が少ない。ビルの谷間を抜ける車の列は整っていて、学園の始業日みたいな浮ついた感じがない。ただ平日の朝が進んでいるだけだ。その中で、制服姿の自分だけが、時間の使い方を少し間違えているみたいに見えた。


 窓際の時計を見る。

 八時二十六分。


 今ごろ、学園ではホームの準備が始まっているはずだった。担任が職員室から資料を持ち出し、教室では早く来た生徒たちが席の周りで立ったまま話している。去年までの同じ時間、律はいつも校舎の階段を上がる足の重さを少しだけ感じながら、でも結局は教室へ向かっていた。始業式が好きだったわけではない。好きだったわけではないのに、「自分もその時間の中にいる」と疑わなくていい朝だった。


 今年は違う。


 違うのは建物だけではない。音の質も、窓の外の流れも、受付で名前を書く場所も違う。何より、自分の朝の一番最初の確認相手が担任ではなく、受付の女性だったことが、妙に現実的だった。


 窓の下を、学生服姿の集団が横切っていくのが見えた。学園の制服ではない。近くの公立校か、別の専門課程へ向かう生徒だろう。彼らはそれぞれの学校へ向かっていて、自分はそのどこにも属さない建物の二階で待機している。なのに、完全によそ者というわけでもない。学生証はまだ有効で、少し後には始業式の席にも着く。所属と行き先がずれたまま両方へつながっている感じが、待機室の硬い椅子より落ち着かなかった。


 去年の春、始業式の朝に自分が何を考えていたか、律はぼんやりと思い出そうとした。教室替えが面倒だとか、去年の座席表がまだ掲示板に残っているとか、そんな程度のことだった気がする。少なくとも、受付で所属欄を二つ書き分けたり、首から下げる札の色を気にしたりはしなかった。三年になる、という事実は去年までなら学園の中でしか意味を持たなかったのに、今年はそれが機構東棟の時計と同じ朝に置かれている。その重なり方が、妙に不自然で、だからこそ現実だった。


 端末が震える。学園の連絡アプリだ。

 『始業式の着席時間に注意してください』

 短い一文と、講堂の座席図の画像。


 律は画面を開き、そのまま閉じた。自分にも関係のある通知だ。短縮参加する以上、知らなくていいわけではない。けれど、その着席時間へ向けて今この待機室で座っているわけではない。通知は手の中に届くのに、身体の位置はもう別の流れに乗っている。そのずれが、昨日よりもずっと視覚的だった。


 待機室の扉が開き、別の来訪者らしい中年の男が入ってくる。作業着姿で、律を見ると一瞬だけ目を止め、それ以上何も言わず給水機の前に立った。彼にとって、自分は珍しい制服姿の来訪者でしかないのだろう。学園で感じていた「どう触れればいいか測る視線」ではない。ここでは、事情の重さではなく、分類の違いとして見られている。その違いがかえって新鮮だった。


 男が五分ほどで呼ばれて出ていったあと、部屋はまた一人になる。


 律は膝の上の封筒を開き、経路図をもう一度見る。二階待機室から九時十分に案内。東棟会議室で事前確認、その後短縮参加のため学園へ移動。始業式が完全に切り離されているわけではない。むしろ学園と機構の両方の時間へ挟まれるように組まれている。だが、その並び方がもう「学園の一日」ではない。


 九時ちょうど、遠くで庁舎内のチャイムのような電子音が鳴った。学園のチャイムとは高さが違う。去年までなら、その時刻は講堂へ移動する列の中か、教室で最後の雑談が広がる時間だった。今は待機室の窓から通りを見ている。取り残された、という考えが一瞬だけ浮かび、律はすぐにそれを打ち消した。


 違う。


 取り残されたのではない。

 自分でここへ来た。


 昨日、観測室で紙に署名した。嫌なら止めるという言葉が誠実ではない段階まで来ていると知ったうえで、それでも行くと答えた。今朝、寮の玄関で出入り簿に「校外実習」と書き、自分で駅側通用口へ向かった。誰かに運ばれてきたわけでも、担がれて連れてこられたわけでもない。線は引かれていたが、その線に足を乗せたのは自分だ。


 そう思い直すと、胸の奥の重さはなくならないまでも、形だけは少し変わった。

 置かれた、という感じだけではない。

 踏み込んだ、という感じも確かに混ざっている。


 もちろん、何の圧力もないところで自由に選んだわけではない。ここまで来る前に、書類も視線も会話も、何度も自分を別の線へ押していた。それでも最後の一歩まで他人に代わられたわけではない。昨日の署名も、今朝の通用口も、受付での返事も、全部自分の声と手で済ませた。その事実だけは、学園から離れていく感覚と同じくらい、きちんと残しておくべきだと思った。


 九時十分ちょうどに、扉がノックされた。

 「三一二番の方」

 外から若い男の声がする。

 律は立ち上がり、「はい」と返した。


 扉の向こうにいたのは、灰色のスーツを着た事務担当らしい青年だった。名札はつけているが、律はそこを読み取らない。読むより先に、彼の視線が制服全体を一度だけ確認し、すぐ必要事項の方へ切り替わるのが分かったからだ。

 「灰原さんですね」

 「はい」

 「これから東棟会議室で確認を行います。始業式への短縮参加を挟む都合上、時間が詰まっているので少し早足になります」

 「分かりました」

 「仮通行証、見える位置へお願いします」


 胸ポケットからカードを出し、首下げの透明ケースへ入れる。制服の上に灰色の札がかかる。その瞬間、鏡がなくても自分の見え方が少し変わったのが分かった。学園生のままではある。だが、それだけでは通れない人間の印が、外からも見える位置へ出た。


 青年の後ろについて廊下へ出る。

 東棟の廊下は直線が多く、角が少ない。壁の色は淡く、床のラインだけが進行方向を教えてくる。すれ違う職員たちは律を二度見しない。見ないまま、首下げの札だけで判断して脇へ寄る。その無関心に近い手際が、逆にここが日常的に「所属の違う者が行き来する場所」なのだと教えてくる。


 エレベーターへ向かう途中、渡り廊下のようなガラス張りの通路を通った。そこから少し遠く、街の向こうに学園の高い訓練棟の上部が見えた。真正面ではない。ビルの間に、切り取られたみたいに少しだけ見えるだけだ。それでも見間違えることはなかった。


 あの向こうで、今ごろ講堂に生徒が集まっている。

 月城も、黒瀬も、同じ制服でそこにいるはずだ。

 去年までの自分なら、今の時刻にガラス張りの通路ではなく、校舎と講堂をつなぐ渡り廊下を歩いていた。


 遠いな、と律は思った。


 距離の話ではない。

 見えているのに、今の自分の時間とは重なっていないという意味で遠かった。


 青年は立ち止まらない。律も立ち止まらない。ガラスの向こうに学園が見えている数秒のあいだ、二人の足音だけが規則正しく廊下へ響いた。そのまま角を曲がると、もう学園は視界から消える。


 消えたあとで、さっきの遠さだけが残った。


 会議室での確認は簡潔だった。氏名、仮通行証番号、短縮参加後の再集合場所、注意事項の再確認。机の上に置かれた紙も、これまで見てきたものの延長でしかない。無駄な説明はなく、同意を求めるというより、手順を一つずつ確認していく形だった。


 「始業式終了後、学園側の誘導に従って東側連絡車へ」

 「はい」

 「単独で戻らないこと」

 「はい」

 「不明点は」

 「今のところありません」

 「分かりました」


 確認が終わり、再び廊下へ出る。今度は東棟の裏口に近い出口から外へ回されるらしい。正面玄関ではない。来訪者の出入りが重なる時間を避けるためなのか、単に最短だからなのかは分からない。ただ、その「普通の入口を使わない」こと自体が、今日の自分の位置をよく表していた。


 外へ出ると、空はもう朝の色を終えていた。薄い青がはっきりし始め、庁舎街のガラス壁が昼の光を反射し始めている。歩道には出勤の流れがまだ残っているが、さっきより少しだけ急がしさが薄い。


 青年が言う。

 「ここから学園までは車です。短い距離ですが、時間優先で」

 「分かりました」

 「始業式、間に合わせます」

 その言い方が、学園に戻すのではなく、間に合わせるという調子なのが妙に残る。


 東側の車寄せには、黒いワゴンが停まっていた。送迎用とも公用車ともつかない、余計な印のない車だ。ドアが開く。律は一瞬だけ足を止め、それから乗り込んだ。


 窓の外を流れる街の景色は、学園へ向かう電車の車窓よりずっと近い。朝の光に照らされた横断歩道、信号待ちの制服姿、コンビニ前に立つ会社員、正門へ向かう学園のバス。どれももう始業日の朝として動いている。その流れと並走しながら、自分だけが機構の建物から学園へ向かっている。


 普通ならありえない順番だ。


 取り残されたのではなく、自分で別の線へ踏み込んだ。

 さっき待機室でそう思い直したはずなのに、車窓の向こうに正門方面へ歩く制服姿が見えるたび、その実感はまた別の角度で刺さる。


 車は正門の正面ではなく、東側の教職員用通路へ回り込んだ。門の外には始業式へ遅れまいとする生徒の流れがまだ少し残っている。だがこちらはその列と交わらない。警備員が車を一度だけ確認し、門が開く。学園に入ったのに、入学式や始業式の日の高揚は一つもない。ただ、既に別の時間を一度通ってから戻ってきた感じだけがある。


 窓越しに、講堂へ急ぐ三年生の一団が見えた。鞄の持ち方も、歩幅の速さも、去年までの自分が混ざっていた流れとほとんど同じだった。少し早足で、けれど遅刻するほどではなく、式の前だから声はいつもより小さく、顔だけは眠そうで、でもどこか新学期の張りがある。あの列にいないことを、律はもう悲しさだけでは受け取れなかった。自分は置いていかれたのではなく、先に別の受付を済ませてきたのだ。さっきまでいた庁舎のガラス通路も、灰色の札も、確認票も、全部まだ体に残っている。それを消してあの列へ戻ることはできるかもしれないが、戻ったふりしかできないだろうと分かった。


 同じ朝に、同じ制服で、別の順番を生きている。

 その感覚がようやく、痛みではなく輪郭として胸の内側へ収まり始める。


 車が停まる。

 「終了後、こちらへ戻ってください」

 同行していた青年が言う。「案内は学園側へ渡してあります」

 「はい」

 「では」


 それだけで終わる。送り出しの言葉も、激励もない。公的な手順の受け渡しとしては、それで足りていた。


 車を降り、短い外通路を歩く。校舎裏の壁に朝の光が当たり、見慣れた白い外壁がいつもより平らに見えた。ここからならまだ講堂へ向かう列に合流できる。けれど、もうさっきまでいた建物の空気が体に残っている。学園へ戻ってきた、というより、学園の予定の途中へ外側から差し込まれた感じの方が近い。


 講堂前の通路では、学園側の教員が一人待っていた。手元に出席確認用の紙束を持ち、廊下の端に立っている。

 「灰原、来たか」

 「はい」

 「席はこっちだ。式が終わったら東側通路へ戻れ。連絡は受けている」

 「分かりました」

 案内する歩幅も、必要事項だけを渡すためのものだった。余計な説明はない。

 「向こう、どうだった」

 歩きながら教員が小さく訊く。

 律は少しだけ考える。

 「遠かったです」

 教員は一度だけ律を見た。

 「距離か」

 「それもです」

 「そうか」

 それ以上は続かなかった。今はまだ、そこを細かく言い分ける言葉が自分の中で固まりきっていない。


 講堂の扉が近づく。中からは着席を促す教員の声と、まだ落ち着き切らないざわめきが漏れてくる。去年までと同じ始業式の音だった。なのに律の中では、もう今日の朝は半分終わっている。始業式はこれから始まるのに、自分はすでに別の受付で名前を告げ、別の建物の廊下を歩き、別の札を首から下げたあとだ。


 律は講堂の中へ足を踏み入れた。


 空調の乾いた風と、人数の多い部屋特有の熱が一緒に押し寄せる。椅子の脚が床を擦る音、壇上のマイクを確かめる短いノイズ、整列を急がせる教員の低い声。どれも去年までと変わらない始業式前の音だった。変わらないからこそ、さっきまで自分がいた待機室やガラス通路の静けさが、別の朝として身体に残っているのが分かる。


 席へ向かう途中、顔見知りの生徒と一度だけ目が合った。相手は何か言いかけたが、今ここで声をかける場面ではないと判断したのか、小さく顎を引くだけで済ませた。律も同じように返す。それで十分だった。自分は今、学園の列から完全に外れた異物として戻ってきたわけではない。ただ、同じ始業式の朝を、皆と同じ順番では通っていないだけだ。


 去年までなら、この席へ着くまでの数分に考えていたのは、担任の話が長いかとか、最初の訓練が何限に入るかとか、その程度のことだった。今日は違う。首から外した札の重さがまだ掌に残り、仮通行証は胸ポケットの内側で小さく硬い。式が終わったあと、自分はまた学園の流れから抜けて東側連絡車へ戻る。今座るこの椅子も、今日一日の中心ではなく途中の席にすぎない。そのことが、始業式を余計に遠く見せていた。


 遠い朝だった。


 学園から離れたから遠いのではない。

 学園の始業時間より先に、別の朝を一つ通ってしまったから遠い。


 けれど、それは誰かに押し出されただけの遠さではない。署名したのは自分だ。今朝、通用口へ向かったのも、受付で所属欄を埋めたのも、自分の足だった。そのことまで含めて、この遠さは自分のものになっている。


 「灰原」

 席へ入る直前、先導していた教員が低く呼ぶ。

 「はい」

 「ここからは学園の段取りに従え」

 その言い方は、慰めでも確認でもない。区切りを教えるだけの声だった。

 律は小さくうなずく。

 「はい」


 律は講堂の中へ足を踏み入れた。




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