第16話 この世で最も残酷な事件
その日、日常が一変するのを感じた。
原因は病院内に響き渡った崩落音――。
只事ではないことは、子供でも理解できた。
「患者の避難を優先してください。アリス、行きますよ」
「わかってますわ」
「俺も行くよ! 逃げ遅れた人が居るかもしれない」
看護師たちに患者を任せ、私達は音のあった方へ急ぐ。
恐らくは空間魔力が涸れていることと関係があるはずだ。
「場所は……診察室、ですか」
見れば、壁が崩れていた。
砂埃が舞っていてよく見えないが、この惨状から察するに街道にまで瓦礫が散らばっているようだ。
「テレジア、確か今はエルドルド先生が居たはずですわ…………」
しかしエルドルドの姿は見えない。
小さな瓦礫がカラカラと落ちるばかりで、あの胡散臭い少年の声は聞こえない。
砂埃を風で吹き飛ばしたいところだが、街道に人が居たら危険だ。
目を凝らして――――何が起きたのか……状況の……理解、を…………
「え…………? セシリア……?」
晴れていく砂埃に、見慣れたブロンドヘアーが見えた。
どうしてセシリアがここに?
ずっと元気だったのに、診察室に来るほどのことがあったの?
「――――ア…………テレジア!! 引きなさい!」
肩を引かれ、後ろへ突き倒される。
その瞬間、視界いっぱいに迫る触手の束を鉄の壁が上書いた。
ハンマーでも打ち付けているような轟音が何度も何度も繰り返される。
やがて音が鳴り止むと鉄壁はバラバラに崩れ、私の視界は再びセシリアの姿を捉える。
「よそ見しているのかしら? 随分と余裕ですわね」
「あ……ぁ? え……あ、アリス……あれは、だって……」
本当に、セシリアなのか。
包帯は解け、異形の瞳がこちらを見ている。
異形の瞳は細い触手を伸ばし、セシリアの顔に纏わりついている。
背中からは、鉄壁を殴っていた太い触手が幾本も生えている。
セシリアの身体は触手によって宙に浮かされて、ぶらんと足が垂れていた。
「――カハッ、ァ……あれは、残念ながらセシリア本人だよ……」
壁を背に座り込んでいたエルドルドが言う。
「え、エルドルド先生! 無事でよかった……すぐに治癒を!」
「いや、こんなのなんてことはない……それよりも今はセシリアだ。あの子、完全に身体を乗っ取られている。原因は十中八九、あの瞳の魔物だろうが……」
テオ様の治癒を制し、エルドルドは私達の顔を見つめる。
「いいか、あれは魔力を吸収するらしい。ボクの魔力が全て持っていかれた。恐らく、魔蝕症患者が最近元気だったのもあの瞳が患者の魔力を吸収していたからだろう……」
空間魔力が涸れていることと類似している。
そして、それだけの大量の魔力を吸収しているのに、私はあの瞳から魔力を感じることができない。
「――まさか不死蝶!?」
「テオくん、あれをご存知ですの?」
「兄さんから聞いたことがあるんだ。魔物の中には他の生物に寄生するのも居る……それが《不死蝶》……」
「寄生……? あの様子じゃ随分前から寄生されていたようですが、おかしいですわ……わたくし、あの方から魔力を微塵も感じていませんもの」
セシリアは魔法使いでもなければ魔蝕症でもない。
だからセシリアから魔力を感じることがないのは当たり前。
しかし体内に魔物が居たとなれば、多少なりとも魔物の魔力を感じることができたはずなのだ。
でも私はわからなかった。
アリスも、エルドルドも気付けなかった。
「寄生することで魔力を隠すことができるんだ……だから過去には寄生されたことに気付かないまま不死蝶を羽化させて、壊滅した村がいくつもある」
テオ様は、セシリアから目を離さずに続ける。
「でも、不死蝶は騎士団の掃討作戦が決行されて、ほぼ狩り尽くされた」
「不死と聞いて焦りましたわ……倒せるんですのね?」
「倒せる……倒せるけど…………不死蝶が不死と言われる由縁は、広範囲の魔力吸収によって宿主の生命を維持することで成立する……限定的な再生魔法なんだ」
「……最悪……ですわね。それはつまり、宿主を殺さなければ不死蝶を殺すことはできないということじゃありませんか」
■■■
テオくんから不死蝶の攻略方法を聞いたあたりから、いや……きっとあの姿のセシリアを見た時から、テレジアの様子はおかしかった。
あの仏頂面は訳もわからないと言った面持ちでゆがみ、眉を八の字にして喉から声にならない嗚咽を吐き出している。
……そりゃあ、そうなりますわよね。
だってその人は、あなたの恩人でもあり、たった一人の家族なのですから。
不死蝶がどれほど危険なのかは、騎士団が掃討作戦を行ったことが物語っている。
掃討した――つまりは、寄生された人達を皆殺しにすることで不死蝶を討伐した――ということだ。
不死蝶によって村が壊滅させられたのではなく、不死蝶の苗床となった村を騎士団が壊滅させなければならなかった。
それは、この世で最も残酷な事件だったことでしょう。
人を守るべき騎士達が、|その作戦を行わなければ《人を殺さなければ》ならないほどに不死蝶は危険な魔物。
……その生き残りが今、セシリアに寄生している。
もし繁殖でもしてしまえば、もっと多くの人が死ぬことになる。
「たす……けて……っ! あ、頭が……割れ、そうなの……っ!」
「セシリア……! 今助けます、だからもう少し頑張って! 私が、必ず――!」
「――ッ、ちが、う……ちがうのテレジア……みんなを助けて……! 抑えきれないっ! 頭の中で、もっと食べたいって、殺せって誰かが叫んでる……っ」
その瞳は魔物のもので、涙を流すことは許されない。
「だからっ、わたしがみんなを殺しちゃう前に……わたしを殺して……ッ!」
セシリアが放った必死の言葉に、テレジアは固まる。
――そんなこと、できるはずがない。
孤児院で唯一残った家族で、自分の目を渡した恩人でもあるセシリアを、テレジアは殺すことができない。
それに、あの言葉を境に不死蝶は触手を伸ばして猛攻を仕掛けてきた。
壁も天井も既にズタボロ。
被害は街道にまで及んでいる。
近付けず、セシリアを殺すことも難しい状況だ。
無力なわたくし達では、セシリアの願いでさえ叶えることができない。
…………いや、きっと、それができるのは――――。
「――――魔眼を使います」
それは、紛うことなき『恩人の家族を殺す』宣言。
使えばまた、罪を重ねることになる。
しかも今度は魔蝕症によるものではなく、理性を持ったわたくし自身の意思で……。
「魔眼……まさか、セシリアさんの死を引っ張るの?」
「えぇ、そうよ」
身構えるテオくんに、迷うことなくそう告げる。
君にはこの魔眼を二度と見せたくなった……けど、そうも言ってられない。
さっきから触手が強靭に、変質し始めている。
わたくしが作り出した鉄壁を圧し折るくらいに。
「ダメ……」
「テレジア……いくら恨んでくれても構いません。一生背負っていきますから」
「だ、だめ……だめです、そんなの、あなたにこれ以上罪を被せるわけにはいかない……!」
素直にセシリアを殺すなと言えばいいのに。
わたくしの心配なんてしてる余裕ないでしょう。
顔に似合わず優しい女。
恩人に恨まれるのは、少々堪えますが……。
「それでもわたくしは罪を着ますわ」
銀縁のメガネを外す。
海色の眼は深海に染まり、セシリアの姿を捉える。
魔獄では、深海色の魔眼だとか、死引の魔眼だとか言われていた。
でも、今は……今だけは。
せめて苦しむことなく……安らかに眠ってほしい。
「魔眼解放……《安楽死の魔眼》ッ!」




