第一話:選ばれたのは勇者ではなく、少女だった
その日、城の地下で、ユイは初めて「外の世界」に触れた。
城は今日も美しい。磨き抜かれた床は窓からの光を柔らかく撥ね返し、廊下は端から端まで整えられている。花瓶の水位は一定で、カーテンのひだは左右対称。誰もがそれを当然と思い、誰も口にしない。完璧であることが、あまりに深く日常に溶け込んでいるからだ。
ユイ・オデット・ローゼンベルクは、その「当然」の中心に置かれていた。
午前は礼法、昼前は歴史、午後は舞踏。休憩の紅茶は温度が決まっていて、砂糖の数も決まっている。靴紐の結び目が左右で揃っていなければ、侍女が気づいて直す。もっとも、ユイ自身も直される前に気づいてしまうのだが。
そういう癖が、いつから身についたのかは覚えていない。
けれど、今日に限って、時計の針の進み方が妙に遅く感じられた。午後のバレエまで、珍しく「余白」がある。
部屋に戻れば、きっと誰かが本を用意して待っている。いつも通り、退屈ではない。退屈でないよう、あらかじめ整えられている。
――それなのに。
ユイの足は、いつの間にか廊下の角を曲がっていた。
表の回廊ではない。飾り気のない裏通路へ。衛兵の視線が届きにくい、城の奥へと向かっている。
そこへ向かう自分の足取りが、奇妙なほど静かで、迷いがないことに、ユイは気づいてしまっていた。
「……迷子みたい」
口に出してから、首をかしげる。迷子になるはずがない。ここは自分の家だ。廊下の幅も、段差の位置も、歩かなくても分かる――はずなのに。
壁の装飾は古く、燭台は使われていない。磨かれた城の「表」に比べると、ここだけ時間が別の速さで進んでいるようだった。空気が冷え、石の匂いが強い。
――戻るべきだろうか。
そう思ったのに、戻るための動作が体に出なかった。代わりに、足がもう一歩進んだ。誰に言われたわけでもない。誰かに褒められるわけでもない。なのに、胸の奥が小さく、透明に震えた。
通路の先に、鉄の扉があった。
重く、分厚く、装飾もない。取っ手の代わりに古い鍵穴がある。
「……倉庫?」
扉に耳を当てる。
――音がした。
人の息づかいだった。遠いようで、近い。眠っているのか、耐えているのか分からない、静かな呼吸。
城の地下に人がいる? しかも、この場所に?
本来なら、大人を呼ぶべきだ。騎士か、侍女か。そういう判断の手順は、教え込まれている。
けれどユイは、その手順を踏まなかった。
「……誰か、いらっしゃいますか?」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。扉の向こうで、わずかに気配が動く。
「……子供?」
低く澄んだ声だった。疲れているのに、芯がぶれていない。
その声を聞いた瞬間、ユイの背筋が伸びた。礼儀作法の授業で身についた反射ではない。もっと別の、理由の分からない反射だった。
鍵は意外にも、扉の脇に掛けられていた。隠されてもいない。壊されてもいない。まるで、「いつか誰かが来る」ことを前提に置かれているようだった。
鍵が回る音が地下に響く。
ユイは扉を開いた。
中は石の部屋だった。簡素で、冷たく、光が乏しい。床には魔法陣が刻まれ、鎖がそこから伸びている。そしてその先に、鎖に繋がれた女性がいた。
白い衣装は汚れている。けれど姿勢は崩れていない。背筋はまっすぐで、顔を上げる動作に無駄がない。長い金髪。澄んだ銀色の瞳。
目が合った瞬間、女性は一瞬だけ目を細めた。
「……あなたは」
ユイは、呼吸の間も崩さずに答えた。
「ユイ・オデット・ローゼンベルクと申します」
自然に名乗っていた。そうするものだと教えられてきたから。けれど、名乗った声が普段よりわずかに高いことに、ユイは気づいた。
「子爵家の……娘?」
女性はゆっくり息を吐く。
「そう。そうか」
視線が鋭い。ユイを測るように走る。だがそれは敵意ではなかった。刃物で切るような冷たさではなく、暗闇で距離を確かめる目だった。
「私はルセリア・ソルヴィエル・オーレクロフト。……名乗る必要はなかったかもしれないけれど」
その名を、ユイは知っていた。城の蔵書の中に何度も出てくる。聖都に名を轟かせる大主教。人々が祈りの言葉と一緒に口にする存在。
――そんな大人物が、なぜここに?
問いは喉まで来るのに、言葉にならない。代わりに、ユイの視線は鎖へ、魔法陣へ、壁の傷へと滑った。鎖の位置、締め具の構造、錆の度合い。視線が勝手に情報を拾ってしまう。
沈黙が積もり、部屋の冷たさが増した。
ユイは、その冷たさの中で、ひとつだけ確かめたくなった。
「……外って、どんな感じですか?」
ルセリアは目を見開いた。
「……何?」
「外の街とか。海とか……人々の暮らしとか。私、城の外を、よく知りません」
自分が何を言っているのか、半分は理解していた。半分は理解していなかった。問いとして正しいかどうかではなく、この瞬間、口から出た――という事実のほうが不思議だった。
ルセリアはしばらく黙り込んだ。もしかしたら、この根も葉もない言葉に驚きを与えてしまったのかもしれない。
沈黙が続いても、ユイは目を逸らさなかった。逸らしてはいけない気がしたのだ。
やがてルセリアが静かに言う。
「……不思議な子ね」
侮りも憐れみもない。戸惑いに近い声音だった。
「貴女は……怖くないの?」
「何が、ですか?」
「ここが、どういう場所か」
ユイは首をかしげた。怖い、という感情が何を指すのか、頭では分かる。けれど今の胸の動きが、そのどれにも当てはまらない。
「よく、わかりません。でも……」
言葉を探し、そして、言うべきではない気もしたのに、言ってしまった。
「ルセリアさんは、悪い人じゃない気がします」
ルセリアは息を止めた。ほんの一瞬。次の瞬間には取り繕うように微笑んだが、その微笑の角度がわずかに揺れているのを、ユイは見逃さなかった。
「……それは」
言いかけて、やめる。
「……そう思う理由を、聞いても?」
ユイは一拍だけ考えた。理由を探すというより、理由の形に言葉を当てはめるために。
「……声が、きれいだからです」
沈黙。
やがてルセリアが小さく笑った。笑いながら、鎖がかすかに鳴る。
「……困ったわね」
諦めにも似た微笑だった。
「いいわ、ユイ。この退屈な檻の時間は、確かに何かを語るには長すぎますもの」
その日から、ユイは毎日のように地下石室へ通った。
誰にも見つからないように歩幅を調整し、階段の軋む段を避け、扉を開ける時間を毎回そろえる。――そうすれば「異常」は生まれにくい。ユイはそれを、誰に教わったわけでもないのに、自然にやっていた。
ルセリアの語る外の世界は、書物の知識とは違った。光と秩序の神が照らす聖都の白い大通り。水と循環の神がもたらす北の海の匂い。風と運命の神が運ぶ旅人たちの笑い声。
ユイはそれらを、同じ姿勢で、同じ呼吸で、同じ瞬きで聞いた。まるで儀式のように。けれど胸の奥に溜まっていくものだけは、日ごとに少しずつ重くなる。
ルセリアが話を終える頃には、天窓から差し込む月光が青白く床を照らしていた。
「……今日はここまで。あまり話しすぎると、明日のお楽しみがなくなってしまうわ」
「また、明日も来てもいいですか?」
「ええ。誰にも見つからぬよう細心を払えるのであれば、そして貴女が退屈でないのなら、いつでも。……おやすみなさい、小さなお嬢様」
その夜、ユイは生まれて初めて、城壁の向こうに広がる風の夢を見た。
夢の中で、風は匂いを持っていた。潮の匂い。土の匂い。火の匂い。誰かの笑い声が遠くで弾けて、それが怖いものではなく、ただ耳に心地よい音として届いた。
そして夢から醒めたとき、ユイは自分の机の上に置かれた一枚の古い写しを見た。偶然目に入っただけだ。侍女が机の上に置き忘れたのかもしれない。いつもなら戻させる。けれどその紙だけは、手を伸ばしてしまった。
封蝋の痕。古びた紋章。そこに書かれた言葉。
十歳の誕生日の朝、執務室に呼ばれたことを思い出す。父は甘い声を使い、母は涙を浮かべ、羊皮紙には王家直属の紋章が刻まれていた。隣国の強国、ガイア帝国王室からの通知。血の契約にも似た政略結婚の文書。
「お相手の皇子殿下は、お前より一回り年上だが、将来を約束された御方だ。……お前が望むものは何でも贈ろう。宝石か。それともドレスか?」
父の声は優しかった。優しさの形をしていた。
ユイはその場で頷き、笑い、礼を言った。間違えないように。相手が望む反応を外さないように。
それからの日々は、「価値」を磨き上げる時間へ塗り替えられた。礼儀作法、他国の歴史、品格を誇示するための舞踏。侍女たちの視線は子供を見るものではなく、壊してはならない献上品を見るものへ変わっていく。
そして十六歳になった。
朝食の席で、帝国への出発が半年後だと告げられた。母は涙を浮かべた。だがユイは、母の指先が震えていないことに気づいた。涙の理由を、口にしなかった。口にしてはいけない気がした。
「これは本当に、私があるべき生活なのでしょうか」ユイは生まれて初めて迷った。
その感触を残したまま、彼女は紙を丁寧に折り、引き出しに収める。そして気づけば、呼吸はすでに整っていた。整ってしまっていた。
――三日後。
朝の光に包まれる城を背に、ユイは吸い寄せられるように再び地下へ向かっていた。
地下石室はひどく静かだった。天井から落ちる水滴の音だけが、時間の流れを証明している。
鎖に繋がれた白衣の女性――大主教ルセリア・ソルヴィエル・オーレクロフトは、薄く目を開いていた。
「……また、来たの?」
「はい……」
ユイの声は、昨日より少しだけ掠れていた。掠れた理由を説明する言葉が、見つからない。
「今日は……お話を聞きに参ったのではありません」
ルセリアがわずかに目を細める。
「……言いなさい」
ユイは胸の前で手を握りしめた。指が白くなるほど強く。そうしないと、声が崩れそうだった。
「あなたを、助けたいんです」
その言葉は、誰に命じられたものでもない。誰かに教えられた正義でもない。
ただ――彼女自身の心から生まれた願いだった。
その瞬間。
――ギィ……と空気が軋む音。
「へえ」
低く、間の抜けた男の声。
「それが“君の願い”なんだ?」
振り向くと、石室の壁際に一冊の古い魔法書が浮いていた。
ページが勝手にめくられる。
そして――青年が“落ちる”ように現れた。
「初めまして。……あー、それとも『はじめまして』でいいのかな」
十九歳ほどの黒髪の青年。場違いな服装。眠そうで、だらしない目。
「僕はアキ。君の願いをキャッチして、たまたま通りがかった……まあ、『精霊』ってやつだよ」
「……精霊?」
「そう、精霊。……おっと、信じてないね? まあいいや」
アキは肩をすくめ、笑う。
「とりあえず大精霊の僕としては、君の『願い』っていうリクエストに応えて、わざわざ駆けつけた。――お嬢様、ちょっと手伝ってくれる?」
迷いはなかった。
ユイが頷くと、アキは一瞬だけ目を見開き、次の瞬間には楽しそうに笑った。
「なるほど。それじゃあ契約だね」
その言葉と同時に、地下全体が軋んだ。
ルセリアの目が凍りつく。
「待ちなさい!」
鎖を引きずりながら叫ぶ。
「ユイ! それは――」
だが遅かった。
アキが指を鳴らす。
「まずは封印を“解析”しようか」
彼が何気なく口にするその言葉は、ユイには半分も理解できなかった。
けれど――。
いくつかの精霊文字が本の中から飛び出し、壁へ溶け込む。直後、石室全体に刻まれていた強固な封印が、まるで細い糸をほどくように分解されていった。
その瞬間――轟音。
石造りの扉が、外側から強引に押し開かれる。
「……何をしている」
低く冷えた声。
現れたのは、城の主人――ローゼンベルク子爵夫妻。
ユイの父と母だった。
二人はいつも通り、冷酷だが気品ある貴族の顔をしていた。父はステッキを突き、母は扇子で口元を隠す。分解されていく封印と見知らぬ青年を見て、憤怒が露わになった。
「ユイ。こんな場所に来てはならないと、何度も言ったはずだ。帝国の皇子殿下へ嫁ぐ日が目前だというのに、このような薄汚い地下で、化け物と遊んでいる暇があるのか?」
その声は、幼い頃からユイを縛り続けた権威そのものだった。
母もまた、悲しむふりさえせず、娘を「壊れた道具」を見る目で見据える。
「さあ、戻りなさい。お前の人生は、私たちの家を繁栄させるためにあるのよ。わかっているでしょう?」
「それに……」
母の視線が、鎖に繋がれたルセリアへ向く。
「その女に、これ以上近づく必要はありません」
ルセリアの表情が強張った。
「……貴方たち」
静かな声。だが底冷えする怒りが確かにある。
ユイは父と母を見上げた。
「……お父様、お母様」
声は丁寧だった。礼法通りの高さ、礼法通りの語尾。けれどユイの両手は、胸の前で組み直されたまま離れない。
「この方は……悪い人ではありません。閉じ込められている理由も、私は――」
「黙りなさい」
父の言葉が鋭く遮る。
「お前は、何も知らなくていい」
その瞬間、目に見えない“違和感”が地下石室を覆った。
壁の精霊文字が、微かに黒ずみ、光を失っていく。
アキが面倒そうにため息をつく。
「あー……なるほどね」
本のページを指先で弾きながら、軽い調子で言った。
「やっぱり“感応”してたか」
父がゆっくりこちらを見る。瞳の奥で、何かが蠢いた。
「……お前は何者だ」
「ん? 僕?」
「通りすがりの精霊。って言っても信じないでしょ。まあいいや」
次の瞬間。
父の足元から歪んだ魔力が滲み出した。まだ人の姿は保っているのに、空気だけが変質していく。
母の首元の装飾が脈打つように光る。聖教会の正規文献には存在しない、禁忌の紋章。
「……やはり、邪教に身を売ったか」
ルセリアが低く吐き捨てる。
「ローゼンベルク子爵。貴方たちは――」
「邪教の使徒は黙れ!」
父の声が重なった。その声音は、もはや人のものではなかった。
「ユイ。お前も、その“本”も――ここで消す」
殺意が形を持って空間を満たす。
ユイは一歩も引かなかった。引く代わりに、ルセリアの前へ半歩だけ移動した。庇う距離ではない。けれど「間」に入る距離だった。
見れば分かる。目の前の父と母は、まだ人間の姿を保っている。
だが――もう、人ではなかった。
「……ああ、そっか」
アキが頭を掻く。
「これはもう、会話フェーズ終了だね」
軽く指を鳴らす。
次の瞬間――それは、戦闘と呼べるものでさえなかった。
子爵の魔法は、発動の形を取る前に崩壊した。
召喚されかけた魔物も、声すら上げる前にほどける。
音もない。叫びもない。ただ「存在そのもの」を否定される感覚が世界を通り過ぎた。
石床には、物言わぬ二つの骸が転がっていた。それはローゼンベルク子爵夫妻だったもの。
地下石室には、静寂だけが残った。
ユイはその場で膝をつかなかった。叫びもしなかった。視線だけが、父と母だったものを見た。
「……ごめんね」
アキが淡々と言う。
「条件を満たす必要があった」
ユイは返事をしなかった。何かを量るように黙したまま、微動だにせず立っていた。
「同族の血。契約には、ちょうどよかった」
その瞬間。
「――離れなさい!」
ルセリアが叫ぶ。解けかけの封印を無理に抑え込みながら、光の魔力を放った。
「そいつは精霊ではない。悪魔よ!」
アキはようやくルセリアを見る。
「ああ……大主教さん。君を助けた報酬として、神授物、こっちに渡してくれないかな」
その言葉と同時に、ルセリアの指先が、ぎゅっと何かを抱え直す。
それは――小さな棺だった。両手の掌に収まる、十センチほどの小棺。黒曜石めいた艶のある石で作られ、触れた空気さえ冷やすような硬質感を帯びている。
「渡すものか!」
光と闇が激突する――はずだった。
だが結果は一方的だった。
手負いのルセリアは、地面に叩き伏せられる。息を乱し、衣は汚れ、神授物を握る指先は震えている。それでも瞳の炎だけは消えない。
「……はぁ、はぁ……神の遺物を、貴方のような得体の知れない者に……渡すわけにはいかないわ」
「そっか。でも拒否権がないと思ってるけど」
アキは抵抗する間も与えず、神授物を奪い取った。
神授物自身の封印と邪教の術式が複雑に干渉し合う。
それでもアキは不敵に笑い、強制的な解析を始める。
「おっと――……あ、やば」
眉がわずかに跳ねた。指先から意図しない紫色の波動が奔る。
「……あーあ。壊すつもりはなかったんだけどな」
封印の一部が粉砕された瞬間――世界が息を呑んだ。
空気が一変する。物理法則が悲鳴を上げ、絶対的な「個」の存在感に空間そのものが歪み始めた。溢れる。光を拒む色ではない。あらゆる色を飲み込んだ先にある、静謐な無。
その中心で、静かに“少女”が目を開いた。目覚めた瞬間、世界を崩壊させかねない波動が津波となって押し寄せる。
ユイはその場に立ったまま、スカートの裾を握りしめた。握りしめた布が、指の間でくしゃりと音を立てる。その音だけが、ユイが「いまここにいる」証明みたいに感じられた。
ルセリアは呼吸を忘れ、城全体が地震のように震動した。
「有り得ない……ッ」
ルセリアは驚愕する。これほどの波動を放てる生命体は、ただ一種――神以外にあり得ない。
「あー……目覚めの一発目はノイズがでかすぎるね」
アキが首から下げていた銀のネックレスに指を触れた。複雑な回路模様が刻まれた、この世界の工芸品とは明らかに異質な道具。
「『全方位波動減衰』――アクティブ」
スイッチを叩く。透明な波形が放射され、神の波動はぴたりとアキの周囲で静まった。
天災級の事象が、小さな道具ひとつで「管理下」に置かれる。
「よし、これで良し。……おはよ、女神様。随分長く寝てたみたいだけど、気分はどう?」
闇の中の女神が、静かに身を起こす。目覚めたばかりのはずなのに、その瞳には霞ひとつない。世界の理さえ俯瞰する知性が宿っていた。
彼女は自分を抑え込むネックレスと、その持ち主を観察し、鈴を転がすような声で告げた。
「……なるほど。深淵の理を弄ぶ、異邦の悪魔か」
薄い唇が孤高に歪む。
「我が名はノクティラ。異邦の悪魔よ――ひとつ、取引をしないか」
「この不完全な封印を貴様が完全に解くまでの間、貴様の力を我に貸せ。悪い話ではなかろう?」
「いいよ」
あまりにも軽い返事。
「その代わり、条件がある」
アキは指先でユイを示した。
「――あっちにいる彼女。ユイと臨時の契約を結んで、しばらく彼女を保護する。それを認めろ。……それが僕の報酬だ」
沈黙が落ちる。
神の旅に人間を同行させるなど、冒涜に等しい。
ノクティラは宝石のような瞳を細め、無数の可能性を一瞬で計算し――小さく息を吐いた。
「……よかろう」
「その娘の魂に何を見出したかは知らぬが、貴様の観測に私が口を挟むこともあるまい」
神の承諾。世界の因果がわずかに軋んだ。
アキは満足げに頷き、銀のネックレスを取り出してノクティラへ差し出す。
「これ、先に渡すよ。今の君は力が不完全だ。神性の“足跡”が残る」
「これは、その痕跡をぼかす道具。完全には消せないけど、追跡されにくくなる」
実利だけではない。先に渡すという行為自体が、誠意の証明でもあった。
ノクティラは一瞬だけ目を見開き、静かに受け取る。
「……ふむ。臨時契約の締結も許可しよう」
アキがユイの前へ歩み出る。
「ちょっとだけ手を貸して。怖くないから」
ユイは迷った。迷ったのに、手は差し出していた。差し出したあとで、自分が「迷った」ことに気づく。
空中に描かれる契約式。
――だが、その指の影で、アキはもうひとつ小さな道具を滑り込ませていた。
契約陣が光る。
臨時契約――の、はずだった。
次の瞬間、ノクティラの瞳が夜の底へ沈んだ。
「……待て」
空気が震える。
「貴様……何をした」
契約の質が違う。これは神と人の臨時盟約ではない。精霊契約――しかも主従を含む形式。
「ふざけるな……!」
鎖が軋み、夜の力が暴走しかける。
「この私が……ただの人間の契約精霊だと……!?」
あり得ない。あってはならない。だがノクティラは理解してしまう。
今の自分は不完全。封印の残滓に縛られ、自由に力を振るえない。
そして――この悪魔の協力が必要だということも。
怒りが臓腑を焼く。
それでもノクティラは目を閉じ、自らを強制的に鎮めた。
「……覚えておけ」
低く抑えた声。
「この不敬、いずれ必ず精算させる」
アキは悪びれもせず肩をすくめる。
「その時まで、生きてられたらね」
こうして契約は結ばれた。
女神の力が安定し、石室に満ちていた圧力が静まった直後。
アキはゆっくり視線を動かす。次の処理対象を探すように。
目が止まったのは白衣の女性――ルセリアだった。
神の顕現と異界の契約を、すべて目撃してしまった存在。
「さて。次は君だ、大主教」
「……でしょうね」
「正直に言うね。君をこのまま自由にするわけにはいかない。神の不完全顕現と異界契約――それを全部見た君を、教会に帰して無事だと思う?」
ルセリアはゆっくり目を閉じた。
「……ええ」
「選択肢は二つ。ここで死ぬか――それとも、ユイと主従契約を結ぶか」
空気が凍る。
ユイは反射で前に出ていた。足が動いたことに自分で驚く間もなく、ルセリアとアキのあいだに、半歩だけ割り込む。庇うには足りない。だが、線を引くには十分な距離だった。
「――待ってください」
声は小さかった。けれど、言い終えるまで息継ぎをしなかった。
アキが首を傾げる。
「うん?」
ユイはルセリアを振り返らない。振り返ったら、揺れる気がしたからだ。視線はアキに固定したまま、指先でスカートの端を掴み直す。布がわずかに皺になり、その皺だけを整えきれない。
「それは……“選択”と呼ぶ形ではありません」
言い方が、礼法の言葉に寄りすぎている。ユイは自分で気づき、言い直す。
「……少なくとも、私の前では」
アキの眉がほんの少し上がった。面白がっているのか、計算しているのか、判別できない。
「へえ。君、そこに線を引くんだ」
ルセリアが、ユイの背中越しに息を呑む気配を見せた。
アキが続ける。
「じゃあどうする? 僕は“見た者”を放せない。君だって分かってるでしょ?」
ユイは一拍だけ黙った。
この場の全員が何を恐れているか――その“方向”だけは、もう見えていた。
ルセリアが戻れば教会が動く。教会が動けば、城も国も、今夜の“歯車”も、別の音を立て始める。
ユイは深く息を吸う。整えるための呼吸のはずが、喉の奥で一度つかえる。三日前に地下石室の扉を開けたときには、こんなことは起きなかった。
「……分かっています」
それだけ言ってから、ユイは言葉の順番を慎重に選ぶ。
「でも、放さないために“死”を置く必要はないはずです」
「必要かどうかは僕が決める」
アキが淡々と言う。
ユイは、次に“できること”を探す。
三日間、ルセリアは鎖の音を鳴らしながら、外の話をしてくれた。海の匂い、白い大通り、旅人の笑い声。ユイはそれを受け取った。受け取ってしまった。受け取ってしまった以上、今ここでそれを踏みにじるのは――自分の中の「形」が許さない。
ユイはルセリアの前に出たまま、右手だけをわずかに後ろへ伸ばす。触れない。けれど、そこにいると伝わる程度の距離で止める。
「ルセリアさんは――私のところへ戻ってください」
呼びかけが、命令の形になるのを避けるために、語尾だけを柔らかくした。
ルセリアは一瞬だけ目を細め、そして状況を飲み込む速度で微笑みを作る。
「……あなたは、本当に変な子ね」
ユイは返事をしない。返事をしたら、声が乱れる気がしたからだ。
その沈黙の間に、ルセリアが一歩、前へ出た。鎖の残骸が擦れ、石に小さく鳴った。
「私が生きるために契約が必要なら――その契約は結びます」
ルセリアはアキを見上げる。体は傷だらけでも、視線だけは折れない。
「ただし、条件を付けさせてください」
アキが笑う。
「条件?」
「ええ」
ルセリアは言い切った。
「私がユイの従者になるなら、あなたも“同じ土俵”に上がりなさい。あなたもユイと契約を結ぶこと」
アキは一瞬、目を細める。その沈黙は短い。だが、この男にとっての沈黙は、たいてい何かの「書き換え」だ。
「縛れってこと?」
ルセリアが頷く。
「ええ。あなたが最も危険だから。危険なものを一方的に自由にしたまま、私が従者になる道理はありません」
ユイはルセリアの言葉を聞いて、ほんのわずかに肩の力を抜いた。その仕草は、誰にも気づかれない程度だった。
だが、ユイ自身は気づいてしまう。――自分がいま、緊張していたことに。
アキは肩をすくめる。
「……やっぱり、そうなるよね」
そして、驚くほどあっさりと言った。
「いいよ。その条件、飲む」
ユイが目を見開く。整える前に顔が動く。それが悔しくて、すぐに瞬きを一回だけして、視線を戻した。
「本当に……?」
ユイの声は、確認というより、“形の確認”だった。言葉が嘘でないことを、世界に刻ませるための問い。
アキは笑う。
「うん。僕だって、勝手に疑われ続けるのは面倒だし」
その言葉の奥を誰も読めない。
「じゃあ、儀式を完成させよう」
アキが指を鳴らす。
光が立ち上がり、契約の紋が空中に浮かぶ。
そして三重の契約が成立する。
ユイを主とする、聖者ルセリア。
ユイを主とする、夜の女神ノクティラ。
そして――ユイを媒介とした、アキ自身の拘束。
危うい均衡。歪な形。
それでも、今夜だけは――この形でなければ成立しない。
三つの契約が、ひとりの少女を中心に結ばれた瞬間。世界の歯車は、静かに――だが確実に狂い始めていた。




