羽
ねぇ。
昔話を、しようか。
今よりずっとずっと昔、幸せの在り処を誰も知らなかった頃の、小さな脆い硝子細工のような。
★★★★★
この世界の人間は皆、一対の羽をそれぞれに持って生きている。同じ色の羽は一つとしてなく、その明暗や光沢もまた同じこと。
羽があると言えど、人は鳥のように空を自由自在に舞うことはできない。それでもその羽は寒い冬に凍える体を覆い、急な雨が降れば傘のようにかざされ、時に愛おしい人を風から守り、生まれたわが子を初めて抱くときには震える両手にそっと添えられる。
そうしていつしかその命を終えたとき。残された人々は、故人が遺した羽を手に在りし日を思い起こすのだ。青い羽を空にかざし、冬の炉火を見て赤い羽を想い、桃色の花びらに紛れて舞う羽に涙を流す。
そんな風に各々が異なる色を日常に纏って、人は羽のある日々を生きていた。
目を閉じればいつでも、あの頃の景色が鮮明に浮かび上がる。まるでそこにあるかのように色鮮やかで、けれど最早決して戻れはしない過ぎ去りし日々の、何より大切な記憶が。
昔は村だったという山奥の土地は開けていて、けれど木々を切り畑を耕したその場所に住むのは物心ついたころからずっと僕と彼女と、そしてそれぞれの両親だけだった。
辺鄙な土地に住み続けることは難しい。たくさんの作物を取ろうにも土地は痩せて食べていくので精いっぱいだったし、ならば獣をと思っても同じくさほどの量が取れるわけではない。そうやって日々を過ごすうちに、いつしか若い村人たちはみな貧しい暮らしに耐えかねた末都会に憧れて山を降り、残った老人たちは寿命に抗うことなく順繰りに天に召され。ただ僕らの親たちだけが、この村で生き続ける道を選んだのだという。
元来多くを求めない性質だったのだろうか。自給自足に不満を抱くことのなかった彼らは人がいなくなった村でも同じような日々を繰り返し、月日は流れて僕と彼女が生まれた。同じ年、同じ春のことだったそうだ。淡々と生きてきた日々に現れた僕らを、その背をくるむ手も羽も喜びのあまり震えていた、と親たちは笑って教えてくれた。
人は、生まれ落ちたその時から一人につき一対の羽を抱えて生きていく。僕が持って生まれたのは明るい茶色の羽。幼馴染であり唯一の遊び相手でもあった彼女は、自らに与えられた深い藍色の両翼をとても気に入っていた。
山の暮らしは変わり映えがなく、集落の残滓のような場所には誰かが訪ねてくることもない。毎日毎日同じことを繰り返すだけの僕らとそれぞれの両親だけの狭い世界は、目新しさも派手さも美しさもなかったけれど、それでもあの頃の僕らは確かに幸せだったのだと思う。
朝日が昇れば、早く起きた方の家族が隣の家に住む家族を起こして一日が始まる。
僕と彼女は家族ではなかったけれど、互いにたった一人だけの同じ年ごろの子供だ。家族同然に朝から晩まで手を繋いで一緒に遊んでいた。
昼間は太陽に照らされて野山を駆け回り、夜になれば澄んだ空の星を数えて二人で笑いあった。遠くに光る都会の明かりを尻目に明日は何の実を取りに行こうかと額を付き合わせて考え、川に飛び込んではびしょびしょに濡れながら魚を獲って。そうやって僕らは、過ぎ行く季節と共にすくすくと育った。ただ同じようにめぐる日々に、何事もなくそばにい続ける互いの存在に満足していた。ほしかったのは変わらない日々だけで、他に望むことなんて何一つなかった。
『おはよう!ねぇ、わたしの羽、きれいでしょ?』
『うん、きれい。』
『ほんとうに?』
『ほんとうに、すてきなはねだね!』
『ふふ、そうでしょ!あなたも、きょうも、とってもすてきな羽!』
『ねえ、すてきな羽でしょ?』
『うん、とっても』
『あしたも、言ってね』
『あしたも?』
『そう、わたしも言うよ、あしたも、あさっても、そのつぎも、ず~~っと。ほんとうにすてきな羽って!』
ね、と両手を握られて頷く。
綺麗でしょう。いつだって彼女は、そんな言葉と共に羽を見せながらくるりくるりと自慢げに回る。はためかせる彼女の羽と、誇らしげないっぱいの笑顔が、僕は本当に好きだった。
————————————それなのに。
もしも人生に運命の歯車なんてものがあるのなら、それが狂い始めたのはきっと彼女の両親が相次ぎ病に斃れた時だったのだと思う。僕らがまだ、ようやく十を越えただけのほんの子供だった頃のことだ。
僕らしかいない山奥には当然医者はなく、十分な薬もなく、病を越えられるか否かは個人の力にかかっている。…目前に迫った冬を前に狩りをつづけた体が弱っていたのだろうか。いっそ呆気ないほどにあっさりと、彼らは一人娘を置いてこの世を去ってしまった。
身近な人が亡くなる経験をしたことのなかった彼女は、両親がいなくなったということが理解できなかったのだろう。それからしばらくの間は一緒に遊んでいても彼女に笑顔はなく、けれど涙を流すことも叫ぶこともせずに。ただ彼らが帰ってくるのを待つかのように、夕方になれば山奥の方をぼんやりと見つめていた。
————彼女の両親の死は、激しい衝撃と悲しみと共に、深刻な問題をも運んできた。食料の不足だ。
彼らが狩りをし、僕の両親が作物を育てる。そうやって暮らしを成り立たせていたのだから、彼女の両親がいなくなっればたちまちのうちに暮らしは困窮した。当然だ、僕の両親に狩りは出来ないし僕と彼女で獲る魚はおやつ代わりにはなってもとても大人の腹を満たせるだけの量には及ばない。
もう少し大人になってからねと言われても、無理やりにでも狩りを学べばよかった。そんな風に悔やんでも、全てはもう手遅れだ。保存食としていくらかの干し肉はあったけれど、それだってその冬をようよう越した頃には切れ端一つ残ってはいなかった。
その気になれば、人は野菜だけでも生きられるそうだ。だけど大して豊かでもない土地の自給自足では肉を補うだけの野菜は採れない。僕の両親はそれでもいいと言ったけれど、育ち盛りに入りかけた僕らはとても野菜だけで生きていくなんて考えられなかった。野菜と果物だけで生きるだなんて、想像だけでお腹がきゅるきゅる鳴る。それに、野菜だけで滋養を付けることはできない。肉が無いままに誰かが病を得たならば、次は僕らが全滅するだろう。
そうならないよう、寒い冬と暑い夏を無事に越すためにはどうにかして肉を手に入れなければいけなかった。
———自力で取れないものは、誰かからか手に入れるしかなかったのだ。
こうして、山の上でひっそり暮らしていた僕らは他人との関わりを持たずには生きられなくなった。
金銭はどうするのだろうと、ぼんやりとした知識しかないながら真っ先に思ったのはそれだった。両親によれば幸いにして僕らが生まれる前に亡くなった老人たちが残してくれていた財があったので、そこは問題ではないのだという。が、そもそも廃れ果てた山奥の集落だ、生まれてこの方行商も旅人もやってきたことはない。恐らくここに人が生きていることを周辺の村や町の人は知らないだろう。この村にいながら外の世界と交流をすることは不可能に等しかった。
山で手に入らないものを手に入れたければ、山を下りる以外の方法は、無い。
『ねぇ、子供たち』
『なぁに、母さん?』
『山の下に、お買い物を頼んでもいいかしら』
『お買い物!?』
ぱぁ、と彼女の顔が明るくなったあの時のことを、今もはっきりと覚えている。
作物の世話で手一杯だった両親は僕と彼女に山裾への買い出しを頼むようになった。好奇心旺盛な年頃だった僕らは喜んで籐の籠を下げ、しっかり手を繋いで長い獣道をてくてく歩いた。
道を下るにつれて現れる、山の上にはいない蝶や鮮やかな緑、降りきった先に広がる僕らの慎ましい暮らしとは正反対の明るく派手な暮らしを楽しむ街の光景。初めて山裾に降りたあの日、山しか知らなかった僕らには見るものすべてが物珍しくて、———大きな目をこぼれ落ちるのではないかというほど見開いてきらきらと輝かせていた彼女は、あの日まで確かに幸福そうに見えたのに。
僕らの何がおかしくて、彼らの何が正しいのかなんて、分からなかったし知ろうとも思わなかった。そのまま一生分からないままでもよかったと、そんな風に思っていた。街に降りるその時まで、僕らは自分たちがおかしいだなんて一度たりとも思ったことはなかったのだから。
だけど。街に降りた僕らを待っていたのは歓迎でも無関心でもなく、驚くほど多くの人からの嫌悪と罵倒だった。
彼らが忌んだのは、僕と彼女の羽の色だった。美しい夜空の深さを纏った深い藍と、春の雪解け水を吸って栄養を蓄える土の色。
都会では人の靴を汚す土は嫌われていて、楽しい昼を終わらせる夜も盛大に忌まれていた。闇色は不幸を呼ぶ色。土色は呪いを表す色。そんなこと山で生まれて育った僕らが知るはずはなかったし、知ったって心底どうでもよかったのだけれども。
だって僕は土や闇を悪だとは思わない。土がなければ作物は育たないし、昼は夜を越えて現れるものなのだから。時間が流れているのだから空の色が移り変わるのも当然のことだ。それのなにがいけないのかさっぱり分からなかったし、それを忌むことこそが街人を街人たらしめるものなのだと理解した今でも、彼らの行動が正しかったのだとはどうしても思えない。
彼女は彼女で、僕は僕だ。それでよかった。それだけで、よかった。
それでいいのだと、いつまでもそう思える僕らでいたかったんだ。
———けれど、街に降りる度に嫌悪の視線や聞こえるような陰口に晒されるのは当たり前。時には直接強い悪意を浴びせかけられて、それでも両親に負担はかけられないと僕らは街に降り続けた。
励まし合って繋いでいた手はいつの間にか離れ離れになって、山へ戻っても二人で野山を駆けまわることはなくなった。同じころ僕は背が伸び始め、彼女は綺麗になった。悪意に晒され、頼る先を失いながら僕らは一人で耐えることを覚えていた。それは、とても歪な成長だったのだと。今でははっきりそうわかる。
行きたくはない、けれど食料を調達しなければ生きられないのだからと嫌がる己をだましだまし山を降りて街人の悪意を受け続け、僕らの心は少しずつすり減っていく。そんな日々に耐えかねて壊れてしまったのは、彼女の方が先だった。
あれほど気に入っていたはずの羽を毟っては嗚咽を漏らし、苦しそうな喘鳴を上げるばかりで家から外には一歩も出ることができなくなった。頼まれたってあげないんだからと笑っていた美しい藍色は彼女自身の手で床のあちこちに散らされ、がらんとした家の中には日がな一日小さくすすり泣く声だけが響く。気づけば、己が翼を愛して幸せそうにしていた彼女はもうどこにもいなかった。
彼女をどうにかしなければとそう思った。だけど、どうすればいいというのだろう。街で薬を買う?彼女に効く薬はあるのだろうか。疎まれる色の僕が尋ねたところで、正しい知識はえら得るのだろうか。
僕の両親は頼れなかった。頼ろうと、思えなかったと言った方が正しいかもしれない。
蔑まれる色合いの羽を持っていたのはなにも僕らだけではなく、彼らもまた暗い色の羽を持っていた。畑仕事は大変だけれど、よくよく考えてみれば日がな一日離れられないほどの仕事量ではないはずなのだ。———訊ねることはできなかった、だけど彼らはもしかすると、知っていたのではないだろうか。僕らのような暗い羽をもつ人々は、街では暮らしていけないことを。知っていて、それで山に残ったのではないだろうか———。
両親を責めようとは思わなかった。誰だって自分が傷つくとわかっている場所には行きたくないだろう。思えば初めから、おつかいを頼むその声は遠慮がちなものだった。無理して行かなくてもいいと言われたことも、一度や二度ではない。きっと何があったか察してかけられたであろうその言葉に、けれど頑なに首を振って街に赴いたのは紛れもなく僕と彼女の意思だった。それに大人たちは買ってきた肉をほとんど食べてはいなかった。僕らが買う肉は、ただ僕らのためだけにあったのだから大人を責めて何になるというだろう。
———だけど、だからって僕だけで彼女を救おうなんて思ってしまうのはとても傲慢なことだったのだけれども。
確かにその時、もう僕らは子供じゃなかった。だけど多感な時期に悪意に晒された心は満たされないまま、自分を守ることで精いっぱいで。僕らの心は育ち切らないまま今日までに歪んでしまった、そんな子供にも大人にもなれない中途半端な存在だったのに。
闇に怯え、暗い色を厭って泣く彼女に自分ができることは一つしかないと、あの頃の僕は愚かにもそう思ってしまったのだ。
———僕の明るさを、あの子にあげようと思った。
一人一人に違う色の羽。同じ色の羽は世界に一つとしてない、だけれど僕らは、その羽を合わせれば互いの色を混ぜ合わせて交換することができる。誰から教えられたわけでもない、だけどその術を僕は生まれながらに知っていた。
「…ちょっと、ごめんね」
動かない彼女に寄り添って、そっと両の羽を重ね合わせる。じわり、とまるで水彩絵の具がにじむように二対の羽の境界がぼやけていくのを、彼女は黙ってみていた。
そんなに時間はかからなかったように、思う。大したことをしたわけでもない、ただ彼女の藍色を少し受け取って、僕の明るい色を渡して、それだけのことだ。彼女の羽は淡い青に染まり、僕の羽はより暗さを増した茶に変わる。変貌を遂げた己の羽を見て彼女が嬉しそうな顔をすることはなかった。
「ねぇ、この色、君はどう思う?」
「…………」
話しかけても黙って俯いたまま、僕と彼女の視線が交わることはない。
それでも、色を混ぜ合わせたのは決して悪いことではなかったと、その頃の僕はそう思っていた。少なくとも彼女がその後羽を毟ることはなくなったし、狂乱と慟哭ばかりでほとんど成り立たなくなった会話も調子がいい日にはぽつぽつとかわせるようになった。相変わらず外には出られないままでぼんやりと一日を過ごすことが大半だったけれど、前よりはずっとましになった彼女の様子を見てこれでよかったのだと思った。
そう思っていたのはきっと、僕だけだったけれど。
両親に色を溶け合わせた翼を見せると、彼らは分かりやすく動揺した表情を見せた。
そんなものは軽々しくすることではない、色を溶かすということは互いの精神をも混ぜ合わせるということ。彼女の不安定な精神にお前も引っ張られてしまうということなのだと何度もそう言われて、それの何がいけないのか理解できなかった僕に母は泣き、父は顔を歪めたまま黙り込んでしまった。
羽の色を混ぜ合わせられる、それ自体は別に誰から教わることでもない。人はみんな本能的に知っていて、そして本能的にその危険性を理解して行わないものなのだと。だから、どうなるのかを知っていても敢えてこれまで教える必要もあるまいと思っていた、それが大きな誤りだったと両親は嘆く。
泣く母に何を言われても、表情を強張らせたままの父に幾度説かれても、僕には何がいけないのかやっぱりわからないままだった。
だって彼女の精神は多少なりとも落ち着いたのだろう。僕の心が彼女に少し混ざって、僕は彼女の心を受け取ることができたのだろう。それの何が一体いけないことなのか、幾度説明されても分からなかった。彼女を蝕む苦しみを少しでも取り除けたのなら、それは幸福であるとそう信じて疑わなかったのだ。————この時僕がまだ正常だったのか、それとももう既に狂ってしまっていたのか、それすら今となっては知るすべはどこにもないのだけれども。
色を混ぜ合わせてからしばらくして、僕は自分がおかしくなっていることに気がついた。
好きでも嫌いでもなかった茶色い翼は少し濁った焦げ茶になり、明るいというよりは落ち着いた色調になっていて、まだ不安定な彼女を連れていくわけにもいかず一人で降りていく街では、前にも増して心無い言葉をかけられ続けた。
肉を売ってほしければ這い蹲れ、跪いて許しを乞え。そんなことすら言われた。黒は不幸を運んでくるのだと、何度も何度も繰り返しそう言われた。暗く、重たい言葉は澱のように僕の心に積もり、精神を削るようになっていた。
なぜ、とそう思った。なぜ羽の色一つで、これだけの悪意を受けなければならない。なぜ僕は、彼女は、悪意を受ける色を纏って生まれてきたんだ。なぜ僕らは何もしていないのに、彼らにあれこれと心無い言葉を投げられるんだ。僕らが持って生まれた色の羽を、なぜ彼らは持っていないんだ。なぜ、なぜ、なぜ。
答えのない問いかけがぐるぐると頭を回り、僕の心を蝕んでいく。
——————ああ、そうかと、唐突に降ってきた「正解」に、僕は目を見開いた。
羽を、消してしまえばいいんだ。
気が狂いかけていたのだろう。羽さえなければいいのにという思考は、いつの間にか己の存在をも脅かす方向へ広がっていく。街から家に帰りつくころにはすっかり、僕がいなければいいのだと、そんな風に思うようになっていた。こんな羽を持って生まれた僕が悪かった。生きているだけで、悪かった。
両親の前でおかしな様子を見せるわけにはいかないと、いつものように食事の席では明るく振舞う。あれこれと取り留めもない会話をしながら、けれどその間にも脳内ではずっと僕がいなければとそればかりを考えていた。これが羽の色を混ぜ合わせたことで生じる不調なのだとしたら————ふと頭をよぎった考えに唇を噛む。おかしくなってしまう前の彼女も、ずっとこんなことを考えていたのだろうか。自分さえいなければと考えながら、羽さえなければと思いながら、それを口に出せないまま一人で苦しんでいたのだろうか。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのだろう、どうして僕はまだなにも彼女を助けるすべを持たないまま。
その晩。なにかおかしなそぶりを見せたつもりはなかったのだけれど、それでも何かを感じ取られてしまったのだろうか。彼女が、僕の部屋にやってきてそっと手を握る。ふわ、と重ねられた羽に抗うだけの力は僕にはもう残されていなかった。—————彼女が、彼女の色を少し分けてくれた最初の瞬間だった。
…それからはもうなし崩しに無茶苦茶な色の交換を繰り返す日々が始まった。彼女が不安定になれば僕が色を分け与え、僕が不安定になれば彼女が色をつなぎ。そうやってひたすらに二人色を混ぜ合わせ続けた。———だってほかに何ができただろう、田舎育ちの僕らの手には知識一つ、薬一つ有りはしない。実の両親ですら息子の奇行を嘆くばかりで止めようとはしなくて、それでいて何かほかの助けを渡せるわけでもないのだ。
続く不調に耐えられず、僕らが二人とも狂うことで買い出しにも降りられない日々が続いた。繰り返し混ぜ合わせて不安定になった精神はもう元には戻らない、平静を保ったまま食料を買いに行くには、不安定な心をどちらかに偏らせなければいけなかった。彼女は家から出られないと泣き、両親は元より街へは降りられない。けれど、僕らは畑で獲れる野菜だけでは生きていけない。———命を繋ぐために心を犠牲にするだなんて、こんな滑稽なことがあるだろうか。
よくないことであると知りつつ、二人ともが調子の悪い日には僕が彼女に暗い色をすべて渡して出かけるしかなかった。…彼女に全ての闇を渡して明るくなった僕の翼に、街の人々は俄かに表情を変えてすり寄ってくるようになった。
明るさだけを残した僕の、黄金色の翼。苦しいことを全て彼女に預けて束の間の正気を摑む、罪悪の詰まったこの色を、彼らは羨んだ。その裏にある絶望も悲しみも何一つ知らないまま、表に見える美しい色だけを、ただ求めて羨望のまなざしを向けるのだ。
嬉しくも悲しくもなかったけれど、加害を受けないというだけで前とは比べ物にならないほど生き易いと思った。家に帰って彼女と色を混ぜ直すたび、いわれのない苦しさを感じるようになった。彼女に預けていただけの自分の苦しみのはずなのに、受け取りなおすごとにどうしてだか彼女に押し付けられているように思えてしまった。
羽を持って生きることが苦しい。明るい羽になって、辛いことはないはずなのにそれでも苦しい。彼女と分け合う日々が、どうしようもなく痛くて辛い。
そんな狂った思考を抱いて、どうしようもない愚かしさを自覚すらできずに日々を過ごして。
彼女が消えたいと笑ったその日、——————僕は、己の罪を初めてはっきりと自覚した。
「————わたし、消えて、しまいたいな」
無表情だった顔に無理やり貼り付けるように、僕を通り越してどこか遠くを見ている瞳がゆっくりと笑みを形作る。引き上げられた口角がかすかに震えて、そして彼女は小さな小さな声で「消えたい」と口にしたのだ。まるで許しを乞うかのようなほのかな笑みを以って、彼女は自身の終わりを願った。
ああ、僕は間違ったのだ。
最初からずっと、全部が間違いだった。
遅すぎる答えにたどり着いて、僕は呆然と彼女を見ることしかできなかった。
どうして、羽の色を混ぜ合わせようだなんて思ったのだろう。どうして、自分が彼女を救えるだなんて思ってしまったんだ。彼女を僕が救おうだなんて、そんなものはただの子供の傲慢だ。力一つ持たない子供に一体何ができたというのだろう、ただ彼女を傷つけて傷つけて、挙句僕の意志で追い詰めて終わりを願わせて。酷いと思っていた街の人々より、助けてくれない僕の両親より。誰より非道をひた走っていたのは他でもない、僕自身だったのだ。
彼女の色を奪うべきではなかった。僕の色を、押し付けるべきではなかった。互いの心を無理やり変えるべきではなかった。
—————だけど今の僕がいくらそう思ってももう遅い。いっそ狂うほどの痛みに襲われてもそれは僕だけの痛みではなく、彼女が引き受けてくれた僕の闇はもはや僕だけのものではなくなってしまっていて。
自分の強さを過信して、自分の弱さを彼女に押し付けて、互いに互いをそれと認識できなくなるほどに心を混ぜ合わせ、そうして得られた平穏の上で僕はのうのうと街に降りていたのだ。何が嬉しくも悲しくもない、だ。僕がしてしまったことを、彼女が受け入れざるを得なかったことを、それを人でなしの所業と呼ばずして一体何と呼べばいいのだろう。
彼女の記憶に要る僕はもういない、今ここにいる僕はきっと化け物と変わりない。
(どうすれば)
どうにかしなければ、と思った。これまでのように僕が何かをして彼女を救うのではなく、僕が彼女から奪ってしまったものをすべて返さなければと。
だけど、一体どうやって返せばいい?一度混ざってしまった心はもう元には戻らない。僕らが互いに黒く染め上げた記憶は、もうどうやっても彼女一人のものにはなりようがないのだから。
(羽を、染めれば)
ふ、と頭に出てきた考えに目を見開いた。
羽。今僕の背にある金色の羽と、彼女の背を覆う漆黒の羽と。
それまで考えもしなかったのに、思いついてみればそれは今できる最善の策のように思えた。
羽を染めるというのは、僕らが羽の色を混ぜ合わせた、その最後の行き着く先のようなものだ。色を混ぜる、と同じようにきっと誰もが生まれながらに知っていて、そして色を混ぜること以上に決して本能では手を出したりしないであろう道。
もう二度と色を混ぜられないよう、色を渡す人間はその羽を失う。相手の羽の色を丸ごと染め変えることのできる、たった一つの手段だ。
暗い記憶を取り去って明るい色だけを送るのだから、羽を移し替えてしまえば彼女の記憶に僕は残らないだろう。だって僕は君に酷いことをした、君が愛した羽の色を取り戻すことすらできないままに今日までの日々を過ごしてきてしまった。君が与えてくれる心に寄りかかったまま、僕だけが楽になっていたことだって、たくさん。
(忘れて、しまうだろうな)
苦しい記憶を消し去るのなら、その元凶ともいえる僕のことを忘れないはずはない。…それでいいのだと思った。苦しんで苦しんで、何の罪もないまま心を狂わすほどの悪意を受けたこれまでの日々なんて全てを忘れてしまったほうがいいのだと、そう思った。
彼女は幸せに生きていくべきだ。僕なんかと混ぜ合わせた心と傷ついた記憶は本来彼女が得るべきものではなかった。僕が奪ってしまった明るい笑顔を、穏やかな日々を、今度こそ彼女は誰にも邪魔されずに取り戻すべきなのだから。
「ねえ」
真っ黒に染まった羽を抱え込んで座る彼女に、答えなど返ってこないことを承知で声をかけた。
「記憶を、奪ってしまってごめんね」
君は、どう思うだろう。君が愛していた羽はもう還らない、その代わりに今僕の背にある金色をと言ったらどんな顔をするだろう。記憶を無くして新しい色を纏うことになると、そう告げたならどんな言葉を返すだろう—————。僕と彼女が一緒に居たことも、ずっと二人で楽しかったあの日々の上に伸し掛かる辛い記憶達も、全部全部消えてしまって。それと引き換えに苦しい今を忘れられるというのなら。
分からない。分からないんだ、彼女がどうこたえるのかも、これが正しいことなのかも、だけど壊れてしまった彼女を元のあの子に戻す方法はどこにもなくて、僕が彼女の笑顔を取り戻す手段はもうこんなことしか思いつかなくて。
壊れ切ってしまった彼女の意思なんてもう僕に図ることはできないのだけれども。昔の明るい彼女に戻ることはもうありえない、そんなきっかけは当の昔に逃して、狂いだしたその時から選択を誤り続けて僕らは最悪の道ばかり選んでしまった。いくら悔やんでも過去は変えられない、どうしてと何度嘆いてもそれだけで未来を変えることなんてできやしない。
だけど、彼女がもう一度笑えるのなら、僕は。
「————————」
彼女はすぅすぅと軽い寝息を立てて眠り続けている。投げかけた言葉が彼女に届いていたのかは分からない。寝ている彼女に、心を壊してしまった彼女に届いているはずなどないのだと、頭ではそう思っている。
それでもその瞬間、眠る彼女の瞳からこぼれ落ちた雫は、どうしてだか僕へ返された答えのように思えて仕方がなかったのだ。
「…………ごめん」
耐え切れず、嗚咽が漏れた。ごめん、と唸るように繰り返す。
ごめんね。黒い羽を負わされて、記憶が渦巻く中で日々を過ごして、一体どれだけ辛かっただろう。それなのにずっと苦しめ続けてごめん。ずっと辛い記憶を押し付けてごめん。僕の分まで弱さを背負わせて、僕のせいで君にまで歩いてはいけない道を選ばせてしまって。本当にごめんね。
二人で作り上げてしまった漆黒の羽を、消してしまおう。君が背負う記憶と一緒に、闇のような色を押し流してしまおう。君と僕の間にあった過去ごと、どうか君の苦しみが消えればいい。
君は消えたいと言ったけれど、だって消えるべきは君なんかじゃない。僕と君の誤った記憶を、ため込んだ心無い罵倒の数々を、そしてすり減った心を映して黒く染まってしまったその羽の色の方なんだ。君を守るどころか余計苦しめることしかできなかった、僕の狡い弱さなんだ———。
誰に教わらなくとも色を混ぜ合わせる術を知っていたように、自分の羽を彼女に移し替える方法も僕には分かっていた。
横になったまま静かに涙を流していた彼女がころり、と寝返りを打つ。小さく丸めた体を両翼でくるみこむその顔は、眠っている間ですら苦痛に歪んだままだ。
辛そうに潜められた眉と固く引き結ばれた口元に、苦い笑みが漏れ出た。苦しめることしかできなかった自分が情けなくて仕方なくって。
ぐっと奥歯を噛んでから、もう大丈夫だよ、とそっと語り掛ける。届かないことをなんて分かったうえでそれでも、言葉をかけることで眠る彼女の不安と辛苦を少しでも取り除けたらなんて思ってしまうのは僕の身勝手だ。これまでだって何度も何度も彼女に身勝手を押し付けてきて、嗚呼、本当に僕はどうしようもない人間だ。
だけど、僕が君にできることが一つでも残っているのなら。君の苦痛を楽にできる術を、僕は知っていたのだから。
薪を割る斧を持って、ゆっくり背中に当てた。肩甲骨からまっすぐに伸びる黄金色の羽。冬が近かったからだろうか、ほんの少しだけ手は震えたけれど。
すとんと、呆気ない軽い音と、一拍おいてやってくる壮絶な痛みに歯を食い縛る。
「ぐ…っ」
痛くない。痛い、わけがない。彼女が受けてきた痛みに比べれば、こんなものは痛みの内にも入らない。望まない苦しみを背負わされた彼女に、僕は望んでこの羽を移し替えるのだから。
一つ息を吐いて、残った片翼も同じように切り落とす。体を包み込めるほどの大きな羽は、体から離れてしまえば驚くほど軽く腕の上で揺れていた。
暗闇の中でもわかる黄金色の輝きに、思わず苦い笑みがこぼれた。
「君は、…何色の羽が欲しかったのかな」
こぼれ出た問いかけに、答えが返ることはないのだけれど。君が本当に欲しい色だって、僕は分かっているのだけれど。
だけど、ごめんね。僕が今君に渡せる色は、この手にある黄金だけなんだ。
君が本当に欲しい色は、こんなものではないと知っているのに。
何色がいいのかなんて、そんなこと本当は分かり切っている。
彼女が生まれ持った藍色以上に彼女を美しく彩ることの出来る色なんて存在するはずがないのだ。彼女自身が何より愛していた深い空の色が、彼女自身が持って生まれたあの色こそが彼女の背を飾るにはふさわしくて、彼女の答えなんて返ってこなくても僕はそれと分かっていて。
それなのに、今の僕にはもうそれを取り戻すための手段は一つも残されてはいない。
…本当は、羽を移しかえるのすらも僕の身勝手なのかもしれない。君自身はもしかすると、そんなことはちっとも望んでいないのかもしれない。
だけど、羽を抱えて消えたいと願う様をこれ以上見ていられなかった。だから君ではなく羽を消してしまおうと———結局のところ、漆黒の羽を消すというこの行為だって、ただの僕の我儘に過ぎないのかもしれない。僕自身が彼女の苦しむ様を見ていられずに、本人が望んでいるかすら分からない羽を移し替えようとしている。なんて、なんて自分勝手で、思いやりの欠片もない醜い生き方だろう。
君が愛した藍色を返せないこと。君が好きだった君を、取り戻せないこと。そして君が抱える苦しみを、これ以上背負わせたくないなんて言う身勝手な一存で勝手に奪い去る僕のことをどうか許さないでくれと、そんな考えを抱くことですら傲慢だと頭では理解しているはずなのに。
あぁ、人はどこまでも強欲だ。彼女に生きてほしい。彼女に苦しまないでほしい。どうかまた、心から笑える日が訪れてほしい。勝手な欲が次から次へと際限なく溢れてきて、思わず失笑する。
————だけど。
「これだけは、言えるんだ。君はずっと綺麗だったよ」
眠る君に、届かない言葉を。これだけは絶対に嘘じゃないと、僕の思い込みでも欺瞞でもないと、胸を張ってそう言い切れる。どうしようもない身勝手な我儘で、僕は君に羽を押し付けるけれど。だけどきっと、黄金色を纏って笑う君は、昔と何も変わらず美しいだろう。藍色を愛したあの頃の君とは何かが違ってしまうのかもしれないけれど、それでも君が君であることに変わりはないのだから。新しい羽に守られて、今度こそは誰の悪意を受けることもなく。そうやって君が僕を忘れた世界で自然に笑うことができるのならばそれは今よりきっと幸せなことだと。—————願わくば、そうあってほしいと。それだけ、そう思ってしまうことだけは、どうか許してほしかった。
「…好きだよ。君が、好きだよ」
背を伝って流れ落ちる赤に構わず、眠る彼女に語り掛けた。届かないからこそ口にできる思いも、あるのだと今この時になってようやく思い知る。
ずっと昔から好きだったよ。子供の頃から、大きくなってもずっと一緒に生きていくんだと思っていた。君が許してくれるならずっとずっと、最後のときを迎えるまで一緒に居たいと思っていた。
二人歩んだ道の途中で僕は愚かにも間違いを犯してしまって、それからは君を苦しめる存在にしかなれなかったのだろうけれど。
二人で歩きだしたその時から今まで僕は、できることならどこまでも一緒に歩いて行って、そうして終わりの時が来たら楽しかったね、なんて二人で笑いあえたらそれはいったいどれほどに幸せだろうなんて、いつもそんなことを考えていたんだ。
「…………ん」
ころん、と彼女が再び寝返りを打つ。僕の方に向けられた背と羽に、頃合いだと思った。
つい先刻まで己の背中にあった羽を、彼女に向けてそっと差し出す。彼女の体を守るように覆っている黒い羽に寄せれば、少ししてほのかな光が辺りを照らした。
黒い羽から少しずつ色が抜けていく。漆黒の闇が朝日に照らされるように、明けない夜が終わるかのように、その両の羽が黒から深い藍茶へ、薄い茶へと色を変えてその輝きを増していく。彼女の羽が明るくなっていくのと引き換えに、僕の持っていた羽はほろほろと次第次第にその形を崩し始めた。羽が、僕の背にあった両の翼が、なくなっていく。もう二度と戻らないどこか遠くへと、消えていく。
悲しいとも、嬉しいとも思わなかった。ただ黙ったまま、眠る彼女を見つめていた。
「……………、シュ」
ほろり、ほろり。羽の形を失って、光をもだんだんと弱めていく僕の手のひらと、反対に辛苦の色から解き放たれて光を映すようになった彼女の羽と、そして背中越しに見える涙の跡が残る白い頬と。目の前にある光景をぼんやりと眺めていたとき、不意に動いた彼女の口元を視界の端にとらえて僕は瞠目した。
「グー、シュ…」
見間違いだと、聞き違えだとそう叫ぶ僕の心を裏切って、眠る彼女の唇は再び同じ言葉を紡ぐ。
グーシュ。確かに、彼女はそう言った。
「…ッ」
呆然と、声も出ないまま目を見開く。暗闇でも鮮明だったはずの視界がいやにぼやけて、金色に輝きだした彼女の羽すらよく見えなくなって。だって、彼女が。
背中の傷が急にその痛みを思い出したかのように疼きだして、体重を預けていた両膝が堪えきれずに床へと崩れ落ちた。均等に張られた板の目を、そこに突っ張るように置かれた自分の手を、何故だか焦点の合わない目でただ見つめることしかできない。
「グーシュ…」
「………ぅ」
彼女が繰り返す。グーシュ、グーシュ…。
「っあ…」
少しして、悲鳴の成り損ないのような音が彼女の呼ぶ音に重なった。———それが自分自身の喉から絞り出された声だと気づいたのは、何度目のことだったか。
「あ、あぁ……」
息の詰まるような掠れ声を上げているのが僕自身だと分かった瞬間、堰を切ったように両目から水滴が溢れ出した。
グーシュ。彼女が幾度も紡ぐその音は、僕の、名前だ。
生まれてから今日まで、長い年月を共に生きてきた。これからもずっと共に生きていくのだと信じて疑っていなかった。当然のように二人の未来は明るいと、愚かにもそう思い込んで、自ら道を踏み外したことにも気づかないまま——————。
「グーシュ……」
いつ、以来だろうか。彼女が僕の名を、口にしたのは。
降りかかる悪意に心が壊れてしまって、当然のものだと思っていた会話は挨拶すらもままならなくなって。もう二度と呼ばれることなんてないと、そう思っていた。彼女が閉ざした心の奥にはもう化物のようになった僕しかいない、僕の名前など一欠けらも残ってなどいないだろうと諦念に似た何かで無理やりに押し込めていたはずの感情が。悲しさも切なさも、怒りめいた苦しみや喜びに似た膨大な何かも、ありとあらゆる思いがあとからあとから浮かんでは頭の中で暴れまわる。
二人、春の山で野イチゴを食べた。夏の池で水浴びをした。秋の空を見上げて手をつないだ。冬の薪割りを代わりばんこに教わった。暑くても寒くてもそこら中を転げまわって笑いあい、親たちが呆れるほどいつも、いつでもそばに居た。
同じ年の子は僕らだけ。それで、よかった。
二人だけの閉じた世界で、ずっと幸せだった。
「おる、が」
涙で何も見えなくなった視界の中、必死に手探りで彼女を探す。彼女を示す音を紡いで、ああ、そういえば僕が彼女の名を呼ぶのも随分久しいのではないかと、馬鹿みたいにそんなことを考えた。彼女が僕を呼ばなくなって、僕は彼女につききりで挨拶代わりに名前を呼ぶことも無くなって。しばらくぶりに口にしたその響きはけれど、驚くほどすんなりと舌になじんで、呼ばなかった空白の期間などなかったかのようにするりと空に紛れて溶けた。
オルガ。オルガ、オルガ、オルガ。僕の大切な幼馴染。もう今となってはたった一人の、血の繋がらない愛する家族。
「オルガ」
伸ばした手の先に、細い指先が触れる。眠る彼女に意識などあろうはずがない。だから、その行動もきっと反射に過ぎなくて、彼女の意思がそうさせたのではないだろうと、そんなことは頭では分かっていて。
「…………ッ」
それでも、柔らかく握り返された指先の温かさに、壊れた心とともに失われたはずの温もりに、涙が零れて仕方なかった。
「オルガ…………」
声にならない声で、呼びかける。
オルガ。昏々と眠る君がいつ目覚めるのかはわからないけれど。それまで、隣で待っていてもいいだろうか。君から過去を、そしてあり得たはずの未来を奪ったも同然の僕だ、謝りたいことも話したいことも、償いたいこともそれこそ山とあるのだけれど。
どうか君が眠っている今、君が目覚めるその時まで、隣にいることを許してはくれないだろうか。
「言って、て、言われてたもん、なぁ…」
目覚めた君に、最初に贈らせてはくれないだろうか。小さいころ、藍色の羽を愛していた彼女に繰り返し告げていたのと同じ言葉を。君がいつだってそう言われることを望み、もう今はどこにもない僕の羽を、君がいつも褒めてくれていたのと同じ言葉を。どうか。
君は何にも変わらない。全てを忘れてしまっても、何も分からなくなっても、僕のいない世界を歩いていく君だって、それでも僕が愛した君であることに変わりはない。消えたのは僕が作り上げてしまった黒い羽だけだ。自分の羽を愛して幸せそうに笑っていた君が消えてしまったわけでは、決してないのだから。
いつの間にか窓の外から差し込む淡い光に、家の中は黄金色に染まっていた。
夜が明ける。昇る朝日に照らされてふる、と揺れた彼女の瞼を見つめ、僕はそっと息を吸い込んだ。
彼女の目が覚めたら、真っ先にこう言うんだ。
————————おはよう、オルガ。
『本当に、素敵な羽だね』
これは、僕と彼女が羽を分け合ったというただそれだけの、平凡で在り来たりな、ただの昔話。
随分久しぶりの投稿なので緊張しています。
とある楽曲からインスピレーションを得て書きあげました。楽曲をご存じの方にもそうでない方にも、一物語として楽しんでいただけたのであればこれ以上に嬉しいことは有りません。
後から前後の時間軸や両親の視点も追加できればいいなと思い連載形式を取りましたが、このお話自体はここで一区切りですので一旦完結とさせていただきます。
感想いただけますと泣いて喜びます、よろしければお願いいたします!