遭遇
「そこで何をしている」
突然響いた低い声に、初音は文字通り飛び上がる。拍子に口に含んだ杏の種が喉の方へ転がった。
「グッ、……」
喉の奥が嫌な風に鳴り、すぐさま咳が襲ってくる。
「おい、大丈夫か」
盛大にむせる初音に、相手が心配そうに声をかけてきた。
「は、ぅ……っ」
答えようとしても喉から漏れるのは息ばかり、肝心の声が出てこない。苦しさに生理的な涙が浮いてくる。
「無理して話そうとするな」
男は初音の近くまで歩み寄ると、背中に手を触れ軽く撫でさすった。
「っ、すみ、ませ……っ」
蚊の鳴くような声でかろうじて告げる。背を上下する温もりが心地よい。
「……ぅぇ…っ」
口元に当てた手のひらにころりと種が当たり、ようやく息ができる、と初音は安堵した。
「もうよさそうだな」
背中に触れていた温もりが離れ、ようやく相手の姿を視界におさめることができた。最初の印象は背が高い。近くに立っているからということもあるだろうが、かなり首をそらしてようやく目が合った。
「……!」
思わず息を飲む。くっきりと陰影のある凛々しい目元、意志の強さを感じさせる一文字に上がった眉。まっすぐ通った鼻筋、唇はいたずらっぽく持ち上がっている。美丈夫、という言葉がよく見合う容貌に見入ってしまう。
「俺の庭で盗み食いとは、大した女だ」
(見られてたの……!?)
かっと頰が熱くなる。しかも今、彼はなんと言った?
(俺の庭、って……この人、まさか)
斎賀章継。まだ見ぬ夫。この数か月、ひたすら訪れを待った相手。思いがけない遭遇に衝撃を受けつつも、ここは穏便に済ませるべきと判断して頭を下げる。
「……ごめんなさい」
「別に怒っているわけではない。どうだ、うまかったか?」
背後の杏の木を顎先で示しながら、彼は問いを投げかけた。
(そんなこと聞いて、どういうつもり?)
闇夜にきらめく黒曜の瞳にとらえられ、初音は混乱しながらも口を開いた。
「…はい。食べ頃はまだ先ですが、酸っぱくて爽やかな味がします」
「そうか」
軽く頷くと、彼は初音の方へ腕を差し伸べた。近づいてくる指先に、初音は身をすくませる。続いて整った顔が寄せられた。息がかかりそうなほどの距離に、呼吸を止まる。
お互いの顔の距離の近さに耐えかねて、初音はぎゅっと目を閉じた。額に生暖かい息がかかる。緊張が高まりぐっと歯を食いしばった。
と、頭の後ろでぱきりと軽い音が鳴る。
「……え?」
おそるおそる目を開けると、橙色が飛び込んでくる。目の前で、長い指が杏の実を弄んでいた。その手が持ち上がり、月明かりに照らされて白く光る歯が橙に沈んだ。初音は一連の動作に見入っていた。
「うん、少し酸味があるが、悪くない」
彼は杏を食べ終わると、初音のことを見下ろした。
「お前、名前は?」
いきなり核心に触れられて、鼓動が騒ぎ出す。
「え、と……」
この状況で名乗るのは気が進まない。庭の杏を盗み食いし、しかも喉に詰まらせるという二重の醜態を見せてしまった後だ。初音が言いよどんでいると、しびれを切らした章継が嘆息した。