2 夏の椿
いつもより雲が少なく、暑い日だった。青い空がところどころ見える。
まだ梅雨は明けておらず、風を通せば充分に過ごせる。クーラーはぎりぎりまでとっておくつもりだ。
太陽がちょうど真上に来たあたりの時刻に、玄関の建て付けの悪い戸ががたがたと音を立てた。
玄関を覗いてみると、薄い木箱を抱えた佐良が戸を開けたところだった。
「お昼、まだ食べてない? そうめん持って来た」
そう言ってにこりと微笑む。碧はその表情を見ただけで負けたような気分になった。柱に寄りかかり腕を組む。
「まじで何なのあんた」
「ご飯は楽しく食べたほうが栄養になるらしいよ」
佐良は靴を脱ぎ上がり込んだ。見ると、手に下げた袋にも何やらいろいろ入っている。
「ストーカーかよ」
「ま、そんなもんかな」
勝手に廊下を奥へと進んでいった。あまりに自然な態度で思わず見送る。遅れて我に返り、彼の後を追った。
台所へ入ると、佐良が流しの下を開いては覗き、小鍋を発見して取り出していた。さっと洗い流して水を満たし、火にかける。
「みりんと醤油買ってきた。だしは顆粒で勘弁して」
「は? 勝手に」
「だってないでしょ」
「醤油はある」
「あの小さいやつ? おたま出して」
やんわりとした妙な圧力に押され、碧は食器棚からおたまを取り、差し出した。たしかにあるのは手のひらに乗るサイズのボトルだ。いつの間に把握したのだろう。
佐良はあれこれと指示を出し、碧を動かした。彼の手際はよかった。
麺つゆが冷え、そうめんが茹で上がり、碧は居間に運ぶことになった。
佐良は薬味も持参していて、ミョウガやシソ、ネギにショウガの刻んだものを皿に盛り、つゆ鉢とともに盆に乗せて碧の後について来る。
座卓に並べられ、二人は向き合って座った。
「いただきます」
彼は拝むように手を合わせ、さっそく食べはじめた。
碧は腑に落ちない気分でそれを見ていたが、結局ガラスのそうめん鉢に箸を延ばした。氷が揺れ涼やかな音を奏でる。
麺をつゆに浸し啜ると不思議と安堵が広がる。佐良が碧の表情を見て微笑んだ。
開け放たれた縁側の窓から、夏の匂いのするような涼やかな風が入る。
風鈴はないけれど、そんな音が聞こえてきそうだ。
二人で食事をするのははじめてだった。佐良はちょっとした何かを持ってくることはあったが、小腹を満たす程度のもで、料理などすることはなかった。碧は黙々とそうめんを平らげながら、妙に距離が近くなってしまったような気がしていた。
「そうめんセットがあるとは思わなかったよ。気分が違うね」
佐良は嬉しそうだ。
「夏は家族でここに来てたから。そのときに使うものはある」
「今年も来るの?」
「多分来ない。部屋に風通して、草むしりするぐらいだから、俺がやれば」
「ふうん」
ガラスのつゆ鉢は彼が手にすると、つるりとなまめかしい。その鉢を持つ指先が白く細っそりとしている。爪の形がきれいだ。
佐良が上目遣いに碧を見た。
「俺が食べてる姿、そんなにいい?」
碧は箸を止めそうになった。知らない間に佐良の仕草を目が追ってしまっていた。
「ずっと見てるからさ。……ちょっと好きになった?」
「なるわけない」
「俺は碧が好きだよ」
佐良は軽やかに言った。
「信じられない」
「たしかに」
彼はあっさりと認め、箸で細い糸のような麺をつまんだ。
「俺も信じられない」
陽気な声がささやくようなトーンに変わり、碧は佐良を見た。心臓が鳴った。声が耳の奥を振動させ、身体の芯を軽く痺れさせる。
「碧の名字はなんていうの」
佐良が聞いた。フルネームを聞くなど今更だった。碧は名前を聞かないことでお互いの立場を曖昧にしておきたかった。佐良もそうだと思っていた。
佐良はこちらを見ることもなく、そうめんを啜っている。
沈黙に負け、碧は答えた。彼は碧が立てた壁をふやけさせ、容易く越えてくる。
「……小山。小山碧」
「ミドリってどんな字」
「紺碧の碧」
「そう、きれいな名前だね」
「女みたいな名前」
「いい名前だよ。この場所に似合うね」
「俺はこの辺りの人間じゃないし。8月までしかいないから」
「そうなんだ。じゃあ、俺と一緒」
意外だと感じた。彼がこの町を去ることにではない。佐良がここへ来ることに終わりがあるという発想が、何故かなかった。
碧は水気を吸ったそうめんを箸ですくった。溶けて小さくなった氷がガラスの鉢の中で音を立てた。
食事が終わり、二人並んで食器を洗った。広い台所は最低限のものしか置いておらず、がらんとしている。影が落ちる室内に、流し台の窓から光が差し、水にきらきらと反射した。
「そっちに、布巾」
佐良が言った。
碧は自分のそばにある布巾に手を延ばそうとした。同時に佐良が碧の背中に手を添え、腕が延びる。佐良の首すじが碧の目の前にあった。彼の体温とともに、甘い香りがした。
「椿」
碧は思い浮かんだ花を口にした。
「そう。椿」
「甘い香りがする」
「そうだよ。整髪料が肌に合わないから、椿のオイルを使ってる」
「女みたい」
「そうかもね」
「……懐かしい匂い」
佐良は目を伏せ、乾いた笑いをもらした。
佐良が食器を拭き、碧に手渡していく。それを棚にしまった。佐良は相変わらずてきぱきと手を動かしている。一人の暮らしに慣れているのだろうか。
「名前、どんな字」
「にんべんに左の佐に、良質の良。怜悧の怜に数字の一。佐良怜一」
「ふうん」
頭の中で文字にしてみる。
佐良は声を出して笑った。
「好きだよ、碧」
佐良は布巾をしぼると布巾かけに広げて干した。横顔を見上げる。佐良が来るのはまた数日後だ。碧は一瞬よぎった切なさを見ないようにした。
片付けが終わると佐良は帰って行った。
空は雲に覆われはじめていた。まもなく雨が降り始めるだろう。碧は開け放していた縁側の窓を閉めた。
居間に戻り、座布団の上に倒れ込んだ。転がり、仰向けになる。
椿の花はその形のまま、落ちる。
地面に落ちた赤い花思い浮かべた。
あれを見たのはいつだったか。冬の。そうだ、垣根の近くに椿の木があった。
碧はうとうとと眠りに落ちていく。
まだ甘い匂いがする。
佐良の首すじから香った、椿の匂い。