第44話 お金なんて持ってませんからー!
「じゃあ、仕事に行ってきますね」
「はーい。行ってらっしゃーい」
「お昼前には帰って来られると思いますから。昼食用にいつものパン買ってきます」
「うん。待ってるよ」
フリフリと手を振る師匠に背を向け、僕は玄関扉を開けました。雲で覆われた空。ほんのり湿った土の香り。昨夜から降り続けた雨は、今は止んでいます。
また降り出さないといいなあ。
今日の仕事は、町長さんから依頼されたものです。以前、師匠によって改善された湖の水質について、追加調査を行ってほしいとのこと。といっても、あれから何か問題が起きたというのではありません。水質がきちんと維持されているかの確認をするだけでいいそうです。
「えっと、湖に着いたらまずは……」
僕は、湖へ向けてほうきを走らせながら、師匠からもらったメモを開きました。中には、僕一人でもできる水質調査の手順が書かれています。師匠が付いてきてくれた方が早く終わるんですけどね。なんでも、気まぐれで始めた魔法の研究で忙しいんだとか。
「ん? なんか、いつもより字が綺麗?」
メモに並んでいたのは、整然かつ細かな文字。普段の師匠なら、もっと大雑把な文字を書くはずなのに。突然魔法の研究を始めたり、綺麗な文字を書いたり。珍しいことは続くものです。
「この流れで師匠が家事に目覚めたり…………ないか」
絶対あり得ませんね。天地がひっくり返っても。
さて、気を取り直して。
「湖に着いたら、まずは水を瓶の中に入れて。それから色が変わる魔法を……おっとっと」
僕のすぐ目の前。そこにいたのは、ほうきに乗った魔法使い。もしあのまま飛んでいたら、ぶつかっていたかもしれません。早く仕事を終わらせたくて移動中にメモを見ていたのですが、やめた方がよさそうですね。
「すいません。僕の不注意でした」
メモをローブの内ポケットにしまい、魔法使いに向かって頭を下げる僕。
「いえ」
返ってきたのは、蚊の鳴くようなか細い声。背格好からして大人の男性でしょう。風にはためく灰色のローブ。ローブにはフードが付いており、彼はそれを目深にかぶっています。そのせいで、彼の顔はよく見えません。
変な人だなあ。
「えっと。じゃあ僕はこれで」
違和感を抱いたまま、僕はここから飛び去ろうとしました。ですが、そんな僕の行く手を阻むかのように、彼は目の前に立ちふさがります。
「あの。何か用ですか?」
「…………」
チラリと見えた彼の瞳は金色。とても鋭く、そして不気味に光っていました。
「えっと。僕、今急いでて」
「見つけた」
何かを呟いた彼は、右手をゆっくりと上空へ。その姿は、まるで誰かに合図を送っているかのよう。
ゾクッ!
確かな寒気。このままここにいちゃいけない。本能がそう叫んでいました。
ほうきにありったけの魔力を込める僕。ものすごいスピードで動き始めるほうき。早く逃げないと。そうして手にグッと力を込めたところで。
「あ……れ……?」
僕の意識は途切れました。
♦♦♦
「ん……ここは」
目を覚ますと、見慣れぬ光景が広がっていました。広い部屋。いや、部屋というよりは倉庫と表現した方がいいでしょうか。物が乱雑に捨てられた床。きつい煙草の匂い。ランプの明かりが中を照らしてくれていますが、薄暗くて奥の方まで空間を見通すことができません。どうやら窓もついていないようです。
「って、何これ!?」
その時気がつきます。体の自由がきかないことに。
僕の体は椅子に座らされ、その手足は縄でぐるぐる巻きに縛られていたのです。ちゃんと動かせるのは首くらい。
一体何が起きているのか。僕は、必死に頭を回転させて考えます。
突然途切れた意識。
知らない倉庫。
椅子に固定された体。
…………
…………
なるほど。大体状況がつかめてきましたよ。
つまりこれは。
「夢ですね」
「いや、現実だから」
突然、僕の横から聞こえた声。そちらに顔を向けると、見覚えのある男性の姿。ローブの付いた灰色のフード。不気味に光る金色の瞳。
「えっと」
「なんだお前。今の状況、分かってねえのか」
「お、お恥ずかしながら」
「けっ。あいつの弟子だっていうから警戒してたのに、とんだ拍子抜けだ」
醜悪な笑みを浮かべる男性。悪寒が僕の背中を駆け巡ります。彼から距離をとりたくても、体が自由に動かせないせいでそれもできません。
僕が黙ったままでいると、男性は口角を上げたまま僕の前にしゃがみました。
「いいぜ。じきに分かることだし教えてやるよ。お前は今、俺たちに誘拐されてるんだ」
「……え?」
誘拐?
誘拐って、あの誘拐?
人をさらう的な?
「ははは。間抜けな顔してやがる」
男性が何かを言ったような気がしますが、僕の耳には届きません。
誘拐。
なるほど。
誘拐か。
なるほど、なるほど。
つまり誘拐ってことですね。
なるほど、なるほど、なるほど。
「と、というか! あなた誰なんですか!? なんでこんなことするんですか!? 早く家に帰してください! 僕、お金なんて持ってませんからー!」
僕の悲痛な叫び声が、倉庫いっぱいに響き渡りました。




