ひとえき
夜十時。
終電手前の電車に、佐野由佳は乗っていた。
仕事が長引いた帰り道。眠気と疲れで頭がぼんやりしていた。
乗ったのは、いつも使っている私鉄の各駅停車。
次の駅で乗り換えれば、家の最寄りまではあと三駅。
車内はがらがらで、眠るように項垂れたサラリーマンが数人いるだけだった。
車窓の外は、真っ黒だった。
街灯もない。建物の明かりも見えない。
(こんなに何もなかったっけ……?)
そう思った瞬間、電車が急にガタン、と揺れた。
「次は……ひとえき、ひとえき、でございます」
アナウンスが流れた。
(ひとえき……?)
そんな駅、あっただろうか。
聞き間違いかと思って周りを見たが、誰も気にしていない。
ホームには、誰もいない。
駅名の看板だけが、ぼうっと灯っている。
「降りる人はいませんか?」
車内アナウンスが言う。
誰も立ち上がらない。
ドアは開かないまま、電車はまた走り出した。
(変な駅……)
そう思ったとき、不意に気づいた。
向かいの席に、誰か座っている。
いつの間に乗ってきたのか、目を伏せたまま、黒い傘を抱えた女がいた。
顔は見えない。服装は古い。昭和かそれ以前の喪服のようだった。
(こんな人、乗ってたっけ?)
今まで気づかなかったのは、自分が疲れていたせいかと思った。
でも、何かがおかしい。
彼女の存在が、妙に音を吸っているような感覚があった。
次の駅に着いた。
しかしアナウンスはこう言った。
「次は……ひとえき、ひとえき、でございます」
また? と思った瞬間、由佳の背中に冷たいものが走った。
さっき降りたはずの「ひとえき」と、まったく同じ駅に到着していた。
同じ看板、同じ誰もいないホーム。
そして、今度は、黒い服の女が、由佳の隣に座っていた。
顔は見えない。うつむいたまま、じっと何かを待っているようだった。
「……誰ですか?」
思わず声をかけたが、女は答えない。
ただ、わずかに肩が震えているように見えた。
電車は再び走り出した。
窓の外は、やはり真っ暗。何も見えない。
そして、三度目のアナウンスが流れる。
「次は……ひとえき、ひとえき、でございます」
由佳は慌てて立ち上がった。
(おかしい。おかしい。降りなきゃ)
ドアの前に立ち、扉が開くのを待つ。
しかし、駅についても、ドアは開かない。
ふと後ろを振り返ると、黒い服の女が座ったままこちらを見ていた。
目は見えない。けれど、顔全体から「何か」がにじんでいた。
女は口を開いた。 まるで遠い井戸の底から聞こえるような、くぐもった声だった。
「……つぎの、ひとえきで、あなたも」
その瞬間、停車の音がして、アナウンスが響いた。
「次は……ひとえき、終点、ひとえきでございます」
あくる朝。
各駅停車の電車が、一駅手前のトンネル内で停車したまま、発見された。
原因不明の車両トラブル。運転士は意識不明。乗客は、全員いなかった。
ただひとつ、運転席の後ろの座席に、黒い傘だけが落ちていたという。