清少納言
「少納言よ。香炉峰の雪、いかならむ」
雪が高く降り積もった日は、定子様が私目をお認めになった日。あの日の喜びを超えるものは一生ないであろう。
少納言は宮仕えをやめてから何年、何十年ときが経っても、毎日のようにこの日の出来事を思い出す。特に、雪の降る今日のような日は、何も飲まず、食わず、戸を開け冷たい風なんて気にもせず落ちる雪を見ては、思い出に浸っている。
定子様。絹のような髪。溶けてしまいそうな真っ白の肌。賢さと優美さが光る佇まい。人を包みこむような声。
(私のお慕いするたったひとりの女性。ずっとお仕えしていたかった、私の愛しい定子様。)
少納言が宮様に仕えた時間は米粒にも満たなかった。
才女と謳われた女も今や、木々に囲まれた小さな小屋に住み、丸くなった腰をさすりながら生活している。なわけないであろう!おんぼろな小屋なのは間違いないが、今でも腰は立ち、きびきび動いている。ただ、ときどき、たるんだ皺だらけの手を見ると、宮様に命じられ筆を持ち歌を詠んでいた頃を思い出してしまうだけ。時々、本当に一瞬だけだけれど、懐かしい気持ちが溢れ胸が痛くなるのだ。
夜、少納言は布団に入り小さくあくびをした。
私ももう長くない。次の人生というものがあるのならば、また宮様にお仕えしたい。そう願いながら眠りについた。
明日が来るのが楽しみであったあの日々をもう一度。もう一度だけ。
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「いらっしゃいませ~。」
甲高い声が耳に入ってくる。
今まで感じたことのない感触がからだを包み込んでいる。真っ白のふわふわとした布のようなものだ。
このまま眠ってしまいそうだと少納言は思う。
「わぁー!可愛い!」
透き通るやさしい声がすると同時に、華奢で真っ白な腕が伸びてきた。少納言は宙に浮いた。ひょいっとそのまま抱き上げられ、人の温もりを感じる。人間を軽々しく持ち上げるなんてどんな野郎だ。自分を抱き上げた者の顔を覗こうとすると、透明な板のようなものが目にうつった。少納言と向き合っているように見えるそれは、人間は2人も写っていない。
その板の中には、美しい少女と、彼女の腕の中にいる、お世辞にも可愛いとは言えないブサイクな犬が映っていた。
少納言は、「はぁーー!!?」と叫んだはずだった。
だが、少納言の耳に響いたのは
「ワワァーン!!」
犬の声だった。
少納言は少女の腕から飛び出し、この部屋の出口を探すために走った。四足歩行で。