5 夜明けの空の下
水の落ちる音がし、薄暗い中で目が覚めた。
暗い中に天井の梁の影が浮かび上がる。
もう一度眠ろうとしたが、また水の音がした。蛇口がよく閉まっていないのだろう。
碧は起き上がり、音がする台所へ行く。水を一杯飲んだ。蛇口を少し強めに閉めると、栓がきゅっと音を立てた。
物音ひとつしない静けさの中で、床を踏む自分の足音だけがする。
佐良のことを考えてほとんど眠れなかった。佐良の匂いが、いつまでも身体に残っている。
昼間の出来事が頭から離れない。
居間を抜け縁側でカーテンを開く。
深い藍色の下を、水平線から湧き上がるように淡い朱色が染めはじめていた。もうすぐ夜明けだ。
窓を開くと、人の活動する気配のない、透き通った空気が流れていた。
目が冴えてしまった。また同じ寝床へ戻っても眠れる気がしない。
碧は長袖のパーカーを羽織り、スニーカーをひっかけて外へ出た。
狭い坂道を下る。思ったより風が涼しい。ジッパーを首元まで上げた。
海まで一直線に見渡せる長い道だ。道は途中で民家にさえぎられるが、景色は海と空の区切りまで見通せる。
道の両脇には勢いよく雑草が生茂り、土の匂いがする。木がかすかに枝を揺らした。
この道を碧に会うために登ってきた佐良の姿を考えた。
佐良に会いたかった。
早朝の空気の中を、足はどんどん坂道を下っていく。
佐良に会いたい。
会いたい。
会いたい。
地面を踏む速度に合わせ、碧は声には出さずつぶやき続ける。
佐良がどこに住んでいるか知らない。きっと今ごろ眠っているだろう。
民家が立ち並ぶ場所で、道は左にカーブする。海を右手に、緩い坂道をさらに行くとT字路に出会った。
左へ行くと小さな商店街がある。佐良と出会った酒屋がある方角だ。碧は反対の右に進んだ。
濃厚な潮の匂いがする。
この先にある細い路地はまっすぐ海辺まで延びており、ほどなく海岸に着く。碧はその路地へ足を踏み入れた。
あおるような風が吹き、碧は顔を伏せた。
「碧」
ここで聞き覚えのある声はほとんどない。
顔を上げると、佐良が道の途中で足を止めてこちらを見ていた。
「なんで会うのかな」
佐良は嬉しいような、そうでないような微妙ニュアンスで笑った。昼間は自分から会いにくるくせに、と碧は思う。
「……それはこっちのせりふ」
息が止まるかと思ったのに、言葉が先に出た。
不満そうなことを言った割に、佐良は碧を待つ姿勢のままだった。少しほっとして、碧は佐良に追いつく。
碧が隣に並ぶと、佐良も歩調を合わせ歩きはじめた。
「眠れなかった?」
佐良が尋ねる。いつもより落ち着いた、低い声だった。
「変な時間に起きて」
「そう」
「……佐良は、眠れなかったの」
「まあね」
佐良は緩くうねる肩ほどの長さの髪を、束ねず風になびかせている。顔にかかったひとふさを耳にかけた。少し下を向き、淡々と長い足を動かす。碧はそれに合わせついていく。
ひと言も言わない。昼間の佐良は陽気で、こちらが返事をしようがしまいが、話を進めていく印象だった。雰囲気がまるで違う。胸の中をあおられているように感じ、碧は無意識に自分の喉元を触った。
波音がひときわ大きくなる。
民家が途切れ、大きく風景がひらけた。
碧は立ち止まった。
打ち寄せる波を目にし、沖から吹く風を受ける。人の姿はない。防波堤に沿って車道が緩く曲線を描きながら遠くまで続き、突端のカーブで見えなくなった。
気がつくと佐良は、碧が目でたどった道を先へ歩いていた。碧が小走りで追いつくと、佐良は防波堤の切れ間にある階段から砂浜へ降りるところだった。
階段の途中で腰をおろす。その数段上に碧も座った。
碧に背を向けたまま、佐良は頬杖をついて沖を見ていた。潮風が佐良の黒い波打つ髪をなびかせる。彼だけが停まってしまったように動かない。
碧は佐良の後ろ姿を目の端に入れ、彼の視線の行方を見つめた。それから階段を降り、佐良の隣の狭いスペースに座った。肩が触れ、佐良が身体を引くようにして碧を見た。
「ちょっと寒い」
佐良はふっと笑い、碧に肩を寄せた。
「……佐良って、なんでこんなところに住んでんの」
佐良は答えず水平線を見たままだった。しばらくして言った。
「ちょっとね、夏休みが欲しかったんだよ」
「夏休み?」
「ここに来る前、一緒に住んでいる人がいたんだ。俺はその人と一生いるつもりでいたけど、相手はそうじゃなかった。好きな人ができたって」
「……」
「話し合ったけど、あいつの気持ちは変わらなかった。彼が出ていって、しばらくそこに住んでたんだけど、耐えられなくなってさ。仕事も辞めてここへ来た」
佐良は頬杖をついて笑った。沈黙や口調から、碧はここへ来るまでの佐良の気持ちを考えていた。
「俺ってだめなやつでしょ」
「……辛かったんだろ」
佐良は虚を突かれたように口をつぐみ、目を伏せた。
「……でも碧に会えたからね」
佐良が目を細めて碧を見る。
「一目惚れだよ」
臆面もなく言う佐良から目をそらし、足元で砂に半分ほど埋もれるコンクリートの階段を見た。自分の表情を見られたくなかった。
「佐良は、俺のどこがいいの」
碧はスニーカーのつま先で砂を軽く蹴る。
「俺は人と話すの苦手だし。佐良といても何を話せばいいのかわからない。佐良から見たら俺なんか子供だろ」
「碧って、いくつ」
「二十一歳」
「俺、三十歳。たしかにね。子供とは思わないけど、碧から見たら俺はりっぱなおじさんだなあ」
「おじさんとは思ってないけど」
佐良が碧の瞳の中を見通すようにに見た。
「碧は表情に出るから、わかりやすいよ。話してくれれば嬉しいけど、話さなくてもつまらないとは思わない。好きなところなんて沢山あるよ。顔とか、きれいな目とか、眉毛とか。……碧の中も」
佐良の指が額を撫でる。背筋がざわりとし、碧は目を泳がせた。佐良がささやくように言った。
「……なんでそんなこと聞くの」
碧が思わず腰を引いたとき、佐良が手を重ねた。砂が手の下でざらりと動く。碧は壁に背をついた。その顔の横に佐良が手を置く。
「逃げないの」
佐良が見下ろしていた。その眼の奥に碧を映している。強制的ではないのに、捕らえて離さないように強い。
「……逃げない。佐良が帰ってから、後悔した。会いたかった」
碧はゆだねるように佐良を見る。
佐良は強い力で碧の腰を抱き寄せた。胸がぶつかり、佐良の顔が目の前に迫った。
「目、閉じて」
言われるままに碧は目を閉じる。息の詰まるような長い時間のあと、唇が重なった。丁寧に何度か触れ、口が開かされる。息をつくまもなく、ふたたび唇が塞がれた。舌が絡み合う。碧は腕を佐良の背中に回した。熱を交換し合うように、身体が熱くなる。しがみつくようにシャツの背中をにぎりしめた。
唇が離れ、息をつきながらまぶたを薄く開けると、佐良の黒い目がこちらを向いていた。
「これって夢」
佐良の唇がそう動くのを、熱に浮かされたように見た。
「夢じゃない」
息の混じる声で答える。
佐良の指が頬をつたい、首すじをなぞる。耳の下に唇が触れ熱い息がかかった。碧は短く声を漏らし、身体を拗らせる。スウェットの隙間から手が忍び込み、腰のラインにすべらせた。
「ま、待って、佐良」
碧が声を上げた。碧に手を阻まれた佐良は、碧の首元から上目遣いに見た。
「ごめん。……だから夜に会いたくなかったんだよね」
佐良は碧をもう一度抱きしめた。碧も佐良の背に腕をまわす。髪から漂う甘い香りを嗅いだ。
「佐良と一緒に眠りたい」
「帰ろうか」
身体を離そうとした佐良に、碧はふたたび顔を近づける。鼻先が触れた。目の下で佐良の口元が笑う。
「碧って結構」
「うるさい」
そのまま軽口を塞いだ。
空には朱鷺色が広がり、もうすぐ太陽が昇ることを知らせていた。波の音は止まることなく鳴り続けている。鼓動の早さに反して胸の中は穏やかに凪いでいた。
佐良の髪が薄紅の光に透けるのを見て、碧は目を閉じた。