1 スイカの赤い実
季節はずれになりましたが、夏のお話
梅雨の空の下で、濃い緑が風に揺れていた。
遠く水平線は薄水色で、その上に白い雲が広がっている。
明るい曇り空だ。
碧は縁側の窓を開け放し、座布団を二つに折って枕代わりに頭を乗せている。広がる景色を見ていた。
風が前髪を揺らして通り抜ける。
Tシャツの袖から延びる腕を投げ出した。ちょうど昼寝から目覚めたところだった。
海に面した高台のこの家は、元は祖父母がいた。誰も住まなくなったここ数年は、夏に風を通しに来るだけの場所だった。
今年はずいぶん早いうちから、碧だけがここへ来ていた。一人で長い夏を過ごす。
7月初旬に来てから2週間ほどが経っている。すでに何もない海辺の町での生活に飽きていた。本を何冊か持ってきていたが、のんびりとした空気にうとうとするばかりで、一向にページは進まない。寝しなに手にしていた文庫本が無造作に落ちているのに気がついて拾い上げ、頭の上に置いた。
湿気を含んだ風が、頬や腕に触れては通り過ぎる。
目覚めのぼうっとした頭で枝のざわめきを聞いていたとき、建て付けの悪い戸を開ける音がした。何度か明けては閉めを繰り返し、ようやく開く。
「碧、いる?」
陽気な声が聞こえた。
「いるよね」
碧は返事をしなかったが、勝手に上がり込んだらしく、床板の軋む音が近づいてきた。
どこかに隠れようと思ったが思い浮かばす、面倒になり、座布団を枕にしたまま縁側に背を向けた。
「スイカ、持ってきたよ」
背中から声がかかり、結局は半分ほどそちらを向いてしまった。
玄関からつながる縁側から、男が笑顔を覗かせた。くせのある髪を無造作に束ねている。
「あ、やっぱり食べたい?」
小脇に小玉のスイカを抱えていた。
「もらったんだ。冷やしてきたから、食べようよ」
歌うような調子を残し、足音が離れていった。玄関奥の台所へ行ったのだろう。
彼が来たときは、適当にのさばらせておく。はじめの頃は追い返すことに苦心していたが、どうでもよくなった。なんだかんだと言い訳をつけ、彼の気が向くまでは帰ろうとしない。
彼はこの辺りに住んでいるというが、碧もよく知らない。あまり知りたくなかった。
彼とは日用品も扱う酒屋で出会った。
ここへ来た初日、食器用洗剤を買いに行き、はじめて顔を合わせた。
彼は印象深かった。さびれた町にそぐわない。きれいな鼻筋に、額に落ちる前髪の間から碧を見る目が黒々とし、吸い込まれるようだった。くたくたのTシャツにジーンズという出で立ちなのに、妙に目を惹いた。
この町で、彼のような人に遭遇するとは思わなかった。
ふたたび会ったのは翌日、洗濯洗剤がないと気づき、店を訪れたときだった。
彼は碧に気がつくと、また会えたね、と破顔した。一瞬気持ちがふわりとし、戸惑い、目をそらした。
店を出ても彼は碧についてきた。はじめは方向が同じだけかと思っていた。
坂道の途中の、これ以上は行き先がこの家しかないとなったあたりで、碧は振り返った。
「なんでついてくんの」
「面白そうだなあと思って」
「それだけでついてくるのって、失礼でしょ」
「いいじゃない。これから知り合いになろうよ」
微笑んだ。
ほだされそうになったのは、1日目の夜が、思ったよりも寂しく思えたからかもしれない。
碧は彼を無視して、坂を駆け上がった。見透かされたような気分で嫌だった。
それから彼は数日おきにこの家を訪れている。
もっと早い段階で追い返せばよかった。
彼は得体の知れない感じがする。近づいてみたいけれど、そうしてはいけなような。
ふたたび足音がし振り返ると、スイカを乗せた皿を持って彼が入ってきた。台所から近い廊下から入ればいいものを、わざわざ玄関を通り縁側から来た。
皮が取られ盛られた実は妙に赤かった。
彼は碧の足元をまたぎ、皿を中央にある座卓に置いた。
「食べよう」
「いいよ」
「なんで? 美味しいよ」
彼が座卓の向こう側に座る。視線が気になり、今度は縁側に向けて寝返りを打った。
「スイカ、好きじゃない」
「嘘だね。俺が見せたとき、のどが鳴ってた」
立ち上がって畳を踏む足音がし、すぐ背後に膝をついたのがわかった。スイカを手にした彼が覗き込む。
「ほら、食べてみて」
低いトーンが鼓膜を騒つかせる。口元に赤いスイカが近づいた。逃げようがない。このままだといつまでもそこにありそうだった。
碧は小さく口を開けた。白く長い指が、赤く温いスイカを押し込む。指は舌先に触れ、唇を撫でる。口端から流れる滴をすくった。
「……かわいい表情して。とって食うわけじゃなし」
額から落ちる後れ毛が碧の頬を撫で、離れた。
碧は口元をぬぐった。
口の中で歯に当たるはずの種を探したが、感触は見つからなかった。あの赤さは種の黒が取り除かれているためだった。
背中の向こうで、スイカを食む音がしている。
濃い緑の繁る枝の向こうに、薄水色の水平線があった。米粒のような船影が見えなくなる。
セミの声が、遠くでしていた。
とって食われるつもりは毛頭ない。
そもそも、とって食うなんて、意味がわからない。
「碧のぶん、冷蔵庫に残してあるよ。食べてね」
しばらくすると、彼はそう言って帰って行った。
「あいつ」
何しに来たのだろう。
そう、いつも思う。
無遠慮にこの家に足を踏み入れ、ただ過ごし帰っていくだけなのだ。
佐良と名乗っていた。その名をまだ呼んだことがない。
彼がいなくなった家の中は、ささやかに届く潮騒だけだ。
畳に、赤い染みが残った。