4 夕立(2)
しばらく雨音と雷鳴が続いた。
碧は佐良の腕に守られ、音が徐々に遠のくのを聞く。
「好きなんだ、本当に、碧のことが」
ふいに佐良が言った。いつものような耳に触れるだけの言い方ではない。碧は目を開け、佐良の腕の隙間から部屋の向こうを見つめた。
「碧は俺のこと、軽い男だと思って警戒してるかもしれないけど、嘘じゃないよ」
ひとつずつ選ぶような言葉が、佐良の胸を通して聞こえてくる。
「完全に便乗してるけど。しばらくこうさせて」
「……いいよ」
碧が佐良の胸に向かってつぶやいた。
佐良がみじろぎした。
「……本当?」
「だから、いいって」
「……やばい、抱いてしまいそう」
「そこまでは許してない」
頭の上で佐良のひそやかな笑い声が聞こえた。
「好きだよ、碧」
佐良の鼓動が耳に伝わる。
嵐のように降り注ぐ雨音と、雷鳴が碧を迷わせる。
佐良はどんな人なのだろう。
碧よりずいぶん年上だ。多分十歳ぐらいは。こうして誰かを抱きしめることにも慣れている。ここを離れる時には、簡単に別れるのかもしれない。あっさりと、あっけないくらいに。碧にはそうできる自信はない。嘘じゃないという言葉を、どのくらい信じていいのかわからない。先がどうなるかもわからない。
佐良の甘い匂いがする。
「碧」
佐良の指が碧の頬に触れ、碧は顔を上げた。
目にかかる前髪をかき分ける。黒い瞳が碧を見つめていた。長い睫毛が薄く伏せられ、顔が傾く。唇が近づく。碧は目を閉じた。
だめだ。
碧は佐良の胸を押し返し、腕から逃れた。はずみでカウチから転げ落ちる。佐良が腰を浮かせ、延ばした手を避けるように碧は立ち上がった。佐良の驚いた表情は、碧を見るなり寂しげな笑みに変わった。
「碧、ごめんね」
「……顔洗ってくる」
背を向け、居間を出た。後ろで小さくため息が聞こえた。
蛇口をひねり、勢いよく出た水を受けて顔を洗い流す。洗面台の横に下がるタオルで拭き、明かりもつけないまま暗い鏡を見た。自分の表情はよく見えない。
碧は鏡に額を押し付け、ひとつ息をつくと居間へ戻った。
佐良は縁側でカーテンを開き外を見ていた。いつの間にか夕立は去り、空は明るい。
「帰るよ」
「……うん」
佐良はそのまま玄関へ足を向けた。碧はあとを追った。
「じゃあ、またね」
スニーカーを履き、上がり框に立つ碧を振り返る。
何を言えばいいかわからなかった。
「そうだ。プリン買ってきたんだよ。冷蔵庫にあるから食べて」
「餌付け?」
佐良は目を開き、笑った。
「そう。餌付け。胃袋押さえようとしてんの」
じゃあね、と佐良は玄関を出た。
佐良の影は扉のすりガラス越しに遠ざかって見えなくなった。
碧は台所に行き、冷蔵庫からプリンを取り出した。コンビニで売っている、どこにでもあるメーカーだ。
居間に座ってフタを開け、一口食べる。甘い味が口に広がった。餌付けか。なんだか笑えてきた。
「佐良」
さっきまでここにいた人の名を呼ぶ。
胸苦しさが押し寄せる。スプーンを持ったままテーブルに頬をつけた。
佐良が開けたままにしたカーテンの隙間に、夕立が去った空が明るく広がっていた。
自分を見つめていた、佐良を思い出す。
碧は身体の奥から湧くような息を吐いた。